どこにも行けない「ジェイスン警部、ちょっとよろしいですかね」
大会議室に向かう途中、廊下で呼び止められた。振り向くと、ファイルを手にして立っていたのは警務部所属の警部だった。
「会議がある。手短に済ませて欲しい」
「ああ、はいはい。──異動の件なんですが。実は少し、厄介な新人がいましてね。刑事部志望らしいんですが、周囲から浮いた変わり者のようで」
「ほう?」
「論文と面接で熱弁したらしいんです。国家警察は、市井の人々を守るヒーローたるべきだ、と」
ヒーロー。
久しく聞かなかった単語に、ジェイスンは眉を寄せた。書類を見ていてジェイスンの反応には気づかなかったのか、警部が書類を指先で叩きながら鼻で笑う。
「警察学校の成績はまあ、悪くはないんですがね。洞察力や分析力、推理力も十分なレベルです。まあ、キャリア組の中じゃそこまで光るわけでもないですが……」
それはそうだろう。国家警察を志望するような若者は、そもそもがエリートたる才能と素質を十分に備えているものばかりだった。
「ただ、射撃のスコアが抜群で。術科の成績もかなりのもんです。特に射撃は首席の候補生さえ上回るんで、SWAMが色めき立ってましたね。刑事部に行かせるより、三年くらい警備部でやらせれば青臭いことを口にする余裕もなくなるかと思ってんですが」
「書類を、見せてもらってもいいかね」
「あ、はい。どうぞ。最後の方の奴です。名前は……」
ジェイスンは差し出されたファイルをめくった。ページごとに、入庁したばかりの新人たちのデータが整理されている。付箋の貼られたページが、今回の人事異動の対象者なのだろう。ファイルの終わりにさしかかり、ジェイスンの指が止まった。
最初に目に止まったのは、緊張気味の面持ちをまっすぐにカメラに向けた若い警察官の写真だった。誇らしげに取り澄ました顔の新人の写真が続く中、茶を帯びた金髪と翠の瞳からはまだ学生らしさが抜けていない。地味な外見で、あまり特徴がない若者だった。
外見の印象からは、ヒーローなどと子供のように稚拙で、それでいて大それたことをこの国家警察内で口にするイメージが湧かない。
ジェイスンはつまらなそうに唸りながら、氏名の欄を見た。
「ルーク・ウィリアムズ……『ウィリアムズ』……?」
我知らず、ジェイスンは名前の綴りを口に出していた。
途端。ふと、白のイメージが脳裏を過った。
花だ。澄んだ水のような香りの白い花が溢れた、清潔な葬儀場の記憶が甦る。年配の刑事たちに付き添われて、棺のそばで泣いていた少年がいた。父親の遺品が並んだ白いクロスのテーブルを前に、形見となったグレーのコートを抱き締めて、黙って肩を震わせていた。
顔も覚えていない。少年は涙を堪えようと無駄な努力でずっと俯いていて、ジェイスンどころか棺の中すら見ていなかったのだ。
だが。
「──君たちの目は、節穴なのかね」
「え?」
もう見る必要もないと、ジェイスンはファイルを閉じて同僚に突き返す。
「こんな男、現場の刑事以外に向いているものか。うちで引き受けるしかなかろう」
「……はあ」
「この期に及んで、面倒ばかり増やすものだ」
話は終わったと、警部に背を向けて歩き出す。背中からうんざりとしたため息が聞こえたが、無視した。もとより、警務部相手に言ったわけではないので気にするようなことではなかった。
大会議室に向かうジェイスンの靴音が、次第に速くなる。
本当に来た。あのクリスマスの日から、あの男の背中をずっと追いかけていたのか。国家警察に属するほどの努力を重ね、父の死の真相を確かめに来たのか。いずれその死が、本当はどんなものであったのかという事実を知るのだろうか。
誰がそれを装ったのかを、突き止めるのだろうか。
口の中で奥歯が軋む音を立てた。不安よりも、言いようのない不快感がある。
知られてはならない。エドワードの息子は手元に置いて、監視を──そう、監視をしなければならない。父の死に余計な詮索をしないように。父親のように、愚かな道を歩まないように。
所詮ヒーローとは簡単に現実に潰される幻想に過ぎないのだと、教えなければならない。そしてこの道を選んだ以上、ここ以外に行き先などないのだと。
たとえ、既に翼も星も地に堕ちた国家警察の真の姿を知らせることになったとしても。
大会議室の前で、深呼吸する。会議の予定時刻の三分前だった。忌々しさを噛み締めながらもいつものように襟を正し、ジェイスンは扉を大きく開いた。