子育て編
悟視点
「ママ!ママ……」
5歳になった薫の声に、悟は目を覚ました。
「うん?どうしたの」
「パパ……おしごと行っちゃの?」
「うん。昨日のお仕事でトラブルがあったみたいなんだ。でも夕方までには帰ってくるよ」
唇を噛んだ薫は、眉を八の字にして「約束したのに」と大きな瞳に涙を溜めている。
手には昨日の夜、傑にあてて書いた手紙が握られていた。
「そうだね。薫と約束してた、のパパも覚えてたし、楽しみにしてたよ」
「でも、おしごといっちゃった……」
今日、2月3日に渡すんだと、まだ不慣れなひらがなで傑に手紙を書いていたのだ。
何度も、何度も書き直して色鉛筆で傑の似顔絵も描いた傑作を、傑が起きたら渡したかったのだろう。
父親を想って頑張った我が子が愛しくて、悟は薫を抱き寄せた。
「薫。パパも同じ気持ちだ。今日は薫と一緒にいたかったんだ。だから、パパが帰ってきたら驚かせてあげようよ」
「おどろかせるの?」
「うん。薫とママでパパが食べたいものを作ってさ」
ねぇ?と、額にキスをすると薫は顔を上げて悟の首に腕を回して抱きついてきた。
「パパ喜んでくれるかな?」
「薫が作ってくれものなら、パパは何でも喜ぶよ」
「なら、ぼく、頑張る!」
ベッドの上でジャンプをする薫は、機嫌を直したのか寝室から飛び出した。
薫と朝食を摂ってから、着替えを済ませて買い物へ出かける。
暦の上では立春だが、寒さが際立っていて薫には毛糸の帽子にダウンを着させた。
「薫、寒くない?」
「さむくないよ。ママは?」
「僕も寒くないよ。薫が手を繋いでくれてるからね」
薫は悟の手をぎゅっと、握りしめて太陽よりも温かくて眩しい笑顔を返す。
すると何故か、空いている方の手をダウンのポケットにしまった。
「薫。手を出しておかないと危ないよ」
「あぶなくないもん。パパのためにあっためてるんだもん」
鼻の頭を赤くした薫は頬を膨らませて、繋いでいる悟の手を引く。理由も仕草も可愛いが、これで転んだりしたら事だ。
しゃがみこんで、薫に目線の高さを合わせた悟は薫の手を包んで「薫は優しいね」と、微笑んだ。
「ぼく、やさしいの?」
「うん。パパの手を握ってあげる為に、手を温めてるんだよね?でも、もしこれで転んで怪我したらパパどう思うかな?」
薫は唇を尖らせて俯くと、ポケットから手を出した。
「パパ、かなしむ……」
「うん。薫が怪我したら悲しくなるだろうね。だから、繋いでない方はポッケから出そう」
薫の頭を優しく撫でて立ち上がると、薫はポケットからきちんと手を出して悟の手を握り直した。
少し歩くと行きつけのスーパーに着く。
手を離した薫は、買い物カゴを手に悟が押すカートに乗っけた。
「薫、ありがとう」
「ボクがきょうはパパの代わりだよ!」
へへっと、はにかんだ薫は、悟の隣をピッタリとくっついて歩く。
天使の輪が浮かぶ、傑と同じ濡れ羽色の黒髪をそっと撫でた。
「ありがとう、薫。ところで、パパには何を作ってあげるの?」
「オムライス!切るとトロトロってなるやつ」
「そっか。パパ喜ぶよ。帰ったら一緒に作ろうね」
薫はやる気満々といった様子で、悟のズボンを引っ張った。
「あっ、こら。伸びちゃうよ薫」
「へへっ!ママは、なにつくるの?」
「僕?」
正直、薫が作りたいものを食卓に出そうと考えていたので、悟はえーと、と薫から視線を逸らした。
「ママ?」
「ママは……ハンバーグとか?かな?」
「ハンバーグは、おとといパパが作ってくれたよ?」
「そ、そうだっけ」
ははっ、と誤魔化すように笑って買い物カゴに卵や鶏もも肉等を入れてった。
結局オムライス以外には、その日特売だった牛肉からハヤシライスに決めてしまった。
だが、薫も好きなメニューだ。
それに、プレゼントに渡そうと思っているウイスキーにも合いそうだ。
などと、自分を納得させて悟は薫と家路を急いだ。
「ママ!ママ!こげちゃう」
「大丈夫だよ。落ち着いて」
チキンライスを作るため、少し大きいエプロンをした薫は踏み台に乗り玉ねぎを炒めている。
油が少し跳ねたのが怖かったのだろう。持っていたヘラを離してしまった。
「今、火を弱くしたからね。ほら、ゆっくり」
「う、うん!」
唇を噛んだ薫は、気合いを入れ直したのかフライパンの玉ねぎをそっと炒め始めた。
「上手だよ薫。今、鶏肉も入れるけど大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ!」
ゆっくりと鶏肉をフライパンに入れて、薫を見ながらハヤシライスの仕込みを始める。
「ママ!どう」
「うん。玉ねぎもクタクタだし、ご飯を入れたらママが代わるから、薫は卵を割ってみようか」
ご飯が入ると力が居るので、薫に新しいミッションを任せて、チキンライスを一気に完成させる。
「ママ!うまくわれない」
「いいんだよ。殻が入ったら取ればいいんだし」
チキンライスを皿に盛り付けた悟は、ボールに入ってしまった殻を取り除き、牛乳を混ぜた。
「ここからが本番だろ?薫。卵を焼くぞ」
「うん!がんばる」
腕を捲った薫は、ボールに入ったら卵をフライパンに流し入れる。
キッチンに立つ前に見た動画を思い出しているのだろうか、カシャカシャと卵を箸で回し始めた。
「上手だぞ薫!」
箸を持つ薫の手に手を添えて、更にトロトロ卵になるようにさえ箸を早く動かす。
「よし、出来た!お皿のチキンライスに乗せよう」
「えっー!でもこれオムライスじゃないよ」
薫はレストランなどでみるドレスのような形を想像しているのだろう。
――それは流石に僕でも無理だ。
唇を尖らせる薫に苦笑いをしながら、半熟状態の卵をチキンライスに乗せた。
次に、トマトケチャップでメッセージを書くが中々上手くいかない。
辛うじて『パパ』と『オメデトウ』が見える。
「で、できた!」
「うん。凄いよ薫!パパ、きっと喜んでくれるよ」
そう言って、放置していた鍋に悟はハヤシライスのルーを投げ込んだ。
風呂も済ませ、薫と2人傑が帰ってくるのを待つ。
「ねぇ、まだ?」
「まだかな。パパからLINE来てまだ3分しかたってないよ」
ソファーに腰掛けてクラッカーを構えた薫は、頬を膨らませた。
「あと何分でくるのー」
「そうだね。あと最低でも20分くらいかな」
「ふっー!」
薫は待ちきれないのか、ソファーから降りると玄関へ向かった。悟もすこし離れてついて行くと、玄関の扉を開けてしゃがみこんでいる。
マンション内に外気は届かないので、外ほど寒くは無いがらこのままでは風邪を引いてしまう。
「薫。これ着て」
「さむくないもん」
「風邪ひいたら、明日パパとお出かけ出来ないよ」
「それは…やだ」
「じゃあ、これ着てね」
薫に上着を着させてから、悟も玄関で傑の帰りを待つ。
そのまま暫く薫は玄関の扉の所で覗いてたが、いきなり立ち上がった。
「パパー!」
「ふふっ、ただいま。薫」
玄関の扉が完全に開き、嬉しそうに目尻を垂らした傑か薫を抱き上げる。
「こんな所で待っていてくれたのかい?」
「うん!ママとね!パパのおたんじ……。あっ!クラッカー」
薫は傑の腕から降りると、リビングに駆け足で向かい、クラッカーを手に戻ってきた。
「おや、何持ってきたの?」
「パパ!おたんじょうび、おめでとう!」
薫は満面の笑みでクラッカーの紐を引く。すると、軽快な音と共にカラフルな紙が弾けた。
「今日、朝からずっと傑のお誕生日だからって、張り切ってるんだよ」
天使すぎる我が子を見つめて、緩む口元を抑えていると、傑は腰を落として薫を抱きしめた。
「ありがとう。ありがとう……薫」
「パパ?なんで泣いてるの?」
薫をぎゅっと、抱き寄せる傑の目尻に光る物が見えて、悟も目の奥が熱くなる。
「薫にお祝いされて、パパ嬉しいんだよ」
「うん……うん。そうだよ。ありがとう薫」
目元を微かに赤くして喜ぶ傑も愛おしいくて、悟は薫と傑をまとめて抱き寄せた。
「傑、今日の晩御飯は薫が殆ど作ったんだ」
耳元で囁くと、顔を上げた傑は更に涙を零して薫の額にキスをした。
「そうだよ!ぼくね、ママとオムライス作ったの!」
「そっか。楽しみだな」
「でしょ!」
傑の手を掴んだ薫はリビングへ向かうと、傑をソファーに傑を座らせた。
「これ、パパのオムライスだよ!」
「こ、これ……薫が書いたの?」
「へへっ、そうだよ」
予めテーブルに用意していた『パパだいすき』と、ケチャップで書かれたオムライスに傑は顔を両手で覆う。
「パ、パパ?」
「やばい……どうしよう」
こんなに感極まる傑は始めてだ。
鼻をすすりながら歓喜に唸る傑ごと、スマホのカメラで撮る。
「パパ嬉し過ぎて泣いちゃったんだよ。薫」
「ほんと!?」
「ありがとう。薫……本当だよ」
何度か写真を撮った傑は「勿体ないな」と、言いながらもオムライスを口にした。
「ど、どう?パパ」
「うん!すごーく美味しいよ。ありがとう薫」
「ほんと!やった!」
傑が喜んでくれたのが、余程嬉しかったのだろう。薫は自分の食事よりも「パパ!おいしい?」と傑の膝の上に乗り抱きつく。
「うん!こんなに美味しいオムライスは初めてだよ。薫」
夢中になる薫は可愛いが、このままでは興奮して食事を忘れてしまいそうだ。
「ほら、薫もご飯食べようね。ご飯が終わったらパパと一緒にお風呂入るんだろ」
優しく悟に頭を撫でられると、漸く薫は傑の隣に座って、小盛したオムライスを食べ始めた。
「偉いぞ。お風呂出たら何したい?薫」
「あっ!ぼくね!パパにごほん読んであげる」
「おや、それは嬉しな」
幸せな笑い声が響くリビングは、寒さの際立つ夜だというのに春が訪れたようだ。
来んな絵に書いたような幸せがあるのだな。と、改めて悟もじんわりと熱い物が込み上げきて、滲む視界で傑と薫を見つめた。
「寝ちゃったね。薫」
「今日は、朝から張り切ってたからね」
風呂から出たら、傑に絵本を読んで上げるんだと興奮していた薫だが、風呂から出ると電池が切れたように眠ってしまったのだ。
寝室のベッドに寝かせて、傑と2人で寝顔を覗き込む。
「これ、薫が傑にって書いた手紙」
「えっ、手紙!?」
驚いた傑が声を上げてしまうが、薫は起きる気配はない。
傑と2人、ふぅと息を吐いて4つ折りにされた紙開く。
『パパ、だいすき。おたんじょうびおめでとう。ママもだいすきだよ』
最近覚えたひらがななので、“お”の向きが逆になっていたりするが、それがまた愛おしいく感じて傑はまた鼻をすすり始めた。
手紙の下の方に描かれた傑と悟、薫3人の顔も慈しみに満ちた表情で見つめている。
「傑、涙脆くなったな」
「こんなのもらったら、涙止まらないだろ!」
はいはい、と笑って傑を抱き寄せた。
「ふふっ、でも僕も薫に負けないくらい傑が大好きだよ。お誕生日おめでとう」
「さとる……」
薫を起こさなようにキスをした。
「ママ………パパ……」
いきなり名前を呼ばれて唇を離すが、寝言のようだ。口をむにゃむにゃさせる薫は、寝返りを打った。
「続きはリビングだな」
「そうだね。薫が起きてしまう」
ふふっ、と笑い合って薫の額にキスした悟と傑は静かに寝室を後にした。
手を繋ぎ、リビングで傑と抱き合いハチミツよりも甘い2人の時間が始まった。
終