青 夜明け前にひとり海を見に行った。
近しい人を亡くし傷ついた心をどこかの誰かが憐れんでくれたらしい。まだ薄暗い空を爆雷が明るくすることもなく、銃声が遠くから聞こえることもなかった。
走って。
走って走って。
そしてたどり着いた海を、さほど感慨もなく眺めた。
ああ、こんなものか。
ぜんぜん綺麗なんかじゃない。
乾いたため息をこぼす。
黒々とした波が砂浜を舐めるように寄せては返す。
ふと、波のあいだに人影が見えた。
よく知っている顔だ。
ついこの前死んでしまった彼らが、こちらに向かって手をふっている。
こっちに来いよ、と手招きしているように。
ふらふらと、引き寄せられるように波へ足を踏み入れる。
夜の空気に冷えた海水は思っていたよりも冷たい。見る間に体温を奪っていく。
それでも海へ進む足は止められない。
アイツらあんなところにいてどうするんだ。こっちに引きずり戻してやる。
砂を蹴る。手で海水をかきわけて前へ前へ。
もう飛び跳ねながらじゃなければ、呼吸もままならない。
アイツらは――変わらずオレに向かって手をふっている。
空気を大きく吸い、まっすぐ泳いだ。
でも届かない。
やがて力尽く。冷たさと疲れで身体がうまく動かない。
ゆっくり沈んでいく。
海面が遠くなり、呼気が泡となって口から溢れた。
このまま目を閉じれば、楽になれるだろうか。
『――すごくきれいだったんだ』
諦めと失意に混じった思考に、懐かしい声が割りこんできた。
『青くて、キラキラしててさ』
楽しそうにかつての思い出を話して聞かせてくれた君。
『きっと――も気にいると思うからさ、いつか一緒に行こう!』
君はそう言って笑って。
『僕』も君が言うならそうだと信じていたけど。
そんなことなかった。
ぜんぜんきれいなんかじゃないよ『――――』
もう、疲れた。
瞼を閉じる。
後はこのまま沈んで――
「……ン」
声が頭上から降ってくる。
「――ロン。――ーロン」
なんだよウルセえな。眉間に皺を寄せる。不機嫌を隠さないアーロンの肩が揺り動かされる。
「アーロン!」
「うるっさいわ!」
怒鳴りながらアーロンは覚醒した。瞼を見開き、拳を握りながら上体を起こす。眠りを妨げた不届き者の気配はすぐそこだ。胸ぐらを掴んで眼光鋭く睨みつける。
「おはようアーロン」
しかし相手はアーロンの凄みに怯まない。笑顔をにっこり浮かべ「屋上と比べたらソファはマシだろうけど……やっぱりベッドが一番じゃないか。退院したとはいえ、まだ全快してないんだし」と真面目くさった口調で言う。
「ハッ。ちんたら休んでられっか。身体が鈍っちまう」
「ハハハ……入院三日目で筋トレしていた君に言われると説得力が違うな」
「……で、なんだよドギー」
アーロンは胸ぐらを掴んでいた手を離した。
「くだらねえことだったら殴る」
「起こしてしまったのは悪かったよ」
乱れたネクタイの位置を直しながら、ルークは謝った。
「でも今しかないと思ったんだ」
「だから何がだよ」
「海に行こう」
「――はあ?」
訝しむアーロンに、ルークは笑顔で提案する。
「海を見に行こう。君と僕の二人で!」
バスに乗って、海岸へと向かった。晴天だったが風は寒く、人はまばらにしかいない。
「すごいな、海だ!」
海岸に到着するなり、ルークははしゃぐ。浮かれて無防備に砂浜へ足をつっこみ、靴を砂まみれにして。隙間から侵入する砂粒に「わっ、わっ……!」と慌てながら靴と靴下を脱いだ。
ついでにと言わんばかりにしゃがんでスラックスの裾を巻き上げる。そして靴下を突っ込んだ靴を両手に持って、波打ち際まで突撃する。
海水に足を濡らしては冷たいと笑う。足元の砂が波に持っていかれる感覚をくすぐったいと声を弾ませながら、蹴る仕草をして飛沫を立てた。
その様はまるで犬のようだ。
以前、子供らにせがまれタブレットで見せた動画を思い出す。波と戯れ走り回るゴールデンレトリバーと、目の前のルークがぴったりと重なる。まんまドギーだな。
脱いだ靴を片手でまとめ持ち、アーロンは楽しそうなルークを眺めた。
「で、どうして海なんだいきなり」
「DISCARDのことがひと段落したら行きたいなとは考えたんだ」
ルークは足を止めて、遠くの水平線を見つめる。
「ここの海は似ているから。僕の記憶のなかにあったのと」
アーロンは眉をひそめる。ルークの言う記憶とは、おそらく生まれ故郷であるハスマリーのことだろう。研究所で同じ時間を過ごした際、アーロンも聞いている。
『ヒーロー』の故郷には海があると。
青くて、とてもキラキラしているのだと。
「……父さんに引き取られてから、一度だけ海を見に行ったことがあるんだ。たぶん、テレビ番組か何かで映っていた海に、僕が反応したんだと思う」
連れてってくれた港の波止場で、海を見た。
波の音がするし、潮の香りもする。
父さんが連れてきてくれたのだから、ここは間違いなく海なのだろう。
「だけど僕には……どうしても目の前に広がるのは海だとは思えなかったんだ」
それは海を見かけるたびに感じ続けていた。成長してからはちゃんと海だってわかっているのに、違和感が拭えなくてどうしてだろうと疑問だったんだけど。
「ミカグラに来てようやくわかったんだ」
ルークは海に向かって大きく両手を広げた。
「ここの海の青さが――僕の知っている海と似ているんだ。青くて、キラキラしていてさ――」
「……」
アーロンはルークを見た。ルークと重なっていたゴールデンレトリバーの姿が消える。かわりに浮かぶのは――
「君と一緒に見たいと思った海に似ているんだ」
かつて臆病で人見知りだった『ルーク』の手を取ってくれた『ヒーロー』の面影だった。
海を見に行こう。
おれがうまれた町まで、いっしょに。
遠い約束を、まるで昨日のことのようにアーロンは思い出す。
「エリントンで見た時に違和感があったのは、きっと心のどこかで覚えていたからなんだろうな」
ルークはのんびりと海を眺める。放っておくと鼻歌を歌い出しそうだ。
「海って不思議だよな。エリントンにもミカグラにも、もちろんハスマリーにだって繋がっているのに、場所によって感じかたが全然異なるんだ」
ふと言葉が途切れ、ルークはアーロンを見上げた。
「僕にとっての海は……いつか『君』に話した場所にあるんだ」
顔も声も記憶にないが、覚えているものがある。小さな体を抱き上げてくれた腕の力強さを。両手を引いてくれた優しさを。
繋いだ手から確かに絆を感じていた。
「君と約束したのもあるからなんだろうなあ」
「――ルーク」
アーロンはルークへ向かって足を一歩踏み出した。
落ちた靴が波で濡れる。だがそんなのは些細なことだと気にも止めず、ルークを抱きしめる。
「ア、アーロン……?」
ルークは目を白黒させた。人気はまばらだが、まったくいないわけではない。いまだ太陽が空高く居座るなか、白昼堂々行われた抱擁に、近くの通行人たちの視線が遠慮なくそそがれていく。
アーロンが睨みつければ、蜘蛛の子を散らすように誰もが逃げるだろう。しかし彼はルークを抱きしめたまま、視線を下に向けていた。
波が繰り返し打ち寄せる。
アーロンやルークの足の間を海水が通り抜け、砂と一緒に引いていく。
淡く白い泡と混じりあう透明な水を目で追いかけていくうちに、アーロンは海を見た。
青い。どこまでも深く遠く――水平の彼方まで青が続いている。
当たり前のことをアーロンはいま知った。
ルークが、教えてくれた。
「……お前まさか、ここで海を見て、これで約束を果たしたつもりでいる気かよ」
抱きしめたまま声をしぼりだす。顔を見られたら、ハンカチを差し出されてしまうだろう。そんな情けない面を、アーロンは見せたくない。
「まさか!」
ルークは無理にアーロンを引き剥がそうとはしなかった。人の気持ちに対して、無駄に聡い奴だ。向こうからも手を背中にまわし、ぽんぽんと宥めるようにたたく。
「今日ここに来たのは、改めて約束をするためだ。――アーロン」
ミカグラでの騒動はひと段落したが、ハスマリーは何も変わっていない。内戦の真っ只中で、銃声が、爆弾が、人の嘆きがあふれているだろう。
けれど、今のアーロンはそれらをすべて切り伏せる自信がある。
「いつか僕を『海』へ連れてってくれるかい?」
「ったりめえだ。つうか、いつかじゃねえ。すぐにでも連れてってやるよ」
アーロンはルークから身体を離した。
真っ向から見つめて、力強く宣言する。
「オレはハスマリーから戦火を盗む。そうしたらよ、オレを連れていけ。お前の生まれた場所によ」
「……ああ!」
お互いに約束を交わしあい、ルークが破顔する。
「もちろんだ! 約束しようアーロン!」
子供みたいにはしゃぎ抱きついてくるルークをアーロンはしっかりと受け止めた。
ルークに気づかれないよう、アーロンは小さく笑う。柄にもなくこっちもはしゃいでいると気づかれてしまったら、余計にうるさくなるのは火を見るよりも明らかだったから。
ああ、でもそうだな。きっとルークと見る海はどこよりも青くきらめいているだろう。
うっすらと口元を上げながら、アーロンは目を閉じる。
――瞼を開けたアーロンは、大きく伸びをした。こんなところでうずくまってる場合じゃない。
強く海底を蹴った。
海水をかきわけ、水面目指して上昇する。
こっちに来るな。お前はまだまだ生きろと、ふと背中を押された気がした。しっかりと、二人分。
覚えのある声と力強さに、しかし振り向かずに足を魚の鰭のように動かし続けた。
そうだった。アイツらは死ぬ直前もオレやアラナを気づかう様なヤツらだった。道連れを狙うような馬鹿じゃない。
水が掻くごとに暗さは薄れていく。
ヒーローの言っていた通りだ。
青くて、きれい。
目を見開いた。
何があっても忘れないように、その青さを焼きつける。
君の言っていた通り、とてもきれいだったよ。
いつか会えたらすぐにそう伝えられるように、しっかりと。