閃光少年
もしも来栖翔が、四ノ宮那月には嘘を吐かずに『本当のこと』を話していたら――
motif from 東京事変「閃光少女」
木曜日の朝、いつもどおりの時間に那月は目を覚ました。
向かい側のベッドの上に翔がまだ寝ているのを見つけて、自分の方が早起きをしたのかもしれないと、翔よりも先に起きたことが嬉しくて文字通り跳ね起きて近付いた。
ところが、横たわっていた翔は寝ていたわけではなく、今までに見たことがないくらいにひどく苦しそうな表情で震えていた。
まるで溺れたように喘ぐ呼吸に青白い顔。
それを見た那月は横向きに眠る翔の二の腕に手のひらを静かに置いて「だいじょうぶ?」と問うた。
昨夜おやすみなさいと言葉を交わした時に着ていた服がジャージに変わっているところを見ると、今朝も翔は外へ走りに出ていたらしい。
返事もなく繰り返される息の音に那月が耳を澄ませれば、息とは違う掠れた音が聞こえてこないこともなかった。
その音が母音と子音から成る言葉の断片だということが分かったのは、那月の耳が他の人間よりも音に対して敏感だったおかげに他ならない。翔の唇は息と息の狭間で確かに言葉を発していた。
翔が自分に向けてくる言葉をもっときちんと聞かなければならないと使命感すら持ちながら、二の腕に触れる手のひらはそのままに、荒い呼吸を繰り返す翔の口元に那月は身をかがめてそっと耳を近付ける。
与えられる言葉を何とか理解しようと耳をそばだてたまま横髪を耳にかけ、自分の呼吸で翔の声を聞き漏らしたりしないよう短い時間だけのつもりで息を飲み込んだ。
――俺、お前に話があるんだ。
こんな状況にも関わらず、那月の耳に届いた翔の声はそんな言葉を紡いでいた。
うわごとのように何度も何度も。
いつの間にか自由に動かすことが出来る方の翔の指先は自分の腕に置かれた那月の左腕の寝間着の袖口を力の込めすぎで白くなるほど掴んでいた。
懸命に翔が伝えてきたことを聞き取って顔を上げた那月は短く承諾の返事をして、袖口を掴む指先に自分の手を重ねた。普段の熱が信じられないほどひんやりとした指先に触れている那月の喉の奥がツンと痛くなる。
那月の動作によって翔の顔にいくぶんほっとした表情が浮かんだのを見出して、眼鏡の奥の閉じた瞼の縁に滲む滴を那月は感じた。
苦しげに横たわる翔のために那月が出来ることは些細なことばかりだ。翔の掠れ声の指示に従って翔のカバンの中からピルケースを一つ見つけ出してそれを手渡し、請われるままに冷蔵庫の中のミネラルウォーターをグラスに注ぎ、これも手渡した。
那月が冷蔵庫の前にいる間に身体を這いずらせて床に降り、ベッドを背もたれに身体の全てを任せた翔は、手渡されたピルケースから出したらしい粉薬ではない薬を口に含み、まるでその手の中のグラスの中身が砂漠で偶然にも出会うことが出来たとても貴重なものであるかのように、ほんの少しずつ時間をかけて飲み干していく。
そのすぐ隣の地べたに座り込み、ちっとも整わない呼吸を普段のテンポに合わせようと意識するもどかしい様子を手持ち無沙汰に見守った那月は、この状況で僕にしたい話ってなんだろう、と嚥下の度に上下する喉を見始めたあたりから考えていた。
もしかして、僕がこの間から探している新しいピヨちゃんのグッズを見つけてくれたんだろうか。そうじゃなければ、テレビで断片的に放送されていたのを聞いて、通して聞きたくなった交響曲のCDだとか。その楽譜かもしれない。翔ちゃんと一緒にあの曲を演奏できたら楽しいに違いない。ついこの間張り替えてからストックを買っていないヴィオラの弦もあった。課題で使っている五線譜もそろそろなくなりそうだから――
思いつくままに那月は頭の中で翔からの話題を想像したけれど、きっとどれも違うのだろうとひとつ息を吐いて打ち消した。
見たことがないほど具合の悪そうな翔から、この後一体何を言われることになるのか分からなくて怯えているから、言われそうなことを考えたくなくて全然違う方へ遠回りをしているのだとは那月にも分かっている。これから、何かひどく怖いことや悲しくなってしまうことを伝えられるのは間違いのないことなのだと、翔と同じようにベッドを背もたれにして座る那月は、膝を抱える腕に力を込めた。
寂しいことも哀しいことも那月は苦手にしていた。
強く詰め寄られることも、怒りや嫉妬を向けられることも、拒絶されることも。
那月が苦手にしているどんなものからも遠ざけてくれているのは翔だと那月は思っている。
何しろ寮の同じ部屋で一緒に暮らすようになって半年が過ぎたのに、それまでの人生で感じてきた苦手な感情のどれからも距離を置けている。前の学校では、入学して半年後には人の感情に揉まれて、大好きな音楽すら揺らいだのだから。
でも今は、那月の身に何か起こりそうになるたびに、翔は怒って、笑って、励まして、時には態度だけで何でもないことに変えてしまう。翔の口からたった一言「大丈夫」という単語が与えられるだけで、たったそれだけのことでどんなことも那月には大丈夫なことに変わっていた。
――なのに、だ。
そこまで思考を回らせたところで、無言のまま那月の額は両膝に向かってコツリと落ちた。
空っぽのグラスを左手の中に包んだまま、ベッドマットに頭を乗せて目を閉じている翔の呼吸は那月がぐるぐると考えごとをしている間に落ち着いたようだ。さっき翔が飲み込んだ薬が効いたおかげだろうと勝手な推測を那月は立てた。
傷や打撲といったケガは理由が分からないまま負っていることがあるせいで身近だけれど、具合が悪いという経験が数える程度にしかない那月にはそんな時の勝手が分からない。
時計の針がカチリカチリと音を立てているのが耳についてかすかに頭を浮かせて見上げれば、壁に掛けている時計の短針の位置は那月が目覚めた時からすでに数字一つ分、隣へ動いていた。
こうやって翔の隣に座ったまま膝を抱えているだけでも時間はどんどん過ぎていって、翔にも那月にも普段どおりの朝を過ごしている余裕はもうなくなっていた。まだ寝巻きのままの那月もジャージ姿の翔も急いで制服に着替えなければ授業に出られない。
時計に続いて覗き込んだ翔の顔色は赤味が増してきて、那月の目には随分とマシになったように見えた。けれど、自分の目にはそう見えているだけで、実はまだ動かしてはいけないのかもしれない。
実家の動物がぐったりとしている時、両親からは静かに寝かせてあげなさいと言われるのが常だった。小さい時の那月はそうは言われてもひどく心配で、寂しくないように触れてあげたいと手を伸ばそうとするのだけれど、いつだって首は横に振られるばかりだった。目の前で翔がぐったりしているのを見て、見守る以外のことが出来ずにいたのもそのせいだ。
授業に出るための時間が迫ってきている今、一体どうしたらいいのだろうと翔の顔を見ながら幾許かの間逡巡した結果、静かに眠ってしまったかのように見える翔本人に聞く以外の選択肢がないことを迷いながらも那月は受け入れた。
翔に一番近かった右の指先をそぉっと伸ばして、ジャージの袖を二、三度くいくいと引っ張る。気付かれなかったかもしれないと心配になったが、瞼はゆっくりと押し上げられて現れた翔の青空のような瞳には困惑しきった顔の那月が映された。
一瞬だけバツの悪そうな表情を翔は浮かべたが、グラスを持たない右手で前髪をくしゃくしゃにして、はぁと一つ大きな息を吐き出した。
「……悪りぃ。今日の朝メシはシリアルにしようぜ」
「うん、だいじょうぶ」
翔の目にも掛け時計の時間が見えたのだろう。いつものように翔が用意してくれる朝ごはんを食べているような時間どころか、急いで着替えてシリアルをかきこんで部屋を飛び出すくらいの時間しか二人には残されていないのだと、瞬間的に翔は判断したらしい。
よしっ! という威勢の良い掛け声付きで立ち上がった翔が、先程までとのギャップで呆然と自分のことを見上げている那月に向かって手のひらを差し出す。
「急がないと遅刻すっぞ。ほら」
さっきまでぐったりとしていたのが嘘だと思えるほどの、那月にとって一番信頼してもいいと思っている翔の笑顔を見せられては、その手を取らないわけにはいかない。翔の手に引っ張られる形で立ち上がらされた那月は、さらに背中を押されて洗面所へと送り出された。バタバタわたわたと超特急で身支度と朝ごはんと教室に持っていくものの確認を済ませると、二人揃って部屋の扉から飛び出した。
寮から校舎までの道のりを間に合うようにと、那月を急き立てる言葉を口にしながら小走りの翔が先導をしてくれる。そんな真似をして本当に大丈夫なのかと心配になりながら、そうは思っても翔に対してどんな言葉を掛けていいのか分からないまま、遅刻を逃れるために那月はその背中について行くしかなかった。
「昼休みに外で。メシ、一緒に食おう」
「うん、翔ちゃん」
翔が朝の言葉を忘れてなかったのだと那月が分かったのは、教室に入るために別れる直前にそう声を掛けられたからだ。
にこやかな翔の声色に笑顔で同意の言葉を返したけれど、昼休みになるまでのたった数時間の授業の間に那月は不安と苦しさとで身体を押し潰される寸前まで追い込まれ、一分一秒すら長く感じさせるのだった。
*
午前中の授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り響き、那月はようやく約束の時間が来たとそわそわする気持ちを隠さずに立ち上がった。そこで、普段から昼食を一緒にしている音也や真斗たちから食堂に行かないかと声を掛けられたが、迷わずふるふると首を横に振った。
「今日は翔ちゃんとお昼の約束をしてるんです」
「じゃあ、翔も一緒に!」
いつもの翔との約束なら、那月も音也からの提案に同意の言葉を返すことが出来ただろう。ただ、今日の翔との約束は今朝の『話がある』の話なのだろうと那月は予想をしている。ここで簡単に「いいですね!」なんて返事をして音也や真斗たちと一緒に待ち合わせ場所へ行ってしまったら、翔から失望されてしまうのではないかという不安がむくむくと沸き上がってきた。
今日だけはダメで明日ならと思ってはいる。けれど音也の提案にどう答えればいいのだろうかと迷う那月の口から漏れ出す言葉は戸惑いばかりだった。
「えっと、その……今日は」
「今日の四ノ宮は来栖と約束があると言ってるのだから諦めろ、一十木」
那月がまとめきれない言い訳を口にする前に、音也へ諦めるように促したのは真斗だった。
「えー? 皆で食べたらいいじゃん」
「それは、今日でなければならないのか?」
「そういうわけじゃないけど、折角だし皆で食べたいじゃん」
「四ノ宮と来栖の約束は、今日の昼でなければならないものなのだろう? 四ノ宮、来栖には明日の昼食を共に摂ろうと伝えてくれないだろうか?」
真斗が那月の言いたいことをきれいにまとめてくれて、那月は内心ほっとしていた。でも……と説得を続けようとする音也も、先にした約束が優先だ、という真斗の言葉を受けてようやく観念したらしい。「翔に絶対絶対伝えといてよ、明日は絶対だからね」と何度も那月に念押しをして、音也はようやく那月のことを解放してくれた。
やり取りの間に何分かが過ぎてしまっている。もしかしたらSクラスは終わりの鐘よりも早く終わっていて、翔はまだ来ないのかと焦れているかもしれないと、那月自身が焦っているのを棚上げして今度こそ教室を飛び出した。
『昼休みに外で』というひどくファジーな約束は『いつものベンチに集合で』という意味だろうと理解して那月はその場所へ急いだ。昼ともなると穏やかな日差しに暖められて、朝の肌寒さは嘘だったようにも思えてくる。ぽかぽかとした日向に場所を限定すれば、心地良くお昼寝をすることも出来るだろう。もっとも、時間の余裕はカリキュラムの進行と共にどんどんなくなっていくのだけど。
辿り着いた場所に翔の姿はまだなかった。教室での音也とのやり取りに時間が掛かったからと急ぎ足になったのは失敗だったかもしれない。ほんの少しだけ気分を落としながらも、いつものベンチのいつもの場所に那月は腰を下ろした。
来てくれるのをじっと待っているのはあまり得意ではない那月は、まだ来ない翔のことを今すぐにでも探しに行きたかった。けれど、先週の土曜日に翔と一緒に買い物に行った時に思いきりそのことで怒られたばかりだったことを思い出して、今は我慢してここでじっとしていなければいけないのだと浮かしかけた身体をベンチへ戻した。
土曜日はショーウィンドウのディスプレイにほんの少し気を取られてしまった間に、隣にいたはずの翔がいなくなってしまった。那月はまたやってしまったと大慌てで翔のことを探し回ったけれど、どれだけ辺りをきょろきょろと見回しても翔の姿は見つけられなかった。それで翔は勝手に迷子になった那月に呆れてしまって、きっと先に買い物に行ってしまったのだろうと、ビルの壁にもたれてしょんぼりとした気持ちで佇んでいたら、那月を探すために繁華街中を走り回ったのか息を切らせてすっかり汗だくになった翔が見つけてくれたのだった。
ため息を吐きながら遠くを見ていたら、急にバシンと一発背中を叩かれて「動いたら見つけらんねぇだろ。お前の方がデカくて見つけやすいんだからじっとしてろ」と言って見つけてくれた翔の顔は、今思えばほんの少し青白かったような気もする。
勝手に動き回った那月のせいで前みたいに落ち合えなくて、そして探し歩いてくれた結果、今朝のように苦しそうにする翔の顔だけは見たくない。
楽器に触れるために深爪にすることが癖になっている指先は、どんなに握りしめても手のひらが痛くなることはない。つい立ち上がりたくなる自分を諌めるために、那月は両方の手を膝の上でぎゅっと握り締めた。
「なーつーきー! お前、なんつう顔してんだよ」
周りのことなんて何も頓着してしなかった那月が、名前を呼ばれて顔を上げればその真正面に、三つ重ねた紙製のランチボックスを両手に乗せて満面の笑顔を浮かべた翔がいた。
伏せていた顔を上げた那月の思い詰めた顔を見て、すぐにぎょっとした顔に変わってしまったけれど、那月の目にはその笑顔がいつもよりもずっと眩しいものに見えた。
迷わず那月の左隣に座った翔は、重ねて運んできたランチボックスを静かにベンチへ置いて、次々に蓋を開けていく。
「お前さ、メインは鶏と豚のどっちがいい? デザートは同じヤツにしたんだけど、豚肉のアボカド巻も鶏モモのハーブソテーも美味そうで決めらんなかったから好きな方選べよ。俺はどっちでもいいからさ」
那月がベンチに座ってまだ翔が来ないと一人でやきもきしている間に、二人が食べるお昼ごはんのお弁当を翔が食堂でテイクアウトしてきてくれていたのがわかり、那月の胸に溜まっていたもやもやとした
不安は軽く吹き飛んでしまった。
「半分こにしましょうよ。僕も両方食べたいです」
「おーし、りょーかーい」
那月の答えを聞いて、翔の手が割り箸を使ってテキパキとアボカド巻とハーブソテーが半分ずつになるように分けていく。お揃いに変わったランチボックスを受け取り、続いて手渡された割り箸をパチンと割って、二人でいただきますと声を揃えてから箸をつけ始めた。
Sクラスの午前中の授業は翔が小さい頃から憧れていて尊敬している日向先生が担当だったそうで、二時間ばかりの授業中にあったことを翔は興奮を隠すことなく、臨場感たっぷりに説明してくれる。翔の話の中には那月が知らない俳優の名前もあるのだけれど、分からないなと思った時の次の言葉はその人に関するちょっとした説明だったりして、全く付いていけなくて飽きるということもない。
こうして翔と過ごす時間の楽しさに、何のために翔からお昼を一緒に食べようと誘われたのかを那月はつい忘れそうになっていた。けれど、デザートの焼きプリンを食べ終えて全部のゴミを纏め終わった翔は、大きな深呼吸を一つして、その様子にパチクリと目を瞬かせた那月の顔と真っ直ぐに向き合った。その口から吐き出された「あのさ」というたった三文字と重さを持った真剣な声色が、二人の楽しいピクニックを終わらせた。
*
翔は嘘を抱えて早乙女学園での生活を送っている。
生まれついてのそれとは長い付き合いであると言っても、つきまとい続ける重荷であり、しかし逆に翔が前を向いて進むための力と変えてきたものでもあった。
それは、非常に稀な心臓の疾患を抱えて生きているということだ。
中三の夏、進路指導の三者面談の場で翔は早乙女学園を受験することを宣言した。家族からは挑戦を称えられつつも、暗に無茶だと止められはしたが、最後の最後まで抗った薫も説き伏せて、早乙女学園へ願書を提出した。高倍率の試験を潜り抜けて見事合格通知を受け取った時、合格通知と書かれた下に続く難しい言葉遣いの書類を感慨深く見つめながら、この世界にサヨナラを告げることになるまで家族以外には『自分は健康である』という嘘を吐こうと翔は決めた。
早乙女学園に入学することは、自分が病気を抱えていることが知られていない中へ飛び込むということだ。健康な人間と全く同じように生活することが出来るというのは、翔にとって魅力的に感じられた。生まれてこのかた日常と化していても、過度の心配は落ち着かない。何かにつけて大丈夫かと問われるのは翔にとって決して楽しいことではなく、そこから解放される早乙女学園での生活はとにかく新鮮だった。
唯一、早乙女学園で嘘を吐いて生活していく中で翔が案じたのは、寮が相部屋だということだ。
しかし、翔が隠し通そうとする生まれながらの不自由な身体のことも、思い通りにならない身体に振り回されることで諦めが身近にあった満たされることのない幼い頃のことも、この先の自分に残されている時間のことも、危なげないことはあっても、那月に気付かれることはなかった。
所属クラスは異なっていても、寮での部屋が一緒であるせいで学内で一番一緒に過ごす時間が多い那月にバレないのなら、自分は最期まで全てを秘密にしたままでいられるだろうと、その頃の翔は自信すら感じていたのだ。
そんな入学前の誓いと入学後の自信が揺らぎ始めたのは、幼い頃の自分が抱えていた夢を叩き割った四ノ宮那月との共同生活に慣れ始めた頃だった。
講師の部屋に足を運び、足りない部分を伸ばすためにはこれをやった方がいいと与えられた課題用の譜面を挟んだ左手に持つファイルを翔はやけに重く感じていた。紙がたった一枚増えただけなのだからきっと気の重さなのだろう。届けと言われているレベルはとっくに見えているし、手も届きそうなのに、何度もやっても掴めない自分のことを、翔はとにかくもどかしく思っていた。
講師から一通りのレッスンを受けた後、癖をつけるのには一番効果的な反復練習をするために、空いている練習室を探して放課後の校舎を移動していた翔の耳に、弦楽器の演奏が届いた。
「これ、ヴァイオリンだな……」
早乙女学園の練習室には防音が施されているはずなのにおかしいと思いながら、音域から楽器を判断し、どこからこれが聞こえてきているのかと足を止めた。
校舎の中を響かせているのは翔も演奏したことがある指慣らしのための練習曲だ。ただ、指慣らしにしてはレベルが違いすぎると翔は思った。たっぷりと聞かせてくる音の響きと深み、倍音の美しさ。笛吹きの童話のごとく、その音が聞こえてくる方へと翔の足は勝手に向かう。
これは、幼い自分を完璧に打ちのめし、夢見がちな夢をきっぱりと打ち捨てさせた才能が響かせているのだろう。
もはやその胸には、確信だけが宿っていた。
いくつもの練習室が並ぶ中に案の定、防音ドアのロックがきちんと下ろされていない部屋を翔は見つけた。旋律はドアのわずかな隙間から廊下へ漏れ響いている。中にいる人間に気付かれないよう注意を払って、ドアに嵌め込まれている縦長のガラスの端の方から覗きこめば、すでに転向したはずのヴィオラではなく、聞こえてきた音域通りのヴァイオリンを構える那月の姿が翔の目に飛び込んできた。
その堂々とした構えと弓遣いに、心の奥へしっかりと刻み込まれていた過去の鮮烈な印象が、翔の目の前に今現在の出来事であるかのように蘇ってくる。あの演奏の後に聞いた国内外で名を馳せるプロのオーケストラや著名なソリストですら、翔に刻み込まれた那月の印象の鮮やかさを超えることはなかった。
自分の中から消し去ることが出来なかったから、見えないところへ隠していただけで、焼き付いた眩しさを忘れていたわけではなかった。今までだって心は揺らされていた。
那月と一緒に歌やパフォーマンスの自主練習をしている時、那月が天から授けられた類稀なる才能を惜しげもなく見せつけられて、羨望と諦観と嫉妬が綯い交ぜになった感情を翔は抱く。反面、年上のくせに頼りなさすぎる面を見せては厄介事を起こし、困り果てた顔で助けを求めてくる。翔が何とかその厄介事を綺麗に収めきると、翔のことを率直すぎるほど称えてくる那月の面倒を見るのは、実は特段悪い気分ではなかった。
自身のことながら、翔は那月に対する感情の振れ幅の大きさと、いいように振り回されながらも嫌悪を抱いたりしていない自分に気が付いた。
つまり、自分は那月のことを特別なものとして、とっくにカテゴライズしていたのだと。
無意識のうちの自分の所業を咄嗟には受け止めきれず、翔は知らずに入れていた肩の力を抜いて、重さに任せて頭を後ろに反らした。那月が奏でる練習曲は次の曲に変わったが、防犯ドアのロックは変わらないままなので、まだ扉の向こうから翔の耳に届いている。速いパッセージを丁寧に正確に響かせてくる腕前に、ついそのまま聞き惚れてしまいそうになるが、近付いた時以上に気を付けて翔はドアから離れた。
翔の頭の中には「うわぁーうわぁー」と叫びながら走り回っている翔がいた。現実世界の翔も出来るなら「うわぁー」と叫びながら髪の毛を掻きむしりたいほど混乱していた。
自分自身の無意識下での所業を持て余し、急いでこのフロアから離れなければならないと、自然に足取りが速くなる。
次第に遠くなっていく旋律をバックに、もんどりうって廊下を下りていく翔は発作とはまるで違う痛みで胸の奥を疼かせた。
那月が自分にとって特別なのだというこの自覚は、翔にとって迷いの入り口となった。
何しろ翔はこの世界に別れを告げる時まで、家族以外の人間には、つまり早乙女学園への入学以降に出会う、翔の身体の事情について知らない人間には『自分は健康である』という嘘を吐こうと誓っていた。当然、那月もその対象の中に含まれている。含まれていたからこそ、特別だと認識してしまったここまでの期間、翔は那月に嘘を吐いて過ごしてきた。
嘘を吐いたまま世界から消えることに、何の疑いも迷いもないつもりだった。ところが、こと那月に関してだけ、翔の心は引っ掛かりを覚えた。黙ったまま消えることだって出来る。でも秘密を打ち明けることもできる。
選択肢はたったの二つ。
そのたった二つのどちらを選ぶのかを決められないまま、翔と那月は早乙女学園での時間を積み重ねていく。
二人が同じ部屋で過ごす時間が長くなればなるほど、決定的な場面を都合良く見られずに済む確率が下がっていくのは当然のことだ。翔が自覚と共に迷いを抱え始めてからすでに三ヶ月が過ぎたある朝、喜ばしくも残念なことに『その時』が翔の元へ訪れた。
朝の習慣のランニングから戻ってきたところで急に具合が悪くなり、それが多少なりともマシになってごまかせるようになる前に、一切の言い訳が許されない状況を那月に見られてしまったのだ。
胸に差し込んでくる痛みと、上手く酸素を吸い込めない息苦しさとで朦朧とする意識の中、ついに翔は覚悟を決めた。
今日こそ那月には、この半年に渡って嘘で隠してきた真実を伝えなくてはならない、と。
*
「あのさ、あの……あれだ。朝の話」
翔から切り出された言葉にビクリと那月は肩を震わせたが、真っ直ぐに向けられる翔の視線から逃れようとはしなかった。ただ那月の指先がブレザーの袖口を落ち着かない様子で弄っている。それを打ち切った「今朝、お前のこと驚かせたろ」という翔の呟きが、その後に続く話の糸口となった。
「あれのさ、俺が吐いてた嘘を白状する」
次の言葉を選ぶ翔と何を言われるのかを待つ那月の間には数秒の間があった。怯えたような那月の顔を見て本当に伝えていいのかと迷いかけ、ここまで整えたのに迷ってどうすると翔は自分を鼓舞した。
「治す方法のない心臓疾患のせいで、ハタチまで生きてるかどうか怪しいんだ、俺」
どんな言葉で伝えたら良いのかと翔が数ヶ月に渡って迷い続け、そして今やっと口にしたのは率直な事実だけだった。
実際に言葉として口にしてみると、自分が健康だと言うことよりもこっちの方が嘘のようだと翔は思った。ハタチなんて区切りが余計にそう思わせる。しかし聞かされた方の那月は表情を凍りつかせて、翔からの発言を噛み砕くために数秒の時間を要した後、言葉を発することもないまま、ただこくりと頷いただけだった。
今朝の那月には翔がベッドの中でぐったりとしているところから、全く整わない呼吸もロクに声も出せないところも、最終的に薬で発作を抑え込むところまで一部始終を見られていた。具合が悪いところを何も見られずに隠してきた真実を伝えたところで、那月に信じてもらえるかどうか怪しかったかもしれないと思えば、告白が嘘ではないと証明するために見られてしまったことは良かったのかもしれないなんてことを翔は思っていたが、続く沈黙にとうとう耐えかねた。自分から話があると言ったのだ。翔が伝えるつもりだったことは全て那月に伝えなくてはならない。
「俺はさ、毎朝目が覚めた瞬間、今日も俺に朝が来たって思うんだ。その後に、俺はまだ生きてた。死ぬかもしれないけど、今日はまだ生きていてもいいんだなって」
朝は生きていたことに安堵する。夜は目が覚めないかもしれないと恐れを抱く。どうしてそうなのかについて翔が説明しようとした時、今までじっと翔のことを見つめていた那月から質問が向けられた。
「あのね……翔ちゃんが、翔ちゃんがいつも一生懸命に頑張っているのは、そのせいなんですか?」
「あーうんそれは……まぁな。そもそも早乙女学園のカリキュラムは俺が手を抜いて出来るほどのレベルのモノじゃねーし、全力を出さずにアイドルになれるなんて思ってもないよ。けど、俺が生きていられる時間は他の人間よりも少ないのは確かだからさ、考えないのかって聞かれたら当然、考えてるって答えるよ」
答え切った那月の手が伸びてきて、翔の右手の手首を掴んだ。制服のパーカーの上からだというのに骨が軋むくらいの力強さで容赦ないものだから、翔は痛いと言って振り払おうとしたのだが、目いっぱいに涙を溜めた那月の顔を見てしまったら出来なかった。
「死んじゃったら何にも出来ないよ? アイドルにだってなれないよ?」
翔には那月が言いたいことはとっくに分かっていた。進路の面談で早乙女学園に行くと宣言した後、本当に願書を出す出さないで薫とケンカになった時、同じような言葉で翔の行き先を拒もうとした。
「それで、本気で取り組まずに生き延びるためだって力を抜いて、そんなの全然関係なかったら? 今日はこうすれば良かったなって反省しながら眠った夜が俺の最後の夜だったら? 全力を出さずにやらなかったことを後悔しながら眠った夜の次に目覚めることがなかったら?」
一年前くらいと全く同じことを口にしていると翔は思った。
弟の薫には、自分のすることを分かってもらいたいと思って言い合いになった。今だって、那月には理解して欲しいと思っているからこんな言い方になっている。
「俺が死ぬまでのカウントダウンは誰の目にも映らない。俺だって、今の数字も残りがあとどれくらいなのかも知らねぇ」
後から指の形にくっきりとした痣が残るのではないかというほど掴んでいた那月の手にはもう力がない。それでも離れていかない手のひらが、言葉を続ける翔の助けになった。
「俺には、今しかないんだよ」
「いま……」
「俺が確実に手にしてるのは今だけで、全力を出せるのも今だけなんだよ」
那月の手がこれ以上ないほど優しい手つきで翔の腕の内側が見えるようにひっくり返し、動脈の上へ親指を乗せた。それから両手で捧げ持つようにして、この世の中で一番恭しいものであるように額を押し当てた。
翔もまた言葉を発せず、自分の心臓が刻んでいる拍動を感じ取ろうと瞼を下ろして暗闇の中で意識を集中させた。何でもない時に比べれば、随分軽やかなテンポが刻まれて身体中に響いている。
この音が那月に届いているなら、きっと気持ちは伝わっていると翔は確信を得た。
そうだからこそ、翔は那月のことを特別に思ったのだから。
少し長い時間二人でそうしていた後、揃って息を吐きだして顔を見合わせた。眉を上げていた翔も、強張った表情をしていた那月も、いつも通りの穏やかさに戻っていた。
「ねぇ、どうして翔ちゃんは僕に教えてくれたの?」
「お前には、秘密にしたまま消えたくないって思ったから」
那月が生唾を飲み込むゴクリという音が翔の耳には聞こえた気がした。
今の言葉で、翔はもう一つ那月に言おうとしていたことを思い出した。
翔の心の奥に刻み込まれて決して忘れられなかったあの時の那月の姿のように鮮やかに焼き付いて残ってくれたらいいと思っていることを口にしていなかった。あれほど眩しくは無理かもしれないけれど、それでも。
「俺がここに居たってこと、お前にだけは覚えてて欲しいんだ」
頬を緩ませて微笑んだ翔に、見合わせていた目を伏せた那月は小さな声で「もちろんです」と答えると、もう一度翔の手を額に押し当てた。
*
那月も午後の授業のために移動をしなければならないし、買ってきてくれたお礼にと引き受けた昼ごはんのゴミも捨てなければならない。けれど那月はベンチから立ち上がらないまま、翔のことを見送った。
「ねぇ、もうずっとそうだったんだよ」
視界の先にいる翔の耳には届かないくらいの距離になってから那月は呟いた。
「僕はずっと、そうだったよ」
翔はいつからだったのか教えてくれなかった。
どちらが早くても遅くても構わないことだから時期なんてどうでもいいけど、と自分に言い訳を連ねながら那月は去って行く翔の背中に話しかける。
それから、両腕を宙に上げて両手の親指と人差し指を使って長方形を作り出した。教室には戻らず、このまままっすぐ練習室に向かうと言った翔の姿を その四角の中に嵌め込む。
真剣な表情も呆れた顔も笑ってるところも陽の光を浴びて金色の髪の毛がキラリキラリと瞬いているのをただ見守っている時も、何よりも那月の隣に当たり前にいてくれるというそのことだけで十分なんだと那月は言い聞かせていた。
別に聖人君子になったつもりもない那月は、心の琴線に触れない人間のことなんて何とも思わない。困っていたり大変そうにしていたり辛そうだったりするのを見て、心から気にかける対象になるのは本当にわずかだ。そういう意味では翔の方が誰にでも隔てなく優しい。
翔のことを自分の中の『とくべつなもの』の中に入れてからの那月は、あまりにも周りと差をつけてくれない翔の態度に、もう少し自分のことを特別扱いをしてくれてもいいのにと勝手に思っていたくらいだ。
那月にとって翔は眩しく光を放つ太陽だった。太陽が朝になれば昇るように、いなくなってしまうことなんて考えたこともなかった。
『俺がここに居たってことを、お前にだけは覚えてて欲しい』
好きって言葉よりずっと特別なことを翔は那月に望んでくれた。
だったら、何があっても忘れてしまったりしない。決して色褪せさせたりしない。
今だってこの瞬間にしか見られない、太陽よりも眩しく輝きながら歩いていく翔の姿を、瞼のシャッターを切って焼き付ける。
写真なんかじゃ切り取れない一瞬をこの目に。この心に。