寝る前に水を飲みたくなって、ガストは共有スペースへ出た。何か薄暗いなと思ったら、珍しくリビング奥半分の明かりが消えている。
「なんだ? 誰かが消したの、か……って、マリオン? どうしたんだ、そんなところで」
壁沿いデスクの一番窓側の席に、マリオンが背中を丸めて座っていた。
何か胸に抱えた白いものへ身を預けているようだが、ここから見るにたぶん枕だ。ガストが近づいて声を掛けると、マリオンは綺麗な顔を忌々しそうに歪めてガストを振り向いた。
「うるさい、黙れ」
「いやいや、気になるだろ。どうかしたのか、マリオン。そんなとこで寝たら風邪ひくぞ」
「ボクは風邪なんてひかないし、『どうかしたのか?』じゃない! ヴィクターが、また趣味の時間だとかなんとか言って、部屋の明かりを消そうとしないんだ」
マリオンは地を這うような憎しみの込もった声音で言った。
どうやら同室のドクターが、部屋の明かりをつけたまま趣味にいそしんでいるらしい。もう深夜といっていい時間だが、ショートスリーパーのドクターは夜更かしをものともしないんだろう。
「それでマリオンは部屋が明るくて、寝られないのか」
「アイツ、普段はラボに籠りきりのくせに、ときどきこういうことをする。あんな明るい部屋で、ゆっくり休めるわけない」
それでマリオンは枕だけ持って、リビングへ避難したようだ。マリオンのことだから大人しく出てきたのではなく、間違いなくドクターとの言い合いを経てのことだろう。
他人と同じ部屋で寝起きするというと、今までそうでなかったなら当然トラブルが起きることもある。いびきだの寝言だのはよく聞く話だし、生活サイクルがずれている場合は譲り合いが必要だ。
ガストは同室のレンと上手くやれている、と自分としては思っている。しかしうちのメンターはどちらも違う方向に我が強いから、トラブルが起きても譲り合うことは決してしないだろう。
「せめて、ソファを使ったらどうだ? 座って寝るより楽じゃないか?」
「使わない。この辺りの方が暗いし、どうせ硬いソファで横になったところで、眠れない」
マリオンは不機嫌そうに、縦に抱えた枕へ口元を埋めた。
明かりをリビングの奥半分でなく全部落とすこともできるが、誰かが部屋へ来ればセンサーで勝手に明かりが灯る。それを知ってマリオンも避難先をリビングの隅にしたんだろう。ガストからするとどうにも不憫だ。
「えーっと、毛布もなしで寒くないか? 部屋から持ってくれば――」
「必要ない。空調が効いてるからな」
「そ、そっか。うん、いや、よく眠れると、いいな?」
「ベッド以外で眠れるはずないだろう。ノヴァとは違うんだ」
短く息をつくマリオンは、見るからにいつもの覇気がない。
ガストの知る限り、いつもならマリオンはたとえ落ち込んでいようと語気鋭くガストたちに怒鳴り散らした。深夜だから気を遣っていることもなくはなかろうが、普段ない様子でいるマリオンをガストは放っておきたくなかった。マリオンは、話は済んだとばかりに枕を抱え直している。
たしかガストの部屋に、寝袋がありはしなかったか。入所するとき、自室へアキラが泊まりに来たら使おうと持ち込んだのだ。実際はウィルの目があり、また多少解消したらしいとはいえアキラとレンの不仲もあって、まだ寝袋が使われたことはない。
あれを貸すか? いや、ベッドでないと眠れないと言うマリオンに、寝袋を貸しても意味がない。それなら、自分が寝袋を使ってマリオンにベッドを貸す? それもどうなんだ。半分とはいえ部屋の主はガストなのに、それが床で寝袋……でもマリオンをここへ置いていくよりはいいだろうか。そもそも、マリオンが他人のベッドを使いたがるか?
ガストがうんうん唸っていると、マリオンが「おい」と低く言った。
「ど、どうした?」
「用がないなら寝ろ。明日もしごいてやるんだから、少しでも体力を回復しておけ」
「いや、まぁ、そうなんだけど」
「なんだよ」
「っ、俺の部屋来るか? マリオンが、嫌じゃなければだけど」
断られるのがわかっていてもガストは勢い、提案していた。
たぶん「はぁ?」とか言って一蹴されるんだろう。それでもマリオンを放って自分だけ部屋に戻る気にはなれなかったのだ。
聞きなれたマリオンの呆れ声を待ち構える。が、マリオンはガストを見上げて小首を傾げた。
「場所があるのか」
「いやっ、ふざけてるわけじゃ、え? あ、あぁ、俺のベッドを貸すよ」
「そうか。……なら、今夜だけ使わせてもらう」
目を見開くガストを置き去りに、マリオンは立ち上がるとガストたちの部屋へすたすた向かった。枕を抱えながら振り向き、「早く開けろ」とドアの前で待っている。
ガストは返事をし損ねたが、マリオンはガストたちの部屋へ来ると答えたのだった。それも、ガストのベッドを使わせてもらう、と。凡人の使っているベッドなんて使えるか、など言われてもおかしくないと思っていたのに。
部屋に鍵はかかっていなかったが、礼儀として待っているマリオンのためにガストは慌ててドアを開けてやった。
マリオンは部屋の中へするりと入り込み、安心したように息をついた。
「暗いな」
「あぁ、レンはもう寝てるからな。ベッドはそっちを回ってくれ」
マリオンは素直に従って、小さな明かりだけ灯った部屋を行きガストのベッドに腰掛けた。
自分から申し出たのだからベッドを貸すのは仕方がないといえ、マリオンが自分のベッドにいるのはものすごくおかしな光景だった。妙にそわそわする。初日にマリオンの性別を勘違いしたのがまだ尾を引いているだろうか。
マリオンは靴を揃えて脱いで、持ってきた枕をベッドの奥側に置いた。抱えていたせいで形が歪んでしまっているのを軽く叩いて直している――と眺めている場合ではなかった。自分は寝袋を探し出さなければいけない。
どこにしまったのだったか記憶が曖昧だ。頻繁に使うことはないだろうからとどこか奥の方にしまい込んだかもしれない。レンはすでに寝ているし、あまりガサゴソするのも何だ。寝袋じゃなくて、もう今夜はソファで寝てしまおうか。
「ガスト。オマエも早く寝ろ」
「わかってんだけどさ、場所が……」
「場所? これじゃ足りないって言うのか」
言われてガストが振り向くと、ベッドの端に身を置いたマリオンが不服そうにシーツへ手をついていた。
マリオンは変な位置に座っていて、ベッドは三分の二以上が空きスペースになっている。マリオンは小柄だからガストのベッドでは大きいだろう。それにしてもマリオンが居るのはあまりに隅だ。
あるはずないことと思っているので思考がどうにも迂回するが、スペースは明らかにガストのために空いていた。
マリオンがむすっとしているので、ガストは大慌てで返事してベッドに乗り上げた。まさか自分が勘違いしていて、乗り上げた途端に鞭を振るわれたりはするまいな、とガストは警戒したが、そのようなことは起こらなかった。
「なんだ、変な顔して」
「い、いや、元からこういう顔だよ。あーっと、そうだ。明かりは全部消した方がいいか?」
このくらいなら問題ない、とマリオンは答えながら足元から毛布を引き上げた。軽い音をたてて枕に頭を預ける。
ガストは口を閉じてこそいたが、「えぇー!」と声をあげたい気持ちでいっぱいだった。この年になって男と二人でベッド、ということよりも、果たして本当に自分が一緒に寝ていいのか?というのが気になって気分が不安定だ。
毛布は一枚しか置いていないから、ガストもマリオンが毛布を引くのに合わせて横たわった。マリオンはむこうを向いてもう寝てしまっている。
マリオンはガストよりもずっと肩幅が狭いので、こちらを向く背がガストからは驚くほど華奢に見えた。身体に沿った毛布はなだらかなラインを描いていて、肩が華奢なら腰まで細い。何だか変にどきどきする。明かりを全部消せばよかった。
「おい、ガスト」
「へっあっ、はい!」
「は? なんだ、その返事は。……まぁいい。今日は、助かった」
「そ、そうか! ははっ、オマエの役に立てたならよかったよ。まさかマリオンから頼ってもらえると思ってなかったしな。……あ」
今の言い方はマリオンの気に障っただろうか、とガストは身構えたが、マリオンが怒った様子はなかった。
助かったと自ら言ったり、怒らなかったり、いつになく今夜のマリオンは苛烈さを欠いていた。まさかドクターと言い合いになったくらいで落ち込むようなことはあるまい。いつもみたいに気持ちワルイ!と遠慮なしで言い放ってきたに決まっている。勝手な想像をしてドクターには悪いが。とするとマリオンは、何か心配事でもあるだろうか。
ガストが声を掛けるか迷ううち、しかしマリオンの方からは穏やかな寝息が聞こえ始めた。深くて、規則的で、明らかに寝ている息遣いだ。寝つくの早すぎないか!?とガストは驚いた。
これはもしや、ただ眠たくてマリオンは雰囲気が違っていただけだろうか。眠気くらいであのマリオンが、という気持ちもないではないが誰しも抗いがたい睡魔に襲われる日はある。
それがマリオンには今夜だったんだろう。ガストはマリオンの寝顔が穏やかで安心した気持ちになった。眠っていると年相応、どころかもっと幼くさえ見える。微笑ましい気持ちでふっと笑ったのも束の間、ガストはマリオンの顔がこっちを向いていたことに気づいた。
マリオンはすっかり眠り込んで、寝返りを打っていたらしい。いや、マリオンがどっち向いて眠るかなんて、マリオンの自由なんだけど。思うも、ガストはおかしなほど緊張して心臓が高鳴っていた。こんな距離で不躾に覗き込んだら、普段なら鞭でしばかれている。きっと条件反射だ。
心臓を早鐘打たせたまま、ガストはどうやったらマリオンをむこうへ向かせられるか考えを巡らせた。むこうを向かなくとも、仰向けでもいい。このままじゃガストが眠れそうにない。
マリオンはかなり眠たかったようだから、腕や肩へ触れるくらいなら目を覚まさないかもしれなかった。思いついてさっそくガストはマリオンの腕を取って、華奢な肩をそうっとそうっと向かいへ押した。
「ゔ……ぁ……」
「やべ、起きたか?」
「ノヴァ、どこ……」
マリオンは起きて喋ったのでなく、寝たまま寝言を言っていた。
どうしたものか、困ってガストはあたふたした。始めこそマリオンが起きてしまうだろうかと慌てたが、マリオンの不安げな声音を聞いていたらむしろ心配になってきた。起こすべきか迷うものの、うなされているわけでもない。
数秒迷って結局我慢できず、ガストは「ラボにいたぞ」とマリオンへ答えてやった。
「そう、ならあとで……」
「あぁ。寝てていいぞ」
「……ヴィクター、は」
「えーっと、さっき出ていった、と思う」
ガストの返事を聞いて、マリオンのしかめ面がホッと穏やかな寝顔に戻った。ドクターはいないことにした方がいいかなと判断したのは間違いじゃなかったようだ。実際はメンター部屋に居るどころか、たぶんまだ起きて作業をしている。夢の中のマリオンには関係ないことだ。
マリオンが寝息をたてるだけに戻り、ガストは安心して長く息をついた。あのマリオンと、寝たまま会話を成立させる日が来ようとは夢にも思わなかった。それに一つ困難を乗り越えて冷静になれば、マリオンをむこう向かせるよりも自分が背中を向ければいいだけの話だ。
背を向けて眠るとすると、マリオンの寝顔はこれで見納めだった。薄暗い中でガストはもう少し、マリオンの寝顔を見ておくことにした。見つめるとやはり鼓動がうるさくなるが、マリオンをじっと見る機会はなかなかない。マリオンの意外とよく表情の出る目が、開かず閉じたままなのは何だかおかしくて惜しい気がする。
ベッドを貸したのはヒーローの仕事と何ら関係ないが、あの女王様のマリオンが素直にガストを頼ったことは、今になってガストは少し嬉しかった。マリオンは自信たっぷりだけど最近は悩んで、感情が高ぶるのも自分で克服しようとしている。今ではガストもマリオンのことを最初よりずっと尊敬していた。可愛らしく寝言を言っていたのがかなり意外だ。
長い睫毛に通った鼻筋、ふとしたときに赤らむ頬ごと、なんというかマリオンは造形が可憐だった。ファンが多いのも頷けるが、眺めている目を離すタイミングがガストはわからなくなってしまった。
そんなときに突然マリオンの腕が伸びて、ガストの手首を鷲掴みにした。
「ひぇっ!?」
「ガスト」
「えっ? え?」
ガストはマリオンが起きていたら鞭で打たれそうな声をあげたが、マリオンの目は閉じている。眠っている相手に、あんなにはっきりと名前を呼ばれるなんて思わない。驚いた。
「ど、どうしたー? 寝て、る、よな」
「……あぁ。いるな」
寝ている様子のマリオンは、ガストの"いる"のを確認したようなことを言って幸せそうに寝息をたて始めた。さっきから一体どんな夢を見ているのだか。口から心臓が出そうになっているガストのことも考えてもらいたい。
ガストは鷲掴みされている自分の手首から、とりあえずマリオンの手を外そうと少しずらした。このままではマリオンに背を向けられないし、何より何故か気持ちが焦る。
そうしたら今度はマリオンが、ガストの手首ではなく手を握ることになってしまった。
「どっ、えっ、これは、もうどうしたらいいんだ」
ガストよりも一回り小さな手は、すっかりガストの手を握り締めている。
このまま寝てしまうか? でも万一朝まで握るままだったとして、ガストは鞭で打たれるんじゃなかろうか。それよりも、心臓がドキドキしたままで眠れないことを心配するのが先だ。いっそマリオンを起こしてしまうか。
狼狽え続けたガストがやっと微睡んだのは、もう朝日の昇り始めるころだった。眠気がやってきたというよりは、考え込んで疲れて力尽きた
隣で人の起きる気配がしたが、眠気の層が厚くて感覚が遠い。
「んぅ……うわっ!?」
「痛ってぇ!!」
手をいきなりつぶされたような痛みがはしって、ガストは目が覚めた。
ガストが飛び起きると隣では、先に起きたマリオンが真っ赤な頬で驚愕の表情をしていた。
「オマエ、なんっ、んん? そうか、昨日」
「あ、あぁ、おはようマリオン。よく眠れたか?」
マリオンはさすが頭の回転が早いようで、寝起き数秒で状況を把握した。珍しくマリオンは少し口ごもってから、「あぁ」とガストへ返事した。
マリオンは恐らく、目が覚めて自分の手がガストの手を握っていたことへ特に驚いたんだろう。自分はもう子供じゃないと先日言ったのに、手を繋いで寝ていたなんて恥ずかしかったはずだ。気づかない振りをしておいてやる。
「それならよかった。また何かあったら頼ってくれていいぜ! なんてな」
「……まぁ、考えておいてやる」
「お、マジかよ。嬉しいね。ところでマリオン、昨日はどんな夢みてたんだ? 寝言言ってたみたいだけど」
「は?」
マリオンが気色ばんだのを見て、ガストは自分の失言に気がついた。
そうか、寝言も恥ずかしいよな。
「大したことは言ってなかったけど! いや、むしろ俺の聞き間違いかも」
「おい、ボクは何て……わかった。いい。忘れるまで鞭で打ってやる」
「なんでだ!? 待て、別にお前、恥ずかしいことは言ってなかったって! 俺のこと呼んだくらいで――痛てぇ!」
部屋にマリオンの鞭の音が響き渡った。その瞬間に、レンのベッドから目覚まし時計が三ついっぺんに鳴り始める。もちろんレンは目覚めない。
眠れない夜はどこへいったのだか、やかましい朝が始まったのだった。
了