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    蜂須賀

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    蜂須賀

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    ちょっと不思議話、1篇。
    弐之助さん主催のアンソロジー『幻想奇譚蒐集録』より再掲

     二次元、映す面、その輪郭 三綴りその朝は頭痛と上がってくる胃酸の不快感で不機嫌に髭をあたっていた。電動は好かないから毎朝カミソリを使っている。
    目覚めたのは居間の床だった。カーテンを閉める習慣を忘れて久しい窓から射す朝日が、目の前のアルミ缶から零れた液体と、緑の瓶に当たり煌めいていた。まるで他人事のようにそれをぼんやり眺めるが、数時間前の自分と今の自分が繋がっていないわけはない。浴びるように飲むアルコールはやがて循環代謝され頻繁に通うトイレで体外に排出されるものが、飲酒したという自己嫌悪だけはそうはいかず、体内に溜まり続けた。肉体を管として、なにもかもがただ通り過ぎればよいものを。
     うつろな顔と荒れた肌を見たくなくてカミソリを当てる部分だけに視線を集中する。それから目を閉じて指先の感覚で顎のラインと三日分の伸び丈を探る。ふと、かすかなカビの匂いがした。のろのろと手を動かしながらぼんやりと思う。雨? いや、ついさっき陽の眩しさで目が覚めたのだ、そんな予報だったか。天気などに関心を向ける生活でもないが、けれど時折見上げる空の色を無意識に読む癖程度は残っていた。
    重いまぶたを開けてみると鏡には、だらしなく開いた木戸の外、薄曇りの雨の降る空が映っていた。カミソリを持つ手を止める。電気をつけない洗面所の、今自分の左を照らす窓は明るい。戸惑い、振り返った。勢い顎から滑り落ちた泡がシャツを伝って、板間にヒタと音をたてる。視線の先では、縁側に取り込んだままの洗濯物の山に朝日が差していた。
    見間違いかと向き直った鏡の向こうには、やはり雨の煙る様が見え、眉をひそめたその瞬間、黒い影が窓の外を横切った。驚いて瞬きをすると、雨は消え失せて、そこにはもう呪いたくなるような月曜の陽光があるばかりだった。
     先のモノは人影のように思えた。古い家屋だ、こんな陰鬱な男が長年棲みついては、なにか得体の知れないモノのひとつやふたつ呼び寄せてもおかしくない、そう、こんな惨めな暮らしの男ひとり……おのれを憐れもうとした時、呑酸を伴いゲップが出、ジェホンはその下世話さに自嘲した。
    それからも、鏡だけに映る雨はいくども現れた。それは決まって深酒を後悔する晴れた日の朝、つまり毎週月曜の朝に。肉眼では見られないそれを、髭を剃りながら、歯を磨きながら、髪を整えながら眺めるようになった。そうしている時は、自分への嫌悪も不思議と和らいだ。目を閉じれば優しい雨音さえ聞こえてくるようになった頃、あの影は形をはっきりと現わし始めた。人の形をした物の怪と思えば恐ろしくもなろうが、あちらに脅す気がないものか、こちらがあまりに人恋しさを抱えすぎたか、恐怖は感じなかった。ソレは背を向けていることもあれば、こちらを向いて俯いていることもあり、時には縁側に腰を掛けて庭を眺めるようにしていることさえもある。アレがこのひと時の慈雨を連れてくる、ジェホンはそう思いはじめた。そうして苦い酒を胃に流し入れるだけの作業の合間、また朝が来ればあの男に会えるだろうか、と考えるようになった。
    その頃から平日に買い込んだ酒を飲み残す週末が増え、ついにはある日曜の夜、意識の確かなうちに寝室に辿り着き布団に潜ることができた。酒を飲まずにいられる平日は、意識を手放せるまで苦痛を感じるだけの寝床はその夜、優しくジェホンを深い眠りへと導いてくれた。
    遠くで鳴る居間に置き忘れたスマホのアラーム音で目が覚めた。常よりは幾分か軽い頭を回して、カーテンの裾から外の様子を窺う。雨の気配がした。これは現実のものか。あぁ、今日はあの男に会えないかもしれない。いや、もしかすると鏡の向こうは晴れていて見たことのない彼の顔を、陽が照らし示してくれるかもしれない。ジェホンは起き出すと、縁側に出た。閉めたかどうかの記憶も怪しいが、縁側の木戸は開いていて、軒先で飛沫となった雨が吹き込んでいた。そしてジェホンはそこに、雨に濡れた者が座して濡れた跡をみた。鏡を通さずにかの存在の形跡を認めたのは初めてだった。辺りを見回すと、板間を歩き回った足跡があり、それはそのまま室内へと続いている。ここにいる、のか? 踏めば水がジワリと滲み出るほどの跡を辿り、洗面所に至る廊下へ出る。床板の軋む音が響くと、行く先に衣擦れの気配がした。安普請の型板ガラス戸を開ける。曇った鏡の前、そこにはしとどに濡れたその身体の右側に、火に炙られた痕を持つ男がポツリ立っていた。
     





    二晩が過ぎたはずだった。
     サンウクは住民の輪を離れ一人、渡り廊下への出口に向かっていた。階段を登り切り、薄暗い踊り場から廊下に出ると、人感センサ―でも働いたか天井の照明が面倒そうな動作で点灯した。器具にはもともと蛍光管が片方しか入っておらず、それも表面が薄汚れたものか、あたりに曖昧な影を落としている。
     隣棟への渡り廊下のシャッター前、湿り気を帯びた壁に凭れ暗い夜空を眺める。三本目の煙草を壁に擦り付けて火花を零しながら消火し、ワークブーツの底でさらに踏み潰す。もう次はない。ライターと共に手にしていた空のパッケージも力任せに握るとどこへとなく放る。そうしてしまえば暇を厭うサンウクに残された動作はもうなかった。ライターの横車を親指の腹で弄る。いつ割れたのか知れない爪に痛みが走った。苛立ちついでに着火する。蛍光灯の作る影に重なる淡い影が現れて揺れる。炎高調節の馬鹿になったライターはすぐに熱を帯び、たまらず手を離す。それはサンウクの足元に軽い音を立てて落ちた。意味のない動作の連鎖。自分を、持て余している。そして、なぜと問うた自分に、ついに答えを寄越さなかった男のことを。
     けして戻らぬもののあることを知っているサンウクは、下階に帰るためにライターを拾うことにした。屈みこんだ自分の影を見る。違和を感じた。その輪郭は鮮明に過ぎ、ひび割れた床にまるでペンキをひいたよ うだった。ゆっくり身を起こしながら、なにかいるなと身構えた時、息遣いが聞こえた気がした。いるはずのない男の名前が口をついて出た。
    ──おや、わかるのですか?
    塗りつぶしたような黒はそう言い、サンウクの影を離れ壁に移動してみせた。チョン・ジェホンなのか? 馬鹿げたことを考えている。が、もう何が起こっても否定する気にはならなかった。信じるのはそうと認識する自分の感覚だけだ。なぜそこにいる、と問う。なぜそんな形で。
    ──私は死んだ時、悪魔に影を売ったのです。天国に送られる寸前で間に合ったようです。
    影はそう言ってその輪郭を震わせた。まるで笑ったようだった。のんきな答えだ。こんなやつだったか、いや、その人となりを深く知るはずもない。
     ──死ぬとこうなるようですね。どうにも晴れやか        な心持ちなのです。
    サンウクの思考を読んだように影は言う。下階にいる人々の顔がよぎる。遺された奴らの気持ちを、と言いかけてやめた。自分が、と悟られたくなかった。お前がいなくなってしまったから自分はここに隠れているのだと、自覚したくなかった。クリスチャンのくせに悪魔と契約したなんて、こいつ は本当に怪物にでもなったのではないのか。
    ──そう、ですね。そうなのかもしれません。すると私の欲望は、なんなのでしょうね。
     そう呟くと向かいの壁にいた黒は、ゆっくりサンウクの足元まで床を這って動いた。欲望が人間を変容させる世界で、お前は何を望んだ。
    ──あなたに触れることもできますよ。
    手を出して、と言われるがまま腕を伸ばす。影はそれをゆっくりと追うと、サンウクの指先と自分のそれをピタリと重ねてみせた。右頬に触れてみる。すると確かに自分ではない者の感触がし、驚いて手を離す。
    ──熱い、ですね、あなたの肌は。あの時のあなたはあんなに、冷たかったのに。
    影はそう続けるとサンウクに身を寄せた。二度目の問いを投げかける。なぜ、戻ったのかと。
    ──なぜでしょうね。でも、これであなたが光にむかう時、私はあなたのそばに立つことができます。あなたが暗がりで安らぐ時は、あなたを包むことができます。ねぇだからどうぞ、私をそばに、おいてください────。
    天井の蛍光灯がチカチカリと明滅する。そばにある影は揺らがなかった。瞬きするたびにあたりの照度が下がってゆく。自分の影だけが輪郭を淡くした。
    やがて周囲が闇で満たされると、身体にゆっくりと黒が這い上ってくる。覚えのないジェホンの指の滑らかさを、サンウクは知った。
















    ──なぜいつも、そばにいてくれたのだろう
       どうして今、それを思い出している──
     
    共働きの父母の帰りは遅い。用意された夕食を一人食べる夜も少なくなかった。忙しく働く親を誇らしくも思うが、多少の寂しさを感じる日もあった。そんなサンウクには、秘密の友達がいた。流星群が見られるという夜、父があらかじめ設置してくれていた望遠鏡を一人で覗く。時間を確認しようと室内を振り返った時、その友達は窓ガラスに現れた。自分よりすこし幼い少年に、サンウクがお前も覗いてみろと促すと、少年は単眼鏡のガラスに移動して、見えたよ、というように頷き、二人は笑い合った。
     秘密の友達はその日も現れた。抱えられ、引き摺られるように現場から離されたサンウクは、灰片の浮かぶ水溜まりに力なく座り込んだ。友人は、消防車の巨大なタイヤの磨かれたスポークに、まだ盛る炎を見つめるようにその横顔をだけを映していた。
     サンウクが懐に忍ばせた刃物に、首にそれを突き立てられた男の傘についた無数の雨粒にも。スコップで掬う泥水に、押し込められた乗り合いのサイドミラーに、飯場のバラックの煙草吸う窓辺に。いつもただ同じ方を見るように、その横顔だけを映していた。彼が姿を現すたびにサンウクは、返答のいらない挨拶を心の中で唱えた。また、会ったな、と。共に年を重ねた男は、いつのまにかスーツを着て、もう自分とは違うところに立っているように思えた。

     川に近寄ってはいけない、近所の子らは常々そう言い聞かされていた。今、遊び相手の蹴り損ねたボールは、川の浅いところに漂っていた。河口に近い川岸には海のように波が寄せ、ボールはジェホンを誘うようにユラユラゆれた。大事なサッカーボールだった。少しだけ身を乗り出して、水面を覗いてみる。水底の砂利が見えるほどの、数センチの水深だ。もと居た土手の上を確認すると、母親たちは雑談に夢中でこちらに気づいていない。きっとスニーカーを濡らす程度で取り戻せる。一歩踏み出そうとしたその瞬間、ボールは水面から勢いよく弧を描いて跳ね、ジェホンの足元に転がった。
     まるで誰かが投げ返してくれたようだった。ボールを拾い、顔を上げると、静まり返った水面に父親くらいの男の姿があった。こちらをまっすぐに見つめ、それは咎めるような厳しい視線だった。不思議なことだが、それでもあのおじさんがボールを返してくれたに違いない、ジェホンがそう信じ礼を言おうと口を開いた時、血相を変えた母が後ろから縋り付いてきた。言いつけを守らなかったことを叱責され、ジェホンは、
    あのおじさんが取ってくれたのだ、と説明をしようとしてやめた。母に強く手をひかれ振り返るともう、川面にはなにも映っていなかった。濡れたボールはジェホンの白いポロシャツを川砂で汚していた。
    それから男は、時折身近なところに身を映しては、ジェホンを助けてくれた。
    注ぎ損ねて溢れた焼酎の表面張力で歪んだ雫に自分の顔が映っていた。指先でそれを潰すと、分離したそれらは青年の顔に変わった。いつしか年齢が逆転したありし日のおじさんは、それでも変わらぬ精悍な目つきでこちらを見つめている。後ろめたさからそれを非難と読んだジェホンは、もう視界の焦点の合わないのをよいことに、青年の視線を受け止めるのを拒んで目を閉じた。その頃のジェホンには夏の逃げ水に男の影を見たくて、辿り着けぬと知っていながら果てしなく追いかける夢を見る夜もあった。
     その後なんとか戻った教壇で、生徒が気だるそうに扇ぐ下敷きには制服姿の青年が現れ、竹刀降る道場の鏡の隅にその姿を認めたりもした。
     ある日、教会で水を注ぎ入れた水盤に映ったのは、幼さのまだ残る少年の姿で、彼は悲哀とも怒気ともつかぬ表情を浮かべていた。手を止めた水差しから滴った雫は彼の右頬に波紋を作り、それは少年の負う生々しい傷跡のように見えた。
    それからジェホンは日々の祈りの最後に、彼への願いも加えるようになった。

    ──なぜいつも、そばにいてくれたのだろう
    どうして今、それを思い出している
    互いの存在を、確かに知っていた
    境界の線上で、視線が絡んだその瞬間
    過去の全てが、意味を結んだ──

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    目覚めたのは居間の床だった。カーテンを閉める習慣を忘れて久しい窓から射す朝日が、目の前のアルミ缶から零れた液体と、緑の瓶に当たり煌めいていた。まるで他人事のようにそれをぼんやり眺めるが、数時間前の自分と今の自分が繋がっていないわけはない。浴びるように飲むアルコールはやがて循環代謝され頻繁に通うトイレで体外に排出されるものが、飲酒したという自己嫌悪だけはそうはいかず、体内に溜まり続けた。肉体を管として、なにもかもがただ通り過ぎればよいものを。
     うつろな顔と荒れた肌を見たくなくてカミソリを当てる部分だけに視線を集中する。それから目を閉じて指先の感覚で顎のラインと三日分の伸び丈を探る。ふと、かすかなカビの匂いがした。のろのろと手を動かしながらぼんやりと思う。雨? いや、ついさっき陽の眩しさで目が覚めたのだ、そんな予報だったか。天気などに関心を向ける生活でもないが、けれど時折見上げる空の色を無意識に読む癖程度は残っていた。
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