「セト、少し良いか?」
オシリスがセトを呼び止めたのは、夜の闇が深まり始めた神殿の廊下だった。
自室に向かう途中ですれ違った二人の頭上には満点の星が広がり、等間隔で立ち並ぶ柱に四角く切り取られた月明かりだけが、足元を白く照らす。
振り返った白布がふわりと空気を含んで夜を舞い、冠の先で声の主をとらえた。
深く被ったそれを軽く持ち上げてみても、柱が落とす影に隠れたオシリスの表情は、セトからは見えそうになかった。
「大切な者に何かひとつ贈り物をするとしたら、お前は何を選ぶ?」
顔のない声が突拍子もなく尋ねる。
「なんだよ、藪から棒に」
「そうだな、言い方を少し変えよう。お前が愛するネフティスに贈り物をするとしたら」
月明かりの下でセトが、影の中からオシリスが、それぞれ言葉を投げかけあう。
「何を選ぶ?」
「お、俺が、ネフティスを……なんだって?」
声色から明らかな動揺を見せるセトの方へ、足音が一歩、また一歩と近づいて、石造の床を進んでいく。
「俺は……。俺の愛を示すために何をすべきだろう」
影を抜け、月に暴かれた兄の表情に情でも慈しみでもない〝何か〟が混ざっていることに、弟は全く気がつかない。
「セト、お前の口から答えを聞きたい」
「まさか、揶揄うためにわざわざ呼び止めたのか?」
「そうではない」
「なら何で今、ネフティスの話になる」
「何故? ……分からないからだ。愛する者の心を掴むために俺は何を為すべきか。だからこうして聞いている」
互いに見つめ合ったまま、長い沈黙だけが過ぎていった。それ以上の言葉を紡ぐ気配がないのを察してか、今度はセトが一歩、また一歩と乱暴に音を立て、石造の床を踏み締めて進む。
裸の足と足とが触れる一歩手前。
冠がさらさらと砂に還り、こぼれ落ちた真紅の髪がひと束、そよ風に掬われてオシリスの肌に触れた。
「ったく……。んなこと、俺に聞いてどうすんだよ。いいかオシリス、アンタはいずれ最高神になるやつだ。望むならなんだって手に入る。何をそんなに悩むことがある?」
何も知らないセトはそう言って、励ますように兄の肩に手を置いた。
自分のものより少し小さく、滑らかな、色の白い手。温かくどこか懐かしいその感覚を確かめるように、オシリスはそこへ自らの左手を重ねた。
触れている箇所から感じる温かさとは裏腹に、胸の奥は冷たくなっていくばかりで、オシリスは惨めな自分を嘲ることしかできなかった。
「……俺が本当に愛し、欲するものは、決して手に入りはしない」
「決めつけるなんて、俺の兄らしくない」
「どうだろうな」
重ねた左手から、するりとセトが抜けていく。
「ふん、当ててやろうか? 相手」
「……お前には、分かるまい」
砂のように指をすり抜けていく感覚。触れるだけで何も掴めなかった手。どこまでいっても空っぽのまま、何を得られるわけでもないその両の手が求めるものは、いつだって目の前にあるのに、決して自分のものになりはしない。
オシリスの頭の中を巡るさまざまな想いを、葛藤を、苦しみを、突然引き裂いたのは聞き慣れた愛おしい声だった。
「気性が荒い」
それはオシリスにとって呼吸を忘れてしまうほどの衝撃で。
どうやら先ほどの続きを言っているらしいセトは、柱に寄りかかるようにして、廊下を縁取る少し高くなった部分に腰掛けた。
セトの背中越しに見る星々は、数千年を生きるオシリスがこれまで見てきたどの星空よりも美しかった。
「感情的になりやすいし」
「……ああ」
「言葉がキツい」
ぽつり、ぽつりとセトの落とす言の葉が胸に染み込んでいく。
そんな筈はないと頭では理解しているのに、その一つひとつが愛おしい存在を形作る要素にぴったりと当てはまっていくのだ。
「あとは……すぐに手が出る。悪い癖だ」
そう言って悪戯っぽく笑うセトの隣に並び立ったオシリスは、何かを懐かしむようにやさしく微笑む。
永い刻を共に過ごしてきた、たったひとりの弟と同じ景色を見上げるのは、オシリスにとって随分と久しぶりのことのように感じられた。
「オシリス、やっと笑ったな。心当たりが?」
「痛いほどに」
それから二人はしばらく、黙って星を見ていた。夜の砂漠を彩る煌めきは時折瞬いて、ぱちぱちと燃える松明の火のように力強かった。
「でも」
セトが星を見つめたまま言う。
「本当は誰より、愛情深いやつだ」
夜の静けさがあっという間にセトの声を吸い込むと、二人の間には再び長い静寂が訪れる。音のなくなった世界で先に口を開いたのはオシリスの方だった。
「誰かを愛し、誰かに愛されたいと思っている」
「え?」
赤い瞳いっぱいに夜を映していたセトは、思わず隣の兄に向き合った。
「違うか?」
「うーん、確かに……? そういうところもあるのか?」
幾千の記憶を手繰り寄せていたのか、セトは少しのあいだ眉を顰めていたが、やがて小首を傾げた。
どうやら、オシリスの言ったことの意味を理解できるだけの出来事は、彼の中にはなかったらしい。
そんなセトに構わず、オシリスは愛おしい朱をそっとひと掬いすると、手のひらの上でゆっくりと滑らせながら言った。
「それから」
「それから?」
先ほどよりも長く、深く、二人は見つめ合った。
「美しい瞳をしている」
オシリスは右手でセトの左頬へ触れて、慈しむように親指の腹で滑らかな肌を撫でた。
「ああ、そうだな。俺もあの色は好きだ」
セトほそう言って目を細めると、戦神の名に似つかわしくない柔らかな微笑を浮かべた。
「……オシリス、アンタは愛するヤツの前でそんな顔をするんだな」
「セトよ、俺はお前を」
月の光に縁取られた長い睫毛の先が、黒曜石の瞳を覆い隠そうとした。
その刹那。
「花、なんてどうだ?」
まただ。セトはいつだって、オシリスの思考の及ばない場所からその世界へと飛び込んでくる。
オシリスは彼の突拍子のなさに、何度思考を、精神を、理性を掻き乱されたかわからない。そうしてそのあと、何事もなかったかのように振る舞うセトと接することがどれほど虚しいものであるか。孤独なものであるか。理解してくれる者も居なかった。
「……花?」
「前に俺にも見せてくれただろ? 小さな種を一瞬で芽吹かせて……」
オシリスの吸い込まれるように黒い瞳に一瞬、月の光が宿る。
「……覚えていてくれたのか?」
「ああ、生命の神にしかできないサプライズだろ? あれをやったらきっと喜ぶぜ。ああ見えて意外と、ロマンチストなんだ」
けれど、セトの口から出てくるのはまるで他人言のような台詞で。
瞬きとともに瞳に宿った輝きを失ったオシリスはもう、その先を聞きたくはなかった。
「イシスは俺の大切な家族だ。それはオシリス、アンタも同じだ。あいつのこと、宜しく頼む」
イシス、その三文字をセトの口が形作った瞬間。
セトの頬に触れていた手のひらは温度を失い、だらりと力なくオシリスのもとへ帰る。
セトにとってオシリスはやはり、家族であり兄なのだ。それは同時に、どこまで行ってもそれ以上のものになりはしないことを意味していた。
やがてエジプトの最高神となる男が、癒えることのない痛みを刻み付けられた瞬間だった。
セトに投げかける言葉は全てすれ違い、すり抜けて、オシリスの元へは決して還ってこない。形を持たない砂のように、いつも指の隙間を零れていく。それはこれまでも、そしてこれからも変わることはないのだろう。
オシリスの胸の内で静かにうねる波のような感情は、やがて小さな音となって二人の間に溢れ出た。
「……鈍い」
「……? オシリス、何か言ったか?」
「いや、なんでもない。呼び止めてすまなかった。もう行って良い」
セトは一瞬、不思議そうに首を傾げたがそれきりで、聞き逃した言葉の重みを知ろうとはしなかった。
「おやすみ、オシリス」
「ああ、おやすみ。セトよ」
オシリスはただそこに立ち尽くして、セトの背を見送る。
そうして最後に、名残を惜しむようにこう言った。
「ああそうだ。先のお前の言葉にひとつ、付け加えるとしよう。恨めしいほどに純粋、だと」
セトは長髪を靡かせて振り返る。
その顔に可笑しいと言わんばかりの、子どものような笑みを浮かべて。
「……なんだそれ? そんなの、褒めてんのか貶してんのかわからねえじゃねえか! あいつの前では絶対言うなよ!」
砂が舞い、白布と冠が愛おしい赤を覆い隠していく。彼は自室の方角へ向き直り、今度こそオシリスから遠ざかっていった。
生命の神。大それた神格と権能をを与えられたとて、一番欲しいものが手に入らないのなら何にだってならない。
吸い込まれるような漆黒の上に、金を撒いたかのような砂漠の夜。
瞬く星々に手が届かないように、いつも遠ざかっていくばかりの背中に手が届かないこともまた事実だった。
「花、か」
オシリスは小さくなっていくその背を見送りながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
お前にもいつか、花を贈ろう。
お前によく似た、特別な花を。