アラブパロはるりん すべてのものがしんと寝静まった夜の王宮。黒く生い茂る木々に囲まれ、満月に照らされてもなお鬱蒼と暗い泉のほとりで、彼の纏う赤色だけが鮮やかに浮かび上がって見えた。月光をうつす水面よりずっと強くきらきら輝く瞳。
『なあ! どっちが速く泳げるか競争しようぜ、ハル』
愉快そうに笑う彼の姿は、自分があの日見た夢で、幻だったのかもしれないとさえ思うこともあった。
けれど幻ではない。己の目の前で膝をつく赤髪の少女は、あの日出会った彼とよく似た面差しをしている。
「ハルカ様、お願いがあってまいりました。どうかわたしの兄を、王宮から盗み出してください…!!」
必死の形相で手をあわせる少女の髪をハルカはそっと撫でた。
「言われなくてもそのつもりだ」
世情は革命の空気一色だ。日々のくらしに困窮した人々は武器を持ち、王族たちを滅ぼす計画を綿密に立ててきた。その決行日が、明日。
「本当だったら、わたしがあそこにいたはずなんです…兄ではなく、わたしが…、わたしが殺されなくてはならない」
涙を浮かべながら懇願する少女の瞳は、かつて水辺で出会ったリンと同じ色をしている。
「ハルカ様には盗めぬものはないと、聞きました…立派な義賊だと」
義賊などといえば聞こえはいい。ただ、少年の頃に王宮から追い出されて、生きていくために盗みを覚えただけだ。それでも善良な人間を襲うのは気がすすまなかったから、悪党を狙い続けていたらいつのまにか名が知られるようになっていた。
王宮にいた頃の暮らしに未練を感じたことはない。今の自由が気に入っている。ただ、ひとつだけ。ずっと胸の奥に刻まれて消せない面影があった。
あの夜、こっそりと王宮の敷地内の泉で泳いでいたら、ルビーの瞳をした少年に出会った。
「おまえ、すげえ綺麗に泳ぐなあ。魚みたいだ」
泉の淵に腰掛けて、夜空に浮かぶ月を背後にこちらを覗き込む姿。感心したように笑う彼は、この国では珍しく透き通るような白肌をしていた。
思わず凝視していると「そんなに警戒するなよ。おれ、この前連れてこられたばかりなんだ」と困ったように眉をよせた。
「退屈なんだ。話し相手になってくれよ」
「連れてこられたって、どうして」
「おれ、王様の何十番目だかのお嫁さんなんだって」
「は…」
目の前にいるのはどこから見てもまぎれもなく自分と同じ年頃の「少年」だった。瞬きを繰り返していると、また困ったような顔をした。
「妹がいるんだ。兄のおれが言うのもなんだが、きれいな顔をしてる」
「でさ、王宮まで評判が届いたらしいんだ。うつくしい娘がいるらしい、献上しろって連れ去りに来た。冗談じゃねえだろ、ゴウはまだ十一歳だ。あんな年増のジジイに可愛い妹をやってたまるか。だから、身代わりになって輿に乗り込んだんだ。背格好もそんなに変わらないから、迎えの使者はうまく騙せた」
「おまえ…むちゃくちゃだな…」
「おれもむちゃくちゃだけど王様もめちゃくちゃだよ。普通いざ来たのが男だったら諦めるだろ? でもおれでいいんだって、気に入ったって」
「それは…」
王に少年愛の趣味があるとは聞いたことがない。だが、目の前の少年からは不思議な色香が漂う。おそらく本人は無自覚の、生まれもった美貌と魔性。この少年は誰よりも王の寵愛を受けるだろう。
この王宮でなに不自由ない暮らしをして、その実、この上なく不自由な生涯をすごすのだろうか。少女の時分にここに連れてこられた、幾多の女性たちと同じように。
なんとも言えない顔をしていたのが彼にも伝わったのだろう。
「そんな顔するなって、おれは不幸じゃない。おれを嫁にするかわりに、故郷にいる母親と妹にはたくさんの金が出るんだ。今後も生活に困らないよう面倒みてもらえるんだって。すげえ嬉しいんだ」
「そうか」
自分がどう感じたところで、彼が『不幸ではない』と笑うのならそれを否定してよいわけがない。
「なあ、名前は? おれはリン」
「………ハル」
本当は「ハルカ」だったが、女性のような名前だとよく揶揄われたので、名を聞かれたらそう答えることにしており、幼なじみたちにもそう呼ばせていた。
「いい名前だな。なあ、どっちが速く泳げるか、競争しようぜ。ハル」
「いやだ」
「なんでだよ!」
「勝負にならない」
「あっ、なんだよ! おれ泳ぐの速いんだぞ。オアシスで泳いだ時はだれより速かったんだからな!」
バシャン、と突然リンが泉に飛び込んだので驚いた。水飛沫が舞う。彼が身につけていた高価そうな衣裳はそのままずぶぬれになった。いひひ、といたずらが成功したような顔で笑う、その姿に胸がざわついた。生まれて初めて知る高揚だった。
触れたい、と思った。
月灯りに照らされて、泉の水を纏ってきらきら輝く彼に触れたかった。
けれど手は伸ばせなかった。
きっとあれが恋だ。
一度会ったきり。
この国を統べる王の、一番若い愛人。
けして自分の手が届くことはない。
本当は連れて逃げたかった。あの頃のハルカは自分がもうすぐ追い出されることを知っていた。彼の手を引いて一緒に行けたらどんなにいいだろうと思った。けれど、リンや家族にとっての幸せが何かを考えたら、動けなかった。
それでも、あれから何度も夢に見る。
側室たちが住む王宮の塔の部屋で、リンが泣いている。
あの日のリンは勝気に笑っていたのに、夢の中のリンはいつも泣いて自分の名を呼んでいた。
実際のリンは城の豪華な暮らしに慣れ、自分のことなどすっかり忘れておもしろおかしく暮らしているのかもしれない。
己の身勝手な妄想だと知りながら、夢で泣いているリンを見るたびに胸はちぎれそうに痛んだ。
「自分もついていく」と頑なに言ったゴウを無理やり街に置いて、ハルカは王宮を目指した。ゴウの意志は強かったが「守りきれない」と言外に足手まといになることを伝えると、さすがに頷いた。
「人々の恨みは、王家だけではなくたくさんの妻妾たちにも向いています。王家からお金を受け取ったわたしたち家族だって、罪に問われるべきかもしれません。でも、兄は…兄はなにも悪くないんです。ただ、わたしのかわりに」
ふたたび涙を滲ませるゴウを安心させるように言い聞かせた。
「おまえたち家族も、誰も悪くない。長いこと、この国に王に逆らえる人間なんていなかったんだ。兄は必ず連れて帰るから、安心しろ」
馬を走らせ王宮の付近まで来ると、警備の衛兵たちよりも厄介なものに気づき、ハルカは眉をしかめた。
「面倒な結解が張ってあるな…」
王宮を守る結解はもともと強力なものだが、かつて王宮から追い出された者相手には特に二重鍵のような設定になっているらしかった。
それでも、自分にもこの数年間、盗賊としてどこにでも忍び込んできた経験値があった。水の精霊に力を借りるべく意識を集中する。複雑に絡んだ結解の全体像が浮かび上がってくる。水の精霊の邪魔をするように城内の精霊たちの意識が入り込んでくるが、精霊を操る才能はハルカが誰よりも上だ。だからこそ追放された。
結解が解除されると、ハルカは身軽に堀を乗り越えて忍び込んだ。
リンが住まわされていた離れの塔の位置はあの頃何度も見上げたから覚えていた。今も変わっていないといいが、と願いながら塔の下へ回り込む。
高い塔を見上げると、図ったようなタイミングで凛が小さな窓から顔を出した。
『ハル』
見下ろしたリンの口は間違いなくそう動いた。
───リンは、自分を待っていたのだ。瞬間的にそう悟った。
ふわりと布のロープを投げ、塔をよじのぼる。かなりの高さがあったが、風の精霊の力を少し借りた。
「リン、逃げるぞ」
「すげえなあ、これだけの高さを一瞬で。どうなってんだ? 物理法則って知ってるか?」
「おれは魔法使いだ」
「なるほど」
リンは少しも驚いた様子なく笑っていた。
すっかり大人びた顔はそれでもあの頃の面影がそのまま残っている。いたずらっぽい笑み。
自分が今夜来ることを知っていた? ゴウが手紙を出した? そんなわけはない。王宮に送られた手紙はすべて検閲されているはずだ。
「ハル、来てくれたんだな」
「知っていたのか」
「まさか。おれに魔法の力はないよ。でも、夢を見たんだ。昔、泉でハルと泳いだときの夢。…だから、死ぬ前にもう一度会える気がしてたんだ」
リンは明日、革命軍の作戦が決行されることを知っている。
どうして。
情報はどこからも漏れていないはずだった。
「リンは死なない。おれがここから連れ出す」
「そうはいかない。おれはここで今まで民から搾り取った金でぬくぬく暮らしてきたんだ。もし、あの人が捕われて殺されるなら、おれも殺されなくちゃダメだ」
「違う。リンは連れてこられただけだ。妹のために。おれはゴウに頼まれたんだ。だから、必ずおまえと一緒に帰る」
妹の名前を出すとリンの瞳が揺れた。
「……ゴウは元気か?」
「ああ、元気だ。すっかり大人になった。おまえを案じて泣いていた。おまえの母親もだ。行こう、リン」
「だけど…」
俯くリンの瞳に長い睫毛が影をおとす。
一刻を争う時なのに、憂いを帯びた美しさに息を呑みそうになる。幼い日の面影を残しながら、大人びた頬には妖艶さが漂う。きらびやかな衣服には繊細な模様細工やレースが施されて、ここにいるあいださぞかし寵愛を受けていたのだろうと思われた。
気に入らない。国王に愛され、ここに閉じ込められてもなお最期まで共にいようとするリン。己の感情は愛ではなくエゴと独占欲かもしれない。必ず生きてリンをここから連れ出したい。
「リン。夜明けには革命軍がここへ乗り込んでくる。そうしたら逃げられない。おまえは連れ去られてここへ来たんだろう。今度はおれに連れ去られるだけだ」
「なんだよ、それ」
リンは困ったように笑う。
わずかに眉をよせた表情に懐かしさがこみあげる。
愛おしさが衝動のように溢れて、気が付いたら唇を重ねていた。驚いたようにビクリと身を震わせるリンを押さえつけて、何度も何度も呼吸を奪うように口づけた。よろけそうになった身体を、腰を抱いてしっかりと支える。
「ハル………」
「………これで、リンは疵物になった」
「………は?」
「他の男に襲われた時点で、もうリンは王の妻としてふさわしくない。おれが責任もって嫁にしてやる」
「なんっだそりゃ。ほんと勝手なことばっかり言いやがって」
リンはふわりとハルカの腕から逃げ、窓辺の前に立った。背後に月を背負うように笑う姿は出会った夜を思い出させた。
「言っておくけど、おれは自分の意志でここに来た。だから今度も、自分の意志でハルと一緒に行くよ」
ルビー色の瞳がゆらりと潤む。
「もう一度会いたかったんだ。おれはずっと、おまえを呼んでたよ。………聞こえてたんだろ?」
リンが伸ばした白い手をハルカはしっかりと取った。
届いた、と思った。
革命は計画通り遂行され、国王は退位した。城壁は崩されて王家が所有していた金銀財宝はすべて持ち出された。一族皆殺しもあり得るかと思われたが、過去の外交における功績などもありだいぶ穏便にことは進み、流罪となったようだった。
革命軍が指揮をとり、国も復興の道を歩んでいる。かつての城下町も少しずつ活気を取り戻すだろう。
「おれあの人のこと、特に恨んでないんだよなあ。まあ、つらいこともあったけどさ。たぶん、あの人もずっと寂しかったんだと思う」
リンがぽつりとそう言うのを聞いて、どこか複雑な気分になる。リンは望んで妻になったわけではないが、それでも情はあったのだろう。妾として、夜な夜な褥をともにするうちにわかりあえる部分もあったのだろうか…などと考えると思考が昏くなるので、ハルカはあまり考えないようにしている。何年間もつらかったのは自分ではなくリンだ。
リンはぶじ家族と再会し、いまはハルカと静かに暮らしている。ひさしぶりに街を気ままに歩いて回ってみたりして、自由を満喫しているようだ。
ハルカがひとりで暮らしてきた小さな家は、リンが今までしてきた絢爛豪華な暮らしとはまるで違う。せめてもう少し大きな家に住もうと提案したが、リンはこの家を気に入ったようで「ここがいい! ここに住む」と譲らなかった。ベッドもひとつしかないので、毎日共寝をしている。
はじめて情を交わした夜は夢のようで、それでもどこかリンの今までの暮らしが脳裏をよぎる。
「そうだ、ハルなんか勘違いしてるかもしれねえんだけどさ」
「?」
「おれ、王様にはなんもされてないぜ。だから、ハルが初めて」
「えっ…、えっ!?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
早く言え、と言いそうになったがリンはこの数日苦悩する自分を見て楽しんでいたのでは、とさえ思えてきた。現にリンは楽しそうに笑っていた。
「おれが城に行った時点で爺さんいくつだったと思ってるんだよ。とっくに不能だった。ただ、絵を描くのが趣味でさ。おれに変な衣裳着せて夜な夜なスケッチしたりはしてたけど」
「………」
それはそれで嫉妬する気がする。ハルカは今度、自分もスケッチさせてもらおうと心に誓った。できることならば、なるべくあらわな姿で。これからは誰にも見せない、自分だけのリンの姿を筆で留めるのだ。
「ハルカ。おれを支配できるのは、おまえだけだよ」
おそろしく蠱惑的な笑みを浮かべる愛しい恋人。
崩れゆく王国とともに目の前の至宝が消えなかったことに心の底から安堵して、ハルカは両腕で彼をしっかりと閉じ込めた。
【めでたしめでたし………】