好吃的 湯浴みを済ませたクン・ラオは自室に戻ると、小さな灯りだけ点けてさっぱりとした身体を寝台に預けた。投げ出された四肢と瞼は心地よい疲労感が纏わりついて重い。
少し早いが、このまま寝てしまおうか。そう考えていると、枕元の炎がわずかに揺らめいた。誰が入ってきたのかは分かっている。
「何だ」
「いや、なにも」
どうやら緊急事態ではなさそうだ。ゆっくりと兄弟子の傍に立ったリュウ・カンの面差しは日中と変わりなく穏やかだった。だがそのまま何も言わず、目を細めてやわらかく微笑んだまま動かない。
もう眠いから、火急でないなら明日にしてくれ。そう言いながら右手を少し上げたときだった。
ラオの右手首を素早く、だが恭しく手に取ると、リュウはてのひらに口づけた。骨と肉のかたちづくる凹凸を確かめるように唇を滑らせ、中指の付け根にそっと舌を這わせる。指先の小さな傷を何度かなぞり、爪の付け根に吸い付き、指先を食む。ラオはそれを見上げながら少し眉根を寄せたが、振り払うのも咎めるために口を動かすのもなんだか面倒で、されるがままでいた。
手の甲になだれ落ちたやわらかな感触は、尺骨の出っ張りを経由して、手首の裏の太い血管が走る箇所へと辿り着く。人体の急所のひとつでもあるそこへ、まるで命の雫を欲するように吸いついた。血の流れに沿って不規則に、彼がそうしたいと思った場所へ、ひとつ、またひとつ、触れていく。よく鍛えられた肉体を覆う皮膚は強靭だったが、そのあたりは他よりも薄くできていたから、ひどくこそばゆく感じた。未だ湯の温もりを含んだままの皮膚と、血の赤を透かしたいろの唇の温度が交じってゆく。
時間をかけて肘のくぼみの形を確かめると、リュウは捧げ持っていたラオの腕をそっと元の通り、寝台に横たえた。気が済んだか、とかすかに首を巡らせて見やった瞳に訴える。男の黒い目は月の夜に揺らめく水面のような輝きを湛えていたが、ラオにはその奥にまだ渇求が沈んでいるのが見てとれた。視線に気づいたリュウはすこしだけ眉尻を下げ、その場に膝をついて高さを合わせると、こちらの目を見たままゆっくりと、緩慢な仕草で上腕にかぶりついた。
何度も何度も、見逃しがあってはいけないとばかりに、丹念に口付けが落とされていく。体が刺激に反応してときおり強張るのを感じて、リュウはまたそちらに唇を押し付ける。弛緩した筋肉の繊維に歯を立て、歯列の間に含んだ肉が、舌を押し返す感触を楽しんでいるようだった――楽しいのか? 疑問が頭をかすめたが、そうでなければこんなことをやっている意味がわからない。そういえばこの間久方ぶりに手に入った、瑞々しいスモモを食べていたときに似た表情だ。だが嚙り付いているのはスモモよりずっと体積の大きなかたまりだったし、香しくも甘くもないどころかむしろ塩気がするだろう……先程きちんと洗ったつもりだが。甘い果汁の代わりに滴っているのは、リュウ自身の唾液だけだ。
入浴のとき、付け外しが煩わしくてそのままにしていた革紐はまだ水分を含んでいた。いつもより重たくなったその紐にも嚙り付かれる。歯に挟まれて引っ張られた紐が肌に食い込み、擦れた隙間に舌が差し込まれる。唇が離れて湿った吐息が肌を覆い、また次の箇所に食いつく。揺れる黒い髪の束が肩に触れる。眠気で鈍麻した全身の感覚の中で、それらだけが意識をくすぐり続けていた。
どれくらい時間が経った頃か、ひときわ膨らんだ肩の頂点に二、三度強く吸い付くと、リュウは立ち上がって、ひとつ大きな息を吐いた。終わったのか。なんだったんだ。いくつも浮かんでいた疑問符を投げつける前にしかし、リュウは口の端を拭うと、さもそれだけを告げに来たように「おやすみ」とだけ言って、影のように立ち去った。自分も腕を拭ったほうがよいと頭の片隅で分かってはいながらも、さんざんに蹂躙された右腕もそれ以外も、まるで風邪を引いたときのように動かすのがひどく億劫で、ラオは灯りも消せぬまま、しばらくまどろみに沈んでいた。