翡翠と狐石 その1翡翠と狐石
ふと思い立ち、自叙伝を書いてみることにした。
…………
これは、なかなか難しいな。一行目を書いてから、すでに半刻が経ってしまった。
国王の手記は後世に残るものだ、と気負ったところで、俺自身は二十余年しか生きていないのだから。当然か。
妻のベレトが俺の肩に頭を預けたまま、ずっと手元を覗き込んでいる。埒が明かない。諦めて、手紙の形式をとろうと思う。これは恋文だ。ベレトへの愛と、人生の感謝を述べればいい。
……ここまで書いたところで照れてしまったのか、ベレトは寝台に潜り込み、こちらに背を向けてしまった。
さて、どこから書くべきか。
俺がブレーダッドの末裔として生を受けたのは、救国王と呼ばれたディミトリ王の没後、ちょうど三百年が経過した頃だ。偉大な王に倣い、ディミトリと名付けられた。
救国王は妻を持たなかった。晩年、遠縁の者を養子にしたのが現王家の祖に当たる。当然、ブレーダッドの血は薄い。紋章を持って生まれるものは稀だった。
俺は実に、百年ぶりの紋章持ちだった。それが王家にとって、どれほど重要だったことか。国王にかつての求心力はない。救国王の目指した、紋章の有無に左右されることのない国づくりが達成された結果だ。皮肉なものだが。
紋章持ちだった俺は、救国王の複製として育てられた。
救国王に仕えたダスカー人の末裔を探し出し、従者に据えた。王国の盾と呼ばれた旧家の子息を、学友として迎えた。
すべては国民に救国王を思い起こさせるため。王家への敬愛を、再び取り戻すためだった。そんな夢みたいなことが、二度と起こるはずもないのに。俺は生まれついての道化だった。
救国王の行跡をなぞるため、夏は毎年、海辺の城に滞在した。王が病を得てから、亡くなるまで過ごした城だ。
俺はここで運命の出会いを果たすこととなる。
その城は岬にあった。岩だらけで、泳ぐことはできない。まだ子供だった俺は退屈で、海岸線をぶらぶらと散歩していた。
その時、足元に光る緑色の石を見つけた。俺はここが翡翠海岸と呼ばれていることを思い出し、どきどきしながら、その石を付き添いの者に見せた。その者は苦笑いしながら石を俺に返した。曰く、何百年もの間に翡翠は取りつくされ、今は残っていないのだそうだ。
「では、これはなんだ?」
「狐石です。狐は人を騙す生き物ですから。この石は翡翠に似ているので、そう呼ばれています」
なんと言われようとも、その石は美しかった。白色が混じった薄緑色で、柔らかく光を反射していた。握るとひんやりと気持ちがいい。俺はもっとそれが欲しかった。地面を睨みながら、狐石を探した。気づけば、波打ち際ぎりぎりを歩いていた。散々、海には近づくなと言われていたのに。
海辺で暮らしたことがある者なら、誰もが知っていることだ。長閑な海でも、波というのは十回に一回、大きく寄せることがある。まして岩場だ。あっという間に攫われた。肺の中に海水が流れ込み、呼吸ができない。太陽の光がぐるぐる回り、俺は意識を失った。
気が付いた時には、暖かな岩場に寝かされていた。
ぱしゃ、ぱしゃと穏やかな水音がする。誰かが、優しく俺の頬を撫でていた。目が合うと、にっこり微笑んだ。
「ディミトリ、大丈夫……?」
だが、彼は人間ではなかった。
白緑の髪に、澄んだ美貌。整った目鼻立ち。新雪のようにきらきら光っているのは、全身を覆う彼の鱗だった。すらりとした両足のほかに、鰭が生えた白い尻尾が伸びて、水面を気だるく叩いていた。先ほどの音はこれだったらしい。
彼が誰なのか、俺にはすぐにわかった。ブレーダッド家所有の、城付き礼拝堂に飾ってある女神様の絵。すべてが、彼と同じ顔をしていたのだ。
「ベレト様……!」
俺は一目で恋に落ちた。
救国王の時代に生きた人物の手記の中に、その名が出てきた。
ベレト様。救国王を教え導き、共に戦い、平和をもたらした大司教。しかし、どの書物にも没年は記載されていなかった。
彼は自分の名前を知らなかった。三百年の年月の中で、失われてしまったらしい。しかし、救国王ディミトリのことは覚えていた。俺も、同じく金髪碧眼で、紋章があるからだろうか。ベレトは、俺を救国王その人だと勘違いしていたようだ。
彼は、岬の洞窟をねぐらにしていた。俺はその後、何度も、何度もベレトに会いに行った。ベレトは自分のことを先生だ、と言った。教えることが好きなのだ、と。
理学の教本を持って行った。分からない、というとベレトは喜んだ。
「ディミトリは、昔から理学が得意ではなかったからな……」
剣の腕も素晴らしかった。結局、ベレトから一本だって取れたことがない。訓練用の木刀が折れると、やはりベレトは喜んだ。
「紋章のせいで力が強いからな。気にするな、ディミトリ」
全て嘘だった。
本当は理学が得意だったし、俺の血は薄くて紋章など滅多に発動しなかった。理学の公式は覚えられない振りをした。剣を折ったときは無理に力を込めたから、あとで腕が腫れあがってしまった。骨にひびが入ったのだ。
なんとなく、俺には分かっていた。なぜ、救国王は誰とも結婚しなかったのか。なぜ、ベレトは三百年もここに留まったのか。胸が張り裂けそうだった。俺はただのレプリカなのに。
身代わりでもいい。ベレト、愛しているよ。翡翠でなくて済まない。狐石でも許してほしい。あの時、海に沈む俺を見つけて、拾い上げたのなら最後まで愛してほしい。
月日が経ち、俺は士官学校に入学することが決まった。子供の時間は、もう残されていない。大人になれば、誰かと結婚しなければならないのだ。
嫌だ。俺はベレトを愛しているのに。せめて、思い出だけでも与えてほしい。初めては、愛する人に捧げたかった。
波が静かな夜だった。岬の洞窟の中にまで、月の光が差し込んでいた。ベレトは、長いしっぽを投げ出したまま座っていた。俺の話が終わると、二人の間には暫し沈黙が流れた。
俺はだんだん気まずくなってきた。もぞもぞと足を組みなおして、ベレトから目線をそらした。
ベレトにしてみたら唐突な話だ。進学するのは俺の勝手なのに、いきなり関係を迫られたのだから。図々しいにも程がある。
「その、ベレト……すまない!今の話、できることなら忘れてくれ……頼む」
何とか声を絞り出したが、もう遅い。ベレトだって、忘れられるわけがないだろう。俺自身の手で、心地よい関係を破壊してしまったのだ。ひどく後悔した。
ベレトがすっと立ち上がった。無言で、長いしっぽを自分の体の下に敷きなおし、脚を開くと仰向けに寝転がった。
「いいよ、ディミトリ……おれも、初めてなんだ……」
夢のようだった。ベレトの体は全身が氷みたいに透明な鱗におおわれていた。ガラスのようなその体に、俺の熱をうつして少しずつ温めていく。お互いの緊張をほぐすように口づけをして、髪を手に絡めあう。足の付け根をゆっくりまさぐり、ついに神秘の泉を見つけた。熱い湧水が零れる中へ、そっと腰を進めていく。
「辛いか……?」
何度聞いても、ベレトは大丈夫だ、としか答えない。下唇をかんで、眉を寄せて声をこらえるベレトが、可愛くてしょうがなかった。
すべてが終わった時、ベレトは泣いていた。涙に動揺した俺は彼に、痛い思いをさせて済まない、と謝罪した。
すると、ベレトは左右に首を振りながら、弱々しく答えた。
「やっと、やっとおれを受け取ってもらえた……嬉しい……」
俺は臆病者だ。ついさっきまで、逃げることばかり考えていたのだから。だが、もう決めた。いくら障害が多かろうとも、この心は揺らがない。
消えかけた王家の存続と、ベレトの三百年の夢。他人の期待に応えることばかりを気にかけていた俺は死んだ。初めて、自分の心からの欲求に従うことを選んだのだから。
俺が結婚する相手はベレトだけだ。