失恋見舞いのおはなし ピンポーン。
すっかり押し慣れたインターホンの音が室内で鳴り響いて、すぐにぱたぱたと駆け寄る足音が聞こえてくる。その気配に鉄虎が半歩だけうしろに下がれば、それとほぼ同時に目の前の扉が勢いよく開いて、これまたすっかり見慣れた人物が飛び出してきた。
「おっす! よく来てくれたな!」
「ッス! しょぼくれた顔おがみに馳せ参じたッスよ~」
「く……う~なぐも~~~」
「はいはい、ほら、いつものやつ買ってきたッスから」
途端に、眉を八の字にしてしょぼくれた表情になる守沢を口でなだめながら、慣れた手つきでその脇をするりと抜ける。おじゃまするッスよ~、とこれまたいつもと同じやり取りを交わしつつ、勝手知ったる彼の部屋の中にあがりこんだ。
*
「で、今度はなんて言われたんスか」
「……思ってたのと違うのだと」
はぁ、と大きなため息をひとつ零しながら守沢は缶を煽る。飲み干したそれをめきょっと潰して、とすんと机に頬をくっつけた。度数の低いジュースのようなアルコールでも彼には十分らしく、すこしだけとろんとした目元が赤く染まっている。ふうんと相槌を打ちつつ鉄虎は、元カノジョは馬鹿だなぁなんてことを思った。勝手に抱いていた幻想と違うからと言って、手に入れたその立場をいともたやすく手放せる彼女たちの身勝手さが羨ましくもあり、その愚かさに反吐が出そうだ。だって、こっちはそれがもうずっと昔から欲しくて欲しくてたまらないというのに、決して叶うことはないのだから。
「俺は俺なのになあ……」
「……そうッスね」
本当にその通りだ。そんなの、誰よりも知っている。その言葉は、もう何度聞いたかわからなかった。
*
言うなればこれは、失恋見舞いだ。
この男は人の気も知らないで、何故だか恋人にフラれるとこうやって鉄虎に連絡をよこす。昔はそのたびにわずかばかりの期待に胸を膨らませながら、彼の部屋の呼び鈴を押したりしたものだけれど。愚痴にもなりきらないような泣き言をひとしきり吐き出してしまえばすっきりしてしまうのか、気づいた時にはいつの間にかもう別の誰かの影があって、以下その繰り返し。指折り数えるのに片手では足りなくなってきた頃にはもう、それを知って悲しむことにもとっくに慣れてしまっていた。
鉄虎だって、こんな不毛な片想い、と思うことは多々あった。あっちだってよろしくやっているのだから、いい加減別の道を模索すべきだと何度も思ったし、今でもそう思う。けれど、改めて自分の気持ちと向き合ってみると、そこにはあの男が居座ってしまっていて、頑として離れようとはしないのだから始末に負えなかった。だって、好きなのだ。勝手に描いた理想だとかそんなのじゃなくて、誰よりも近くで見てきた、この守沢千秋という男のすべてが、鉄虎はどうしようもなく好きだった。だけど、同じくらい、この男には幸せになって欲しいとも思っていて。己には与えられないほどの幸せの中で笑ってくれるのなら、この途方もない迷子の片想いもいつか思い出になってくれる気がしていた。
だから、どうせ叶わない恋ならば、あのひとのいちばん近くにいて、頼ってもらえる存在になろうと思ったのだ。それがどんなに馬鹿げた願いかなんて知っていたけれど、どうしたってこの気持ちは捨てられない。だったら、いま許されているこの場所を揺るぎないものにしたかった。
そうして今日も、鉄虎はあの呼び鈴を押す。ぬるくなったビールを一気に飲み干すと、口の中いっぱいに苦味が広がって、どろりとのどに落ちていった。そんなことを、もう何年もずっと、繰り返している。
*
「はい、先輩。お水」
「う〜……まだ、全然酔えてないぞ」
「はいはい、わかってるッスよ〜。とりあえず一回飲んどきましょ。次のお酒もちゃんとあるッスから」
「……あれ、あのちょっと甘いやつ。あれが飲みたい……あ、でも買い忘れたな……」
「ふふん、そう言うと思って実は買ってあるんスよ」
「……俺、あれが好きっておまえに言ったか……?」
「何年あんたとこうやってると思ってるんスか。見てりゃ気に入ったものくらい、わかるッスよ」
そう言って、水の入ったグラスを渡すと、それを受け取りながら「……敵わないなぁ」とごくごくちいさな声で呟かれて、途端に心が舞い上がる。本人にとってはなんでもないような言葉なのだろうけれど、少なくとも別れてきた元恋人たちよりは、よっぽど長い付き合いだし、負けていないつもりなのだ。
「それで、他には? もう全部出し切れたんスか?」
浮かれた心を隠すように話題を戻せば、水を一気に飲み干した守沢は逡巡したのちに、ぽつりとこぼした。
「……あと、本当に好きなひとがいるんでしょ、とも言われた」
「……え?」
告げられた言葉の意味を理解したくなくて、思考が停止する。なんだ、それは。幾度と繰り返してきた夜の中で初めて聞かされた台詞に、頭から冷水を浴びせられた気分だった。
「……そ、んなひと、いたんスか」
やっとの思いで返した問いかけに、守沢は視線を彷徨わせてから、こくんとひとつ頷く。ひゅっと一瞬止まった呼吸に、気付かれていないといい。鉄虎は慌てて言葉を重ねた。
「ったく、そんなこと言わせるなんて、仮にもヒーローを謳うアイドルとしてどうなんスか」
「……うん。そうだよなぁ」
「……どんな事情があるかは知らないッスけど、その、本当に好きなひと、とお付き合いはしないんスか」
「……したくない、わけじゃない」
その返答に、本当に好きなひととやらが実在することを突きつけられた気がして、眩暈がした。だって、今の今まで、こんなに近くにいたのに、その存在に気づきやしなかったのだから。何か言葉を返さなければ、と思うのに口の中がからからに乾いてうまく動かせない。そんな鉄虎の様子に気づいているのかいないのか、守沢はそのまま独り言のように話し続けた。
「怖い、んだと思う……変わってしまうのが。仮にうまくいったとして、いつか終わりがくるかもしれないことが、怖い。それに、手に入れてしまったら、きっともう離してやれる自信がない」
聞かなければよかった、などと思っても後の祭りだ。そんな渇望するみたいに想う相手がいるのか。そんなの、勝てるわけがなかった。
「……それで、別のひととお付き合いしてたって言うんスか」
「……まぁ結果的にはそう言うことになるか」
「せめて気づかれないようにしましょうよ……」
「それは……悪かったと反省している……」
叱られてしょげたようにぼそぼそと返す守沢の声に、泣きたいのはこっちだ馬鹿野郎なんて口の悪い台詞を心の中でぼやきながら、そんなこと微塵も見せぬよう、まるで呆れたみたいに大きくため息をひとつ。びくりと肩を震わせて居住まいを正す様子を横目に、ああ今自分はいつものやりとりができているのだな、とぽっかり穴の空いた胸を撫で下ろした。
「だいたい、先輩、そういうタイプじゃないッスよ」
「う……」
「まぁフラれてる側なんであれッスけど、元彼女さんたちだって傷つけてることには変わりないわけでしょ」
「か、返す言葉もない……」
「それに、あんただって、」
傷ついてないわけないでしょう、という言葉は飲み込んでしまう。「……南雲?」と伺うような守沢の視線に気づかないふりをして、飲みかけの缶チューハイを一口煽った。ほんの一瞬ためらっただけなのに相変わらず目敏い男だ。
「それに! 最初っから諦めるなんて、先輩らしくないッスよ」
「俺、らしくない……」
どの口が言う、と頭の隅で冷静な自分が嘲笑う。諦めているのは自分だって同じなのに。けれど、目の前の男にはきちんと幸せになってもらわないと、誰よりも鉄虎が困るのだ。
「そうッス。あんたはもっと欲しがったっていいんだ。離してやれない? 上等じゃないッスか。だったら、離さなければいいんスよ」
「……」
「……大丈夫ッスよ。先輩が本気で願えば、相手にもきっと伝わる。でもそのために、まずはちゃんと向き合わないと、手に入るもんも入らないッスよ。だから、とっとと覚悟を決めて、男ならどんと当たって砕けろッス!」
「……砕ける前提なのか……」
「……あ」
「……おまえなぁ」
じとりとうらめしそうにこちらを睨め付ける守沢と目があって、ついふきだしてしまう。
「ふはっ……ふふ……すみません。……まぁ砕けたときは、こうやってまた一緒に飲んであげるッスから」
驚くほどすらすらと出てくる言葉たちは、後輩としてきっと正しいはずだ。つきりと痛む胸には気付かないふりをした。
(中略)
誰でも、よかったのならば。
「だったら、俺にしておけばよかったのに」
そうしてほんの少しだけ、諦めの悪い恋心が頭を出すのだ。酒の席での戯れ言にまぎれこませた本音は、そうとは聞こえないように揶揄いの音にのせる。こうしておけば、ほろ酔い気味の守沢は目を潤ませて、「南雲ってばいい子!」なんて大げさに喜んで抱きついてきたりするわけだが、これももう慣れっこのいつもの流れだ。ついでに零される「おまえは優しいなぁ」なんてのんきな言葉を返してくるのを、今日もいつも通りに待っていると、じっとこちらを見つめる男と目が合った。思わずびくりと身体を震わす。だって、そんな表情を向けられたことなど、今まで一度もなかった。交わった視線がそらせない。
「最初から、わかっていたんだよな」
「……え?」
「本当はきっと、とっくに答えは出ていたんだ。おまえに甘えていたのかもしれない」
「な、にを言ってるんスか?」
わからない。何を、言っているのだろう。
ーーー
(ここから怒涛のいけいけ守沢のターン!みたいな感じにしたい…ね…(予定))
ここまで読んでくださったそこのあなた、本当にありがとうございます!大好きだ!