おはなし①「すみません、麦わらのルフィさんですよね?」
上陸した島の繁華街で、昼食を終えた時だった。レストランから出ようとしたルフィの元へ駆け寄ったウェイトレスが、分厚い封筒を差し出した。
「これ、受け取っていただけますか?」
桃色の封筒を持っつ手は小刻みに震え、伏せ目がちな視線はキョロキョロと足元を右往左往し、顔が茹でダコのように真っ赤に染まっていた。そんな彼女の状況を気にもせず「おう、いいぞ」と何の疑いもせず、ルフィは封筒を受け取った。
「ありがとうございます!あのっ……お、お慕い、しております!」
「ん?そうかぁ。それじゃあ行くな」
「はい。是非またいらしてください!」
人のいい笑みを浮かべたルフィは「満腹満腹」と腹を摩りながらレストランの扉を開き、ウェイトレスは深々とお辞儀をして後ろ姿を見送る。突然繰り広げられた珍しい状況の一部始終を見せられていた麦わらの一味も、ルフィを追ってぞろぞろと店を後にした。
「それ、変なもの入ってないでしょうね?」
レストランを出てルフィの元へ駆け寄ったナミは、早速手渡されたやたらと分厚い封筒を訝しげに眺めた。
「んーそんなに悪い気はしねぇけどな」
「そりゃ手紙を貰えば嬉しいでしょう」
「ん?そう言う意味じゃねぇけど」
「じゃあどう言う意味よ」
疑問符を浮かべるナミに、繁々と封筒を眺めていたルフィは「変なものなんて入ってねぇよ」と、封をしていた花の形をしたシールを剥ぎ取る。みっちりと入っていたのは紙の束で、封筒と同じ色の可愛らしい装飾が施された便箋に、これまたみっちりと文字が並んでいた。その数ざっと二十枚ほどで、ルフィの背後を歩いていたロビンが「熱烈ね」と小さく囁いた。
「ねつれつ?」
「だってそれ、ラブレターなんじゃないの?」
「なにー!ルフィ、ラブレター貰ったのかよ!」
気になって気になってしょうがなかった様子のウソップが、ルフィに肩を組みながらニヤリと笑った。「お前も隅におけねぇなぁ♪」とやたらと機嫌良くルフィの体を肘で小突いた。
手紙の内容を読んでいるのかいないのか、一通り手紙を眺めたルフィは「んー」と唇を引き結んだ。
「どうしたんだ?」
「おれ、こいつのこと何も知らねえ」
「あーまあ、確かに」
「なんで俺のこと知ってんだ?」
「そりゃまあ、一応お前も四皇の一人だからじゃねぇか?」
「そういうことか?」
疑問符を掲げあっていたウソップとルフィの元へチョッパーが「なんだなんだー?」と、二人が楽しいものでも見つけたのかと駆け寄った。
「それがなー、ちと難しい問題を考えていたところなんだよ、チョッパー君」
ウソップが真面目な口調で話し始め、三人で仲良く停泊している船へ向かう様子を、その他の一味は優しい眼差しで見つめていた。
◇
「ちょっとーサンジ君!」
「どうしたの、ナミすぁあん♡」
一通り夕食の仕込みを終えたサンジは、♡マークを振り撒きながらナミの元へと向かった。
「ルフィが帰って来ないのよ」
「はぁ?」
「散歩に行くって言い出して、夕飯までには帰るって約束してたのに……。変な事に首突っ込んでなきゃいいんだけど」
げんなりとしているナミの言葉に、ふと昼時の光景が頭を過ったサンジは、自らの考えを消し去るように「それじゃあ探してくるよ」と和かな笑みを作った。
「よろしくね」
「あぁ。もし、遅くなった時には先に食べてていいから」
「分かったわ。いつもありがとう」
ナミの屈託の無い笑みにメロメロに顔を蕩けさせながら、サンジは船を降りて島の繁華街へと向かった。
足早に進む歩みは、今日昼食をとったレストランへと向かっていた。もしかしたら、あいつが居る、かもしれないから。サンジ自身、一体何に焦っているのか分からなかった。でも、レストランに船長が居たら『嫌だな』と純粋な気持ちを抱いた。
心の葛藤を終えることなく、辿り着いたレストランの入り口をそっと開く。軽やかなチャイムと共に「いらっしゃいませ」とあちらこちらから声が上がり、丸テーブルが並べられた店内をくまなく眺める。夕食少し前の店内は客がチラホラと席に座り、和やかな空気が流れている。騒がしい元を辿れば、大体その騒がしさの起因になるような男が居るようには到底思えなかった。
「テーブルへご案内致します」
こちらに声をかけて来たウェイトレスは、ルフィに封筒を渡していた者で、「あ」と二人の声が同じようにこだました。
「ルフィさんの……」
「あ、あぁ。少し、探しものがあって」
普段の女性に対峙する対応とは違った、やけに余所余所しい態度で手のひらを上げていたサンジは「どうやら違う場所にあるようなので」と、逃げるようにレストランの扉を開いた。
「ったく、どこほっつき歩いてんだよ」
行儀悪くも、大きな舌打ちを立てる。そして街の外れで立ち止まり、すっと見聞色の覇気で船長特有の存在を探った。島の繁華街から外れた先に、青々と緑の茂る山が鎮座しており、探し人はどうやらその中に居るようだ。こめかみに青筋を立てつつも、サンジは森の入り口に歩みを進めた。
森の中は鳥達の囀りと、ゆるく吹いた風で木の葉がぶつかり合う音が小波のように響き、サンジが歩く度に地面から生い茂る草が揺れ動く音と、枯れ草や枯れ木を踏み締める音がした。道なき道を見聞色で感じた存在を頼りに辿って進めば、西に傾いた陽射しが入り込む、広い草地が現れた。
サンジが一歩踏み出したことで鳴った枯草を踏みしめる音に、鳥達が一斉に羽ばたく音と、ガサガサと草むらの中へ何かが駆け込んで行く音が響いた。音のした方を振り向けば、草むらの上で仰向けに寝転がり、麦わら帽子で顔を覆っている目的の人物が居た。サンジは敵に襲われたのかと咄嗟に駆け寄る。そして、麦わら帽子を掴んでそっと持ち上げれば、そこには小さな寝息を立てて気持ちよさそうに寝こけている顔があり、心の底から安堵した。
船長の周りを見渡せば、抜け落ちた鳥の羽や小動物が居た形跡が見られ、一瞬御伽噺のお姫様が小動物達に囲まれて楽しそうにしている光景が頭を過った。頭を振って溜め息を吐いたサンジは誰に向けるでも無く「なんでも引寄せるんだな」と呟いて、持っていた麦わら帽子を船長の顔に置いて立ち上がる。
オレンジ色を帯び始めた陽射しに照らされながら、片足を上げて「起きろクソゴム!」と憂さ晴らしでもするように、足を腹に叩き込んだ。
◇
夕食の皿洗いや朝食の仕込みを済ませたサンジは、上弦の月が浮かぶ空を眺めながら煙草をふかしていた。港に錨を下ろした船上は小さな波を受けて僅かに揺れ動き、夜風も殆どない静かな夜だった。吐き出した煙がゆっくりと立ち昇っていく様を眺める。
胸元からポケット灰皿を取り出し、トントンとリズミカルに煙草の側面を灰皿に打ち付け、もう一度口へと運ぶ。本日のハイライトを脳内で再生しようとした途端、「サンジー!」と騒々しい男の声が響いた。
「んだよ」
「なあなあ、腹減った」
「おまえ!あんだけ食っといて……っ、はぁ、分かったよ」
本日の夕食も元気いっぱい全てを完食し、お腹いっぱいだと言っていた船長に溜め息を吐いて煙草の火を揉み消せば、相槌のようにキュルキュルキュルーと腹の音が響いた。
キッチンへと戻ったサンジは、冷やご飯とコーンを炒めたコーンピラフをさっと作り終え、キッチンに面したテーブルで待ち構えていた男の前に皿を置いた。「いただきます!」と熱々のそれを勢いよく頬張り「あつっ!」と咽せる男に、無意識に頬が緩んでいた。
どうしてこうも、目が離せないのだろうか……。
そんな、この男と出会ってから当たり前になっていた事柄を思い浮かべれば、ふと今日あった些細な出来事が頭を過る。それらは小さなパズルのピースのように寄せ集まって組み上がり、考えても仕方がないものを見せつける。目の前でピラフを食べる男の、禍々しいまでの全てを惹き寄せる引力と、抗う事が出来ずにまんまと近づき、傍に居たいと抱いてしまう心情を。
レストランのウェイトレスに、森の小鳥や小動物、この船に乗る一味だって同じだ。この男の、覆される事のない大いなる志に惚れ込んで、その志を共に叶えたいと願った者達が集っていく。まるで、逃れられない引力でもあるかのように。そしてサンジ自身が、それら諸々の中の一つなのだと言うことを、仕方なく受け入れようとした瞬間、心の隅が嫌な震え方をして、至った答えに拒否反応を示した。
ぎゅうっと胸が締め付けられるような痛み。それを誤魔化すように、胸ポケットに収めていた煙草の箱を取り出す。慣れた手つきで煙草を取り出し、火をつけ一思いに煙で肺を満たした。ふと男を見れば口の端に米粒を付けており、サンジは歩み寄って男の口元に手を伸ばしていた。
「サンジ?」
「……ついてる」
「おっ本当だ!」
男はサンジが指先で摘んだ一粒の米を、指先ごとパクリと口で含んで、逃すまいと舌先で舐め取り、そのまま飲み込んだ。何てことない一瞬の出来事が、脳内をじりじり焦がす。やたらと生温い粘膜の感触が残る、人差し指の腹と親指の腹を擦り合わせながらサンジは口を開いた。
「なあ」
「ん?」
「お前が、……俺の特別だって言ったら、どうする?」
サンジ自身、何を言っているんだと思った。こんなこと聞いてどうするのか、と。でも、発してしまった問いかけはもう取り消すことは出来ない。食べていたピラフからこちらに顔を向けた男の瞳がまん丸に丸まって、パチパチと瞬いた。そしてゆっくりとピラフへと視線を戻した。
無駄のない男の横顔を煙草を燻らせながら眺めていれば、徐々に俯き加減になり、ほんのりと染まっていく頬と共に、「……うれしい」と小さく消え入りそうな声が響いた。サンジを見ることもなく食事を再開した男は、コーン一粒も残すことなく完食し終え、掌を合わせて「ごちそうさまでした」と言った。
そんな男をじっと見つめる。『うれしい』に潜む意味に、自らの欲望が入り混じった解釈をしてしまいそうで、怖くなった。互いの想いのレールが、勘違いによって気が付けば、全く違う方向へ向かっていた時の虚しさを考えたら、一思いに喜んで受け入れきれないでいる。
俺はコイツに何を求めているのだろうか。
それでも浮かんでくる言葉を言うべきか否かを迷う。言葉にしてしまった瞬間、何かが変わってしまいそうで尻込みする。でも、この男とこんな話が出来るタイミングなんて、今くらいしかない、だろうから。
サンジはシンクに皿を置き、キッチンを出ていこうとする男の二の腕を掴み「でも」と切羽詰まった声を出した。
「お前のこと、みんな特別だって、思っているんだぞ?」
「……え?」
きょとりと丸まった黒い瞳に、天井のライトの光がチラチラと映り込んで、まるで今日見上げた夜空の星みたいだな、と呑気な想像を繰り広げていた矢先、見つめていた瞳の纏う雰囲気が一変する。眉根をぎゅっと寄せてどこか怒気を含む瞳は、しっかりとサンジを射抜いた。
「俺、勘違いしてたみてぇだ」
二の腕を振ってサンジの手を払いのけた男は、ずんずんと怒りを露にしながらキッチンから出ていく。初めて男から晒される拒絶のような態度に、蝋人形のように固まった。そして、ようやっと動き始めた男の二の腕を掴んでいた手のひらで、自らの顔を包んで長い溜め息を吐いた。
「意味わかんねぇ……」
いや、分かっている。
ただ、完璧な確証が持てないと逃げてしまう臆病者の自分が、この状況でも疑心暗鬼に陥っているだけだった。
◇
ここ二、三日、船長にあからさまな誤魔化しの態度を取られていたサンジだったが、本人は自分たちだけが分かる些細なものだと思っていた。
島から出向して数日、晴れ渡る空と穏やかな波は今なお健在で、ゆったりと進みゆく午後のティータイムの準備に精を出していた。
ティーポットから流れ出る紅茶をカップに注いでいた矢先、サンジを眺めていたナミが口を開いた。
「ねぇあんた達、喧嘩でもしたの?」
注いでいた紅茶が一瞬揺らぐも必死で堪えたサンジは、溢さずに済んだカップとソーサをナミへと配膳し、白々しい笑みを貼り付けて「え~?」とぶりっ子しつつ誤魔化した。
「で、なにがあったの?」
容赦なく言い放つニコニコ笑顔のロビンと、笑顔を浮かべるもじっとりとサンジを射抜くナミの尋問体制に、両手と共に白旗を上げ、数日前に起こった船長との会話を掻い摘んで話した。
一通りサンジの話を聞き終えた二人は、過行く地平線を眺めながら紅茶を口にした。ふうと一息付いたロビンがカップをソーサへと置き、テーブルに両肘を付いてサンジを見上げた。
「悲観的過ぎるのも困ったものね」
「へっ?」
「そうね。サンジ君は本当に大切にしたいものに対して特にネガティブになるから」
「……」
「染みついた考えを失くして、もう一度ルフィとの会話を反芻してみたら?」
女性陣からの痛いところを付くチクリとした言葉に、サンジは眉をひそめて黙り込む。ぼんやりと二人を見つめていたところで、ナミが空になったカップを差し出した。
「おかわりできるかしら?」
微笑みを湛えつつ小首を傾げた事で、艶やかなオレンジ色の髪がデコルテに流れていく光景をうっとりと眺めながらカップを受け取る。浮かれた男心を隠すことなく、お茶の準備をするためにキッチンへと向かった。
ティーポットと茶葉を保管しているキャニスターを取り出して蓋を開けば、甘くも奥ゆかしい香りが辺りに漂う。ティーポットへと茶葉を入れ、コンロにかけていたケトルの水が沸騰するのを待つ。ポケットから取り出した煙草の箱をトントンと叩き、出てきた煙草を唇で捕まえる。流れるようにライターで火を点して煙を燻らせる。
サンジの頭の中を占領しているのは先ほどの会話だ。サンジ自身も船長の機嫌を損ねたのは自分が原因であると理解していたが、あからさまな態度の違いを見せられるとは思ってもいなかった。そして、彼女たちはそれら一連の出来事をポジティブに捉えよと促しているのだ。
ケトルの口から蒸気が溢れ出し、一定時間沸騰状態を見つめたサンジは火を止めた。煙草を咥えたままティーポットへと湯を注ぎ、タイマーをセットする。
「それができたら、おめでたいんだがなぁ」
煙を溢れさせながら独り呟く。そうやすやすと考え方を変えることが出来たら、ここまで苦労はしないだろう。もう一度煙草に口を付けたところで、タイマーが茶葉の頃合いを知らせた。カップに茶を注ぎ、盆の上のソーサへと置く。レディの待つテーブルへと足を向ければ、ロビンのお菓子を強請っていた船長と鉢合わせた。
「げっ!」と分かりやすく変な顔と声を出して逃げの体勢に入った船長に「こんのクソゴム!」と叫ぶ。
「サンジ君」
「はい!ナミさん!おかわりお持ちしました♡」
「ありがとう。今日のアフタヌーンティーも美味しいわ」
「嬉しいお言葉」
「もう、おかわりはしないから」
「へ?」
「ね?」
先ほどとは違った悪戯っ子のような微笑みを浮かべたナミの言葉に含まれるニュアンスを汲み取ったサンジは、瞳の奥の♡マークを隠すことなく「了解しました」と軽くお辞儀をした。そして身を正し、忽然と姿を消した船長へと声を掛けた。
「おいクソゴム!お前のオヤツはこっちだ」
サンジの言葉にどこからか姿を現した船長は、スタスタとレディ達が座るテーブルを通り過ぎ、キッチンへ続く扉をガチャリと開いてくるりとサンジを見つめた。
「おい、まだか?」と大きな声を出す、なんとも薄情な食い気しかない男に盛大な舌打ちをした。
◇
サンジは冷蔵庫から取り出したステンレスのボールに丸皿を被せた。そして皿ごとひっくり返し、上下に何度か揺さぶる。逆さまのボールを取り上げれば、皿の中央にぷるんと震える大きな黄色のプリンが現れた。つるりとした表面にさらさらと茶色のカラメルが垂れ流れていく。
揺れ動く今日のおやつをテーブルへと置きながら「お前のだけ大きめに作ったからな」と言えば、男は「うんまそ」と呟きながらもプリンに目が釘付けで、右手にスプーンのスタンバイが完了していた。
「いただきます」
「おう」
幸せそうに頬を緩ませてプリンを掬い始めた男の横顔を眺めながら、隣の椅子へと腰掛ける。テーブルに左肘をついて手のひらで自らの顎を支えながら、大きめに作った筈の馬鹿デカいプリンが、三分の一ほどが無くなっていく様子を眺め、飲み物みてえだなとぼんやり考えた。そして、あの日もこんな何でもない日常の中の一瞬だったな、と。
ご機嫌にプリンをつつく男の頬に指先を伸ばしてしまいそうになって、はたと気が付いた。頭だけはいっちょ前な御託を並べて目の前の現実を受け入れないでいるのに、気を抜いた体は密やかに確実に目の前の男に興味を示しているのだ。途端にサンジの頬に熱が走った。素直になれないのは頭の中だけだった。
渇いた喉を潤すために、一度唾液を嚥下する。伸ばしかけた手を握り締め、力なく体の横に下ろした。
「なあ」
「ん?」
声だけで未だにこちらを見ようとしない男に「お前の、勘違い」と言えば、分かりやすく肩を震わせ、プリンに伸びかけていたスプーンの動きが止まった。プリンを見つめていた瞳が心配を含んで左右にチラチラと動き始める。心なしか眉が自信なさげに歪んだようにも見えた。サンジの鼓動が徐々に速くなり、吐き出す呼吸に僅かな希望に縋ろうとする気持ちが溢れ出す。ポジティブに捉えよと、頭の中に言いふらす。
「お、俺の特別ってやつが、その……嬉しかったってこと、か?」
たどたどしい言葉の末、語尾は自身なくか細く震えた。二人の間に訪れた沈黙が、ゆっくりと過ぎ去る。長いようで短い時間ののち、男の左手が迷うことなく首元へと向かい、ぶらさがっていた麦わら帽子を引っ掴み、黒髪に押し付けるように深々と帽子を被った。そして一連の様子を伺っていたサンジの目に、普段の子どものように活発で朗らかな男とは思えないほどか弱い動きで、首が上下に一度だけ頷く姿が見えた。その、いじらしい光景に全身が一気に熱くなった。
握り締めていた手のひらを開けばしっとりと汗ばんでおり、そのままネクタイを掴んで緩め熱を逃がす。互いの気持ちを確認する言葉が、まったくと言っていい程に足りない筈なのに、男から向けられた肯定の気持ちに浮足だつ。しかし、決定的なことは何一つ分かっていない宙ぶらりんの状態で、またもや逃げられてしまうことだけは避けたかった。
ネクタイを緩めた右手を、帽子をしっかりと握り締めている男の左手首に伸ばした。掴んだ手首はびくりと驚いたように揺れ、こちらから逸れるような動きをした。いま、逃げられることだけは嫌だった。
何から口にすればいいのか、頭の中が真っ白になってしまい、素直な言葉が口から洩れた。
「か、顔、……見たい」
喉を震わせ言葉にした自分自身にも驚いたが、目の前の男は右手のスプーンをテーブルに放り出し、帽子の鍔を握り更に深々と帽子を被った。そして左右に首を振り、拒否の姿勢を見せる。その姿に急に寂しさを覚えて咄嗟に口を開いていた。
「お、俺も……!もし、お前が俺と同じ気持ちなら……、この気持ちっていうのは、他の奴が思っているとは別の、その」
完結していない言葉を出まかせにボロボロと口から溢れさせる。男は何を否定するでもなく耳は傾けてくれているようで、サンジは男の手首を掴んでいない手を口元に当てながら言葉を続けた。
「いや、その、なにが言いたいかって言うと、その……。お、俺は、お、お前と……、ただ一緒に冒険をしているだけじゃなくて……。て、手を繋ぎたいとか、きっキス、していとか、その、そういう『特別』ってやつ、で」
きざったらしい相手を魅了する言葉なんて思いつきもせず、ただただ自分の思うままに口にすれば、小さなわがままが顔を出していく。
どうしても、どうしても、帽子の下に隠された男の顔が見たくてしょうがなくて、衝動的に椅子から立ち上がった。男の座る椅子へと一歩歩み寄り、すぐ足元にしゃがみ込む。ゆっくりと頑なに俯く男の顔を覗き込めば、困ったように眉を歪ませ、こちらが驚くほどに真っ赤に染まった顔をしていた。
驚きに目を見開いたサンジは、彼のこの顔が全ての答えのようにも思えた。しかし、今の自分達にはきちんとした確認が必要で、やたらと渇いた喉を必死に震わせ、一文字一文字の音を吐き出した。
「そういう、俺の『特別』ってやつと、お前の思っているそれは……同じ、か?」
沈黙を貫く男の黒い瞳が心許なく左右に彷徨い、普段は喜怒哀楽を表すよく動く唇が真一文字に引き結ばれていたが、小さく開いた。
「お、おれは、あの時。うれしかった。でも」
意を決した黒い瞳と久しぶりに視線が合わさる。ただそれだけの事なのに、ドキドキと胸を弾ませてしまう。男の口からは堰を切ったように言葉が溢れだし、サンジはひとつとして取りこぼさぬよう耳を傾けた。
「……お前と、手をつなぎたい、とか、きす、とか、その……どんなことするとかはわかんねえ。けど、俺はお前の『特別』が、いい」
じわじわと広がっていく胸の高まりが止められず「なあ」と口にしたサンジは、疑問符を浮かべた男を熱っぽく見つめた。
「もっと近くで顔、見ても……いいか?」
一度大きく目を見開いた男は、ゆっくりと承諾の頷きをした。互いの気持ちが分かっただけで、普段は見せないようにしている自らの我儘が制御出来なくなって驚いた。多分、口元が緩んでしまっていると思う。
掴んだままの男の左手首を開放し、腰を上げて帽子の鍔の陰の中へ自らの顔を寄せる。
「俺も。お前と一緒の気持ちだって分かって、嬉しい」
ありのままの気持ちで微笑めば、目の前でまん丸になった瞳がパチパチと瞬いて、ああ、あの時と一緒の瞳だと思う。
今、違っているのは、その瞳がふにゃりと緩んだ笑みを湛え、嬉しそうな声音で「おれも」と囁いたことだった。
おわり