船旅したいコラさんと俺の船に乗ってほしいローの話「ドフィが今度船を買うんだとよ」
「はあ?」
不機嫌な寝起き顔で、冷蔵庫から麦茶を取り出したローは、そのままの体勢で止まった。
「…船?」
「うん。なんかデカいクルーザー」
いや、もう買ったんだったかな?とロシナンテは長い手足を持て余しながら、ソファの上に寝転んで、分厚い冊子をひらひら振った。
梅雨入り前の初夏の朝、リビングいっぱいにまばゆい光が溢れている。鉄筋のデザイナーズマンションの九階は日当たりの良さと引き換えに熱がこもりやすい。
昨晩は窓を開けて眠ったが、それでもうっすら寝汗が滲んで、ロシナンテは早々に目覚めたのか気づけばベッドから消えていた。
ローはコップをダイニングテーブルにおいて、ロシナンテの手から冊子を取り上げる。
「読んでたのにい」
「おい、アンタまさか」
冊子は自家用クルーザーのカタログだった。それも、隣町のマリーナでもめったに見ない大型のものだ。
「…欲しいのか?」
俺の実家が三軒建つぞ、とローは顔つきを険しくする。
「いやまさか!」
ロシナンテは慌てて手を振った。
「この前、家帰っただろ?面白そうだから持ってきただけだって」
親宛てにこういうの良く届くんだよ、とロシナンテは頭を掻いた。ローはカタログとロシナンテを見比べる。そう言えばこの男の両親は屈指の資産家だった。
「見てる分には面白ぇんだよ。最後の方は別荘販売だぞ」
節操ねえよな、とロシナンテはローの肩に手をまわして笑った。
手の中のカタログを好き勝手にめくる男の横顔を、ローは見つめる。目元と口元に薄く刻まれた皴、歳月が少し緩めた凛々しく愛しい面差し。そこに時々、かつてあった引きちぎられるような別離の記憶が、顔を出す。新たな命と人生を得て再び出会ったお互いの中に、前世の縁はまだはっきりと残っている。そのことにローは毎回安堵する。もう二度と、この人を見失いたくない。
自分の肩から下がった長い腕を掴んだ。
――コラさんの中に、俺の中に、広い海を彷徨った旅の記憶がつながっている。
「コラさん、船、乗りたいんだろ」
海原の彼方に霞む旅路への、憧れにも似た感情は、かつての世界を離れた今もなお、心の底にそっと漂う。
ロシナンテは瞬きを一つ、深く考えたふうでもなく、
「そうだな、ドフィがマジに買ったんなら一回くらい乗せてもらっても…」
「嫌だ」
ローは眉間に盛大なしわを寄せた。噛みつく寸前の大型猫の勢いで、ロシナンテの襟首をつかんで引き寄せる。
「コラさんが乗るのは俺の船だ」
「えっ」
ローはカタログをソファに投げ捨てた。
「…アンタが欲しいっていうなら俺は何だってする、船でも、何でも手に入れてやる」
今すぐ…は無理にしても、と一瞬不満げに視線をそらしたが、すぐにロシナンテの目をまっすぐに捉えて、
「俺たちの船で、旅しよう。二人で、もう一回」
誰かの借り物ではなく、誰かの添え物でもない。一人と一人、俺とコラさんで今度こそ。
夢見ていた、当てもない希望を探す旅の続きが今度こそ待っている。行き先も、したいことも全て自由だ。手に手を取って、波のまにまに。
受け取った愛の証は、今生もこの身体に刻んだ。いつでもどこでも、誰が見てもわかるように。アンタが見失っても、すぐに気づいて戻って来られるように。
「ほんっとに、お前は…」
ロシナンテは両手で、ローの髪をそっとかきまぜた。少し硬くて癖がある毛束の間を、太く荒い皮膚の感触が通り抜ける。この指がいつもどうやって自分に触れるのか、ローは誰よりもよく知っている。
情愛の熱も、親愛の温度も同じだけ宿った愛しい人の指先だ。
「かわいいやつだよな、いくつになってもよ」
――いつか。
俺は、大人になった。手足は長く太くなり、背も伸びた。髭だって生えたし、声も低くなった。それでもアンタはずっと俺はをかわいい、と言う。言葉以上の意味を込めて何度も繰り返す。
小さな救護船で二人、心許ない旅に出た日も、遠い思い出になるだろう。だが忘れることはない。ずっと残り続ける。
互いの目の中に、幻の水平線がよぎった気がした。
旅路はまだ、遥か彼方まで続いている。