ぬえとり 序 飛騨国は高山に両面宿儺といふ豪族ありき。
人食らひ、呪術師を玩ばば呪ひを放りて都を襲へり。
わたりは恐れ敬へど、絶えて良とせざりしため彼らはことごとく殺されし、いと畏きことなり。
さる畏き両面宿儺が、山に鳥を捕まへきといふ。
人の身に鳥の足、鳥の羽を持つといふあやしき姿しおり、宿儺はこれを鵺と呼びて住処へぐし帰りしなど。
されば、彼は何を謀るらむや。
我々には絶えて、鬼神の考ふることはいと難くわからずといふに。
「物の怪だと」
「はい、村の者が申すには山の裏手で襲われたと」
宵の口も過ぎた頃、森深くに展開した領域内にて両面宿儺は酒もほどほどに微睡んでいた。
色とりどりの旬菜を載せた膳を前にして、その姿は異形の威厳を湛えつつ実に穏やかである。
彼が側に遣わして早幾年となる清げな僧、裏梅は宿儺の手に委ねられた盃へ酒を垂らしながら続けた。
「それも人ほどある鳥で人語を介すのだとか、やれ祟りだの不作の凶兆だの騒いでおりましたが」
「下らん。いずれも唐より流れ着いたものか畜生と人の間の子だろうよ、俺が手を下すまでもない」
「それはそうなのですが、村の者がしつこいのです」
「見返りは」
注がれた酒を最も容易く飲み干すと宿儺は心底興味がないといった風で、この飛騨の地に赴いて恒例となってしまった“物の怪退治”の褒賞を問うた。
なんとも不可思議なことに、両面宿儺はいまこの時において飛騨に降り立った観音の化身として原住民に崇められている。
切っ掛けは都から東へ下る最中岩窟にて潜み、朝日と共に出たところを原住民たちに見つかった末その異形の出立ちを恐れられるよりも、寧ろ天が遣わした聖なるものとして受け入れられてしまっただけの些細な事であった。
故にこの地は隠れ蓑としては好都合であったが、元来暴虐と殺戮を好む宿儺にとっては大変居心地の悪く刺激に欠けた場所となってしまい、現地にうまく溶け込んだ裏梅の密やかなる貢物...油断し切ったところを狩られた愚かな原住民の血肉が無ければ更地と化していただろう。
「望めば女をひとり差し出してもよいと。歳の頃は十五、十六だそうで」
「...ここの女は骨ばかりで味が薄い」
「承知致しました。断っておきましょう」
いかにもつまらないというふうに身体を横たえた 宿儺から盃を受け取り、静謐な所作で空となった酒壺と膳を下げた裏梅は恭しく首を垂れた。
従者が去り主人のみが残された昏き寝殿、蔀戸が開け放たれ几帳に映る灯台の火もいよいよ尽きるかと思われる子二つの頃、妙な悲鳴が聞こえた。
「...獣か」
それは甲高く、うら若き娘の嬌声に似ているが人語には程遠い曲調を成し野卑な響きを孕んでいる。どこか幼いけだものの声だ。
「春にもあるまいに盛んな、それとも件の物の怪か」
寝殿の外には夜に沈んで眠る山々があるばかりで、それらを薄目で見渡しながら宿儺は緩やかに腰を上げた。
灯台の揺らめく火に照らされ壁に鬼神の影絵が生じる。夜の色に染まっていた室礼はより一層色を濃くし、塗籠は暗闇の底で息を殺している。
そうして一体誰に聴かせているのか、名も知らぬけだものの嘆きだけがこの静寂の中でか弱く響いていた。
まるで逸れた幼児が見つけてくれと泣いているように。
正味、痩せこけた土地からの見返りなどどうでも良かった。
この身にあまる退屈を殺せる惨く甘美な何かがあれば、血を求める両面宿儺にとってこれほど素晴らしいことはなかったのだから。
夜に響くけだものの嘆きに誘われて、己が底で眠りかけていた獣性が久しく動き出すのを宿儺は感じ取っていた。
少しでもこの漫然たる日々にとどめを刺したい。
先程春でもないのにと呟いたことを振り返りながら宿儺は半ば挑戦的に微笑む。
「なに、一介の塵芥相手に期待はせぬが、惰眠を貪るよりは面白かろうて。何より腕が鈍ってはかなわん」
そう独り言ると灯台の火を揉み消し几帳を超えて奥へと下がった。
灯りを失った母屋が夜に呑まれて静まり返る。
その無音の中に幼児のような悲鳴だけを残して、領域を隠す山々は眠りはじめた。
明朝、まだ木々が朝露を宿し夜中に取り込んだ冷気を空へと解放して間もない時刻。
その鳥は枝葉を伝う雫を食んで細い喉を潤していた。
鳥というには些か大きい。人の幼子ほどである。
注視すればなんということはない、背を覆う翼と脚を除けば五つ六つになろう男児とそう変わらぬ容姿であった。
まず両翼は如何にも猛禽に相応しい構造色を成し今にも滑空せんばかりにごそごそ震えていたが、地は肉厚で仰々しい檜皮色ではなくほのかに芯を覗かせる花のごとき退紅色であった。脚は大小の傷こそあれど、未だ巣立ちを迎えぬ烏の柔くしなる其れと同じである。
さらに頭髪は翼と同じ退紅色をしており所々に松や樫の小枝が絡んで叢さながらであったが、短く刈りそろえられた見事な頸からは人の痕跡が伺えた。
要は、どこぞで飼われていたところを逃げ出して来たのであろう。
やがて鳥は華奢な首をはらはらと振り柔肌や髪に垂れた朝露を払うと、幹を力強く蹴って樹木の頂点へ移動した。衝撃を受けた枝葉から小雨のように雫が落ちてきらきらと乱反射する。
そして上る日の強まりつつある陽光を受けて、歪ながらも初々しく輝く肢体が浮き彫りとなった。
まさしく物の怪に相応しい。
この時、名もない小さな物の怪はまだ知らなかった。
いずれ己が身に訪れる鬼神との邂逅と、血骨に彩られた耽溺の日々が待ちうけていることを。
両面宿儺の領域を出ると、そこには彼の庭となった高山の地が広がっている。
見渡す限り針葉落葉の区別なく繁茂する樹海であり、ひとたび踏み入れば噎せかえるほどの濃い緑に包まれる。そこは未だ神秘を残し神代の空気を携える秘境でもあった。
苔生し無造作に犇めき合う岩岩を飛ぶように渡りながら、大弓を手にした両面宿儺は獲物を探す。
物の怪風情に期待はしていない、されど落胆も求めていない。ましてや高揚もしていなかったが、純然たる狩猟本能だけは忌々しくも腹の奥底で渦巻いていた。
身体が血を求め殺意が迸る。殺めたい。故に殺める。宿儺にとってはただそれだけのことであり、また彼の殺意には常に裏表というものが存在しなかった。
今この時ばかりは退屈という堪え難い相手を射殺すために森を闊歩しているが、果たして宿儺自身がその我欲を把握しているかどうかは甚だ疑問である。
「この辺りか」
裏梅に案内させればよかったか。
記憶を頼りに訪れた山の裏手は閑散とし、微かな風と小川の囁くようなせせらぎだけが一帯を支配している。鬼神の放つ迫力に気圧され獣はおろか虫さえも悉く息を潜めているようであった。
暫し気の赴くままに周囲一帯を歩いてみるものの、獲物らしい獲物は見当たらずただ足指に土塊と露草が纏わりつくばかりである。
つまらない。
これなら惰眠の方こそ貪る価値がある。
訪れて早々散策に飽きてしまったようで、暇を殺しに来たつもりが暇に殺されかけている両面宿儺は溜息も程々に踵を返した。踵を返したが...
刹那、微香が臭覚をくすぐる。
横目で香りの正体を探ると、小川を流れる異物に目が移った。
退紅色の羽。
緑の中で異彩を放つその羽はまだ落ちて日が浅いのだろうか、小川の上を滑らかに揺蕩いながら水を弾いて構造色を煌めかせている。
水の上を戯れる様は蝶を誘う花のようでもあった。
宿儺は音もなく水の淵に降り立つと、黒く鋭利な指先でそれを摘み上げる。
鳶や鷹の羽にも似ていた、しかしそれは陽光に透かすまでもなく明瞭に、わずかに褪せた暖色を孕んでそこに存在していた。
繊維を割いて現れる硬い筋にはさらに濃い色が走り、まるで乳に滲んだ鮮血のように滑らかで毒々しい。この清廉な樹海には相応しくない異形の美である。
直感でわかった、一介の鳥のものではない。
腹の底で獣性が疼く、お前の獲物はそう遠くない場所で待っているぞと育ち始めた殺意が囁きかけていた。
いま一度羽を目視すると、その退紅色に顔を寄せ鼻腔で獲物のにおいを確認した。
そして、殺意の他に新たな欲が育ち始めるのを認識した両面宿儺は四つ目を愉快そうに細め微笑した。
「なあ、貴様は一体どんな味をしている?」
鳥は自分の身に何が起きているのか分からないほど馬鹿ではなかったが、生まれてこの方見たこともない多面多臂の巨軀に追われ弓矢で弄ばれている理由まで悟れるほど聡くもなかった。
喉を潤し、僅かに生っていた木の実を殻剥きしては貪っていざ午睡でもしようかと微睡んでいたところに突如矢が飛んできたのである。
はじめ余りの揺れから大戦か天変地異でも始まったのだろうかと鳥は慌てたのだが、それは目前の幹に衝突したただ一本の矢による振動で木全体が軋んで爆ぜた衝撃だった。
故に己が天災以上のなにか...人でも獣でもない大いなる脅威に狙われていると察した。
そして矢の放たれた方角を見るか見ないかの一瞬に天災は迫っていたのである。
およそ八尺に及ぶ多面多臂の巨軀。
さぞ鍛え抜かれているのであろうその全身を彩る墨色の紋様に、腹部に開いた口腔らしきなにか。
そこから覗く分厚い舌にも紋様が走っている。
頭髪は燃ゆるが如き異色の紅、鋭い覇気の篭る顔貌には縦横に四つ目が開いていた。
一目で異質とわかるその形。
傍らに携えた七尺三寸はある大弓が小枝に見えるほど、馬鹿馬鹿しい威圧感があった。
己の姿を捉えた四つ目が三日月のように細まると巨軀に開いた口がけひ、と奇妙に笑った。
「わっ」
驚愕と恐怖に思わず声が出た。
ひとじゃない。
あんなものは知らない。
己の知っている人間とは何もかもが違いすぎる。
異質の存在は次なる矢を放とうと鋭い大弓を構え直していた。
獲物はまさか、自分か。
逃げなければ。
誰に教えられたわけでもなく身体が直ちに起き上がり跳躍の姿勢へと移行する。
人ならざる脅威から遠ざかるべく、異形の両脚がしなり、瞬間跳躍した。
何としてもあれから逃げなければ。
なんだか絶対に、捕まってはいけない予感がする。
少し前まで飼われていた籠の鳥にとってそこは未だに謎多き領域であり、樹上をしばし飛び回るだけでも目眩を催すような濃緑の迷路だった。
迂闊に進んでしまえば容易に出られぬとは経験値の少ない頭でも判別できる。
途中右も左も分からぬ森の奥へ逃げ込むことを躊躇ったが、しかしあの得体の知れぬ恐ろしいものに捕らわれて命を喪うぐらいなら樹海の奥底で餓死したほうがましだ。
名も持たぬ幼い鳥にとっては、手籠にされるよりも餓死の方が快かったのである。
残念ながらこの樹海はその追手たる天災そのものの箱庭であり絶好の狩場なのだが、鳥がそれを知るのはもう少し先の話であった。
まだ風を掴みきれない翼で懸命に踠き枝から枝を跳び跳ねて移動していたが、進めども進めども背後に迫る殺気からまるで逃げられる気がしない。鳥は生まれて久しく体験したことのない激しい逃走と恐怖から息が上がり、やがて焦りから足元が狂い出した。
いくら常人ならざる運動神経や爪の鋭い異形の両脚を持っていたとて、生まれたばかりの柔らかな身体に長距離の跳躍は堪えたのである。
急ぐ小さな身体に木々の枝葉や棘ががさがさ擦れては肌身を傷付け散っていく。
刹那、右背後からひょうと風を切り裂く音がした。二本目の矢だ。
上体を右へ逸らすも振り返る間もなく矢が眼前を横切り、飛び移ろうとした大木の幹にばつんと突き刺さった。間一髪である。
遅れてぶつ、という皮膚の裂ける音を耳が捉える。
頬を鏃が掠ったらしい。
裂けた部位がずくりと疼く。
「ほう、この矢を避けるか」
宿儺が僅かに感嘆を溢したが、闘争に専念する小さな異形には少しも響かなかった。
次なる逃げ道を探して幼い鳥の眼が泳ぐ。
どうにもこの森は日が差しにくいのか、辺りを見渡せど重々しく垂れ下がる枝葉ばかりが邪魔をして飛び移ろうにも行手を阻まれるのだ。
やや離れているが漸く飛び移る目標を見定める。
狼狽したのはほんの一瞬であったが、焦燥に煽られた鳥には堪え難いほど長い時に感じられた。
迷いを捨て、両脚に力を込めて発条のように飛ぶ。
しかし、その脚が逃げ先の枝に届くことはなかった。
ぶつっという音と共に激痛が走った。
宙を舞う身体が硬直する。
「っ...!?」
第三の矢が左腿を貫いたのだ。
痛みに気を取られ、あと少しのところで目前に届くはずだった身体が引き攣り体軸がぶれる。
「あっ、あああ!」
体勢を持ち直せないまま、その拍子に木の幹を掴みかけた脚がずるりとすべり、木肌を抉ったかと思えば宙を掻いて落下していった。
びたり、滑らかな岩に激しく背中と後頭部を打ちつけてしまい思わず呼吸が止まる。
打ち所が悪かったのだろうか、一瞬視界が白飛びし世界から色が失われたような気がした。
鳥が落下した先は大小様々な岩が犇く河川の名残りであり、岩の群は転がる小さな肢体を無表情で出迎え容赦なく殴りつける。
身体のあちこちを衝突させ腿からの流血を飛び散らせながら小石や地衣類、木の芽ごと巻き込んでいるうちに、やがてどこか窪んだ狭間に滑り落ちた。
打ち付けた後頭部には鈍痛を、矢に貫かれた左腿にどくどくと熱い痛みを感じ乱れる呼吸。
軋んで悲鳴をあげる全身に鞭を打ち、いつの間にか固く閉ざされていた目蓋を開くと地上の光がやや遠い事に気付いた。
見れば重なり合い凹型に入り組んだ岩石の合間に辿り着いたらしい、鳥は天然の袋小路に自ら嵌ってしまったのだ。
痛みを堪えて立ち上がろうとするが、岩場で揉まれ血を失った全身は言う事を聞かず震えるばかりである。
転がった際に矢は折れたのか、血の滴る腿には鏃だけが刺さっているようだった。
傷痕は熱を帯びてどくどくと脈打ち、爆ぜんばかりの痛みを訴えてくる。
はやく逃げなくては、焦燥するほど底無し沼に囚われたように身体も思考も沈んでいく。
いまこうして無様にも地に落ち、痛みに震えている間にもあれは近づいていると言うのに。
朦朧とし始めた思考を必死に巡らせていると、がしゃりと草を踏み分ける音が聞こえた。
その不吉な予感に退紅色の羽先まで硬直する。
そこで震える鳥は必死に手繰り寄せていた意識が解けていくのを止められなかった。
推し迫った災厄の気配を前にして、最期を悟った本能が緊張と恐怖を手離したのである。
「...」
痛みと失血で緩慢となった思考からなにか言葉が紡がれようとしたが、既に口元は言うことを聞かずただ呼吸を漏らすだけの孔となってしまっていた。
虚ろに天を見廻すが、汗水が滲んだか視界はぼやけた輪郭しか捉えられず気配の主を探し出すこともできない。
やがて視界の端に岩場を見下ろす巨大な影法師を認めると、鳥の目蓋がゆっくりと閉じられた。
やがて呼吸は揺蕩い、思考を手離した肉体がふわりと弛緩する。
刹那、世界は暗転した。
そして地に落ちた幼い異形の鳥が、その影法師が地べたに転がる自身を摘み上げたことを知ることはついぞなかった。
「おかえりなさいませ」
「裏梅、これを洗っておけ」
「...驚きました。まさか本当に獲っておいでになるなんて」
「なかなか良い羽をしているとは思わんか?」
開け放たれた蔀戸の下、勾欄越しに宿儺を出迎えた裏梅は主人の腕の中で眠る獲物を刮目した。
「もう少し肥させてから食うのも悪くない」
「確かに身が細うございますね、しかしあの毒矢で死なないとはげに頑丈な」
「二矢も躱しおってなァ、此奴ただの畜生ではないらしい」
「なんと、宿儺様を手間取らせるとは...」
宿儺の手から土と血で薄汚れぐってりと四肢を投げ出す小さな異形を受け取る。
左腿には流血の痕があり反転術式で止血され鏃は取り除かれていたが、まだ薄ら赤い肉が覗いている半端な状態で閉ざされていた。
(そんな手抜で杜撰な後処理でも、裏梅からすれば御身に術を施されるなど滅多にない僥倖であるのに何故このような得体の知れぬ畜生めがそれを享受しているのか?と嫉妬するほどのものであった)
「世話は任せた。奥で寝る」
「承知」
いつになく無表情な従者にぽいと獲物を預け、くぁっと大きな欠伸を溢した宿儺は、寝殿を上がると悠々とした足取りで几帳の奥へと消えた。
残された裏梅は、ときどきグウと呻きながら眠る異形の幼子を抱き上げて湯殿のある領域の外れへと向かう。
長い渡殿を歩きながら裏梅は腕の中の幼子を見つめ、そして物の怪退治の事の顛末をどのように村人たちに話すべきか頭を悩ませたのだった。