スーツを脱ぐときは車の後部シートに寄り掛かり、ジャケットを脱いでぐいと、ネクタイを緩める。それと同時に、ファットガムの口からは盛大なため息が漏れた。
「最悪やったわ」
「そう言わないでくださいっス」
事務所の車を運転する切島が眉を下げ、苦笑するのがバックミラー越しに見えた。
新年早々、緊急出動の連絡で事務所に呼び出されたと思ったら、スーツを着ろと渡された。年末の忙しさで全く体型の戻ってない身体に、とにかく早くと急かされて仕方なく少し緩いスーツを着込めばそのままタクシーに乗せられて、連れていかれたのは全然知らん、偉そうな人の新年パーティ。どうやらその人は、ファットガムの大ファンで、どうしてもとごねられたらしい、とそれを聞いたのは帰るころのことだったが。場の空気を読むのはまあ、得意な方だと思う。なんとなく着いた時点で状況は把握したファットガムは、いつものように、明るく楽しく周りを盛り上げ、笑わせ、かたっ苦しいスーツを我慢して纏ったまま100人ほどのパーティ会場内を巡って愛想を振りまくった。そこまでは、まあいい。
ファットガムは頬杖を突き、フンと鼻を鳴らす。
「縁談だなんて、聞いてへん」
「……言ったら絶対、行かないっていうからって、天喰先輩が」
「あー、もう、環め」
しかしその通りだろう。天喰の思惑通りに事が進んでしまったことは悔しいが。ファットガムはがしがしとセットした頭を乱暴に掻きまわした。
そうなのだ。ファットガムを呼んだという、偉い人。その人は突然、ハタチになる娘をファットガムに紹介し、縁談を持ち掛けたのだ。と言うか多分、それが目的だったのだと思う。だからこその、ヒーロースーツではなく、スーツ。首元も苦しいので、ボタンを一つ外した。そんなことのために着せられたのかと思うと、今すぐとっとと脱いでしまいたい気分だ。
「綺麗でおしとやかな子だって……天喰先輩言ってましたけど」
「まあ……そうやな」
綺麗な子、ではあった。俺には勿体無いくらいの。目元がすっきりと切れ長で色が白い、黒髪の、和服がよく似合う美人。だけど、それだけだ。
「別嬪さんではあったけどな」
「そうなんですね」
なら、と言いかけた切島は、交差点で赤信号に捉まったところでなぜか口を噤む。運転中とは違い、アイドリングの音が低く響くだけの車内は静かだ。ファットガムは肩を竦め、ミラー越しに切島を見れば、こちらを見ていた切島と目が合った。その目が、どこか不安げに揺れていたのでフフと笑ってやる。
「断ったに、決まっとるやん。さすがに、ありえんわ、なんてすっぱり振るのは可愛そうやから、『ヒーロー業と添い遂げるって決めとるんで結婚はせえへんのです』って真面目な顔で言うてきたけど」
くすりと切島が笑う。その表情が安堵で緩んだ。
ああもう、そんな顔をするくせに。君は、あと一歩、俺に踏み込んでこない。俺も、踏み込んでこない君に対しては、ただの事務所の上司であろうと思ってたけれど、でも。
「――も、そろそろ、ええ子のふりすんの、やめや」
「え?」
切島が振り返ろうとしたのと同時に、クラクションが鳴る。信号が青に変わっているのだ、慌てて切島はアクセルを踏み、滑るように走り出した車内はまた、無言になった。免許取りたて初心者マークの切島は、生真面目な顔でハンドルを握っている。ファットガムはヘッドレストに手を掛け、運転席の近くに顔を寄せる。
「次、右な」
「え?」
事務所への道は、まっすぐだ。けど、さっき、天喰から直帰で大丈夫だと連絡が来ている。ならばもう、切島も一緒で構わないだろう。そういうことにしてしまおう。
「おれんち」
「あ、はあ」
ウィンカーを上げ、ハンドルを右に切りながら、切島がちらちらと視線をこちらに飛ばして来るのを無視して。ファットガムのマンションに付くと、そのまま車を地下駐車場に誘導する。駐車して、エンジンを切って。切島はまたちらりとバックミラーを見たので、ファットガムはそこに映る切島の綺麗な左目を見つめた。
「切島くん」
「はい……」
「俺、誰かと結婚したほうが、ええと思う?」
ぱっと、彼が振り向いた。その表情はひどく困惑して、動揺して。赤い瞳が揺れる。
「君は、どう思う?」
切島は何か言おうとして開けた口を閉じ、考え込むように少し視線を下げ。けれどそれ以上何も言わずに俯いた。ファットガムも無言のままそうしていれば、切島は助けを求めるような顔でちらりを顔を上げて、ゆる、と首を横に振った。
「分かんない、っス」
「分からん?」
「ファット……あの、俺、っ」
何か言いかけたその顎を掴んで、口付けた。びく、と肩は震えたけれど、けれど拒むことはない。そうやろ、やっぱり、俺と同じ気持ちやんな。チュ、チュ、と触れたわせたあとくちびるを離せば、うっすらと目を開けた切島の頬は、薄暗い地下駐車場の中でも分かるくらい、赤くて。するりと頬を撫で、顎から手を離してファットガムはにやんと笑った。
「はよ……部屋戻って、スーツ脱ぎたいわ」
「あ、ハ、ハイ、っスね」
我に返ったような顔で、お疲れ様です、って。いつもの威勢のいい声はどこ行ったのかってくらい、小さな声で切島はそう言って、運転席のドアを開けた。ファットガムも、ドアを開けて。車の横で、所在なさげに立つ切島の手首を掴んだ。
「君も、脱ぐんやで」
「え?」
「このまんま一晩、服着せる気ィあらへんからね」
手をつなぎ直し、歩き出す。切島は戸惑うようについてきたけれど、でも、エレベーターホールでエレベーターが降りてくるのを待つ頃にはじわじわと、分かってきたようで。ぎゅっと汗ばんだ手が、ファットガムの手を握り返した。
「さっきの、質問、なんスけど……ファット、結婚しないで、ください」
「せぇへんよ」
チン、と軽快な音を立ててやってきたエレベーターに切島を引きずり込んで、もう一度口付けた。
ああ、そうやな。
するとしたら、いつか、きみと。