シークレット・ニュース 誰もいない朝のリビングで、シンクに少しだけ水を流す。コーヒーメーカーの給水タンクに新鮮な水を満たし、カプセルホルダーとともにセットしてスイッチを押す。
このカプセル式のコーヒーメーカーも、チェズレイが贈ってくれたものだった。クリスマスまでウィリアムズ邸へ厄介になるにあたり、プレゼントがてら新しいコーヒーメーカーを持参するとチェズレイが言い出した時には本格的なエスプレッソマシンが来てしまうのではないかと身構えていたが、実際に届いたのはコンパクトサイズのカプセル式メーカーだった。美味しいエスプレッソも魅力的だったが、各種ブレンドやフラットホワイト、ラテ・マキアートやココアまで、毎日たくさんのカプセルの中から好きな味を選べる楽しさと手入れの簡便さを理由に選んでくれたのだということは、ルークもすぐに気が付いた。
タンクの湯が湧き、すぐに抽出が始まる。その間に、ルークはリビングのテーブルに朝刊を広げる。朝、家にいる内に二社分の新聞とテレビの報道番組をチェックし、残りの一紙とネットニュースは通勤の間から始業時間までに目を通す。学生時代から続けていたこの習慣は長年の慣れのおかげで、速読とまではいかないまでもかなりの速度で紙面の比較が出来るようになっている。
チェズレイがリビングに入って来たのは、ちょうどラテ・マキアートの抽出が終わり、ルークがカップを手に取ったところだった。
「おはようございます、ボス。今日はお早いですね」
「おはよう、チェズレイ。ごめん、もしかして起こしちゃったか?」
「いいえ。だいぶ早めに目を覚ましておりましたので。先程は、ゲストルームの窓からパジャマのまま眠い目を擦りつつ朝刊を取りに行くボスを見ておりましたよ」
「げ」
チェズレイは既に、いつでもすぐに外出出来るくらいにしっかりと身支度を整えている。身づくろいにはルークよりも時間がかかりそうだというのに、自慢のロングヘアはいつも通り艶やかで、もしかしたらルークよりももっと早くに起きていたのかも知れない。
「朝食は私が用意しましょう。ボスはそのまま、新聞のチェックをどうぞ」
「ありがとう。お願いしてもいいかな」
「もちろんです。フレンチトーストとクロックムッシュではどちらがお好みですか?」
「フレンチトーストで!」
「仰せのままに」
嬉しそうに即答した声に苦笑しながら、チェズレイが冷蔵庫を開ける。心地よい調理の音を背中で聞きながら、ルークはラテのカップを片手に文字の詰まった薄灰色の紙面に視線を走らせる。一面を飾るニュースは先日明らかになった大物二世政治家の政治資金問題だったが、総合面を一通りチェックして一枚捲った先で、ルークの手が止まった。
「エリントン中央銀行の不祥事……元取締役の男の横領事件、約一億の使途は主に調査中……そういえば、二課のアレクシスの担当だったか。他に報道している新聞は……」
他の新聞やタブレットのニュースサイトと見比べていると、チェズレイが焼き立てのフレンチトーストの皿を運んできてくれた。新聞をどけてスペースを作ったところに、音もなく品よく皿が置かれる。
「お待たせしました。冷めない内に、どうぞ」
「おお……! ありがとう、美味そうだな!」
「くれぐれもシロップはほどほどに。──こちらの件、被害額が億に上るようですが、借金返済の名目でそのほとんどが内縁の妻に貢いでいたもののようです。この内縁の妻という女性、ガリ国某組織幹部の情婦の噂があるようですよ」
「……だとしたら、お金の流れが気になるな。アレクシスは突き止めているかな……」
新聞を畳み、ルークは出来立てのフレンチトーストに向き直った。
「ベーコンにフルーツに、生クリームに彩りを添えるエディブルフラワー……お店みたいな盛り付けだけど、いつの間に用意したんだ……とにかく、いただきます!」
ルークが両手を打ち合わせ、カトラリーを手に取る。ラテ・マキアートのおかわりの準備をしながら、チェズレイはたおやかに微笑みながら食べっぷりを眺めていた。
翌日。
『中央銀行元取締役の横領金、海外犯罪組織に流入か』
コーヒーメーカーにセットしたショコラ・ラテの抽出を待つ間、昨日よりも文字とスペースが大きく取られた見出しの面を捲る。小さな見出しに、ルークは目を留めた。
「貧困層を狙った組織的な身分証売買事案……確か、シリルが担当チームに入ってる事件だな」
「そちら、最終的には臓器売買ルートに結びついているようですよ。バックにいるのは生半可なマフィアより遥かに凶悪な輩のようですので、決して先走ったりなさいませんように」
ぷるりとした卵を鮮やかな黄色のソースが覆うエッグベネディクトと温めたマフィンの皿をルークの傍らに置きながら、チェズレイが言う。
「ありがとう、いただきます!……この卵にかかってるソース、めちゃくちゃ美味しいな ──そうだな。シリルは二年目でやる気があるから、捜査のチャンスがあると思うとちょっと突っ走りそうなんだよな。釘を刺しておくかな……」
ただ単に言っても納得しないだろうから、方針はチームの先輩を巻き込んで一緒に示しておくべきか、とルークは口の周りを卵で黄色く染めながら考え込む。まるで頬袋に詰め込むように笑顔で料理を頬張るルークを、チェズレイは微笑ましく見守っていた。
その翌日。
『悪徳貧困ビジネスの末路 臓器売買組織を一斉摘発』
フラットホワイトの香り漂う朝のリビングでソファーに座り、とても何か言いたげな顔のまま、ルークが朝刊をめくる。
「二世政治家の献金疑惑……収支報告書未記載の裏金の全容は未だ掴めず、なあ……」
「関係先の事務所と、彼のお父上の愛人宅にPCが隠されているようですよ。隠蔽の恐れもありますし、捜査に入るならばお早めに」
言いながら、チェズレイが皿を運んでくる。フルーツとサラダを添えた焼き立てワッフルの上で、熱々のバターがとろけている。皿が置かれるより先にルークは新聞をきれいに畳み、チェズレイとは逆側のソファーの端に置いて眉を寄せた。
「ありがとう、チェズレイ。──なんだけど。この間から、新聞の報道より一歩も二歩も先の情報を補足してくれているけど……ていうか、捜査関係者のアレクシスもシリルも君の話は初耳だって言ってたんだけど、君のそれは、どこ情報なんだ……?」
「僭越ながら、私情報です」
「聞くまでもなかったな!」
ルークが腹の底から息を吐いた。しかし、すぐに表情を引き締めてチェズレイに向き直る。
「いや、ありがとう。──おかげで、被害者をこれ以上増やさずに済んだ」
「それは、何よりです」
「まさか、僕の気にするニュースの裏情報をすべて持っている、なんてことはないよな……?」
「それこそ、まさかですよ。私もネタ切れくらいは起こしますので。ですので、明日の見出しは……そうですね。『新進気鋭の若き国家警察警部補、熱愛発覚』など、いかがでしょう。お相手は民間人につき非公表、とでも」
ルークが息を詰めた。言葉に迷って少しの間視線をさまよわせ、やがて息をつく。
「芸能ゴシップみたいな扱いだけど、確かに一応、『民間人』ではあるよな。──君は」
ルークの言葉に、チェズレイはただ黙って微笑んだ。それから、許しを得たように、ソファーのルークの傍らにそっと座る。
「……というか、さっきから思ってたけど、君の言うネタは、ニュースっていうより予報だよな……? 翌日の報道を先取りしているわけなんだから」
「おや。今の話を、天気のごとく『予報』として周知してしまっても、よろしいのですか」
チェズレイが意外そうに言う。ルークは黙って唇を尖らせ、とん、と咎めるようにチェズレイの左肩に自分の背中を軽く押し当てた。そうしてチェズレイの顔を見上げ、視線を投げかける。
「事実だとしても、広く知られなくていいことだってある。そうだろ」
「ええ。ボスのお望みとあらば。事実の隠蔽は、得意な方ですので」
「物騒な特技だよな……とはいえ、おかげで助かってしまってもいるから、何も言えないんだけどな」
「ふふ。最も効果的に暴くためには、隠すことも同じくらい必要ですので」
肩からぬくもりが伝わるのを感じながら、チェズレイの手袋の指先がルークの頬を包む。頬の輪郭を愛おしげに撫でる指先に、ルークが気持ちよさそうに目を閉じた。
「無論。このすぐあとに起きることも、誰彼の区別なく隠し通しますよ」
朝の光が満ちたリビングで、囁く声が密やかに約束を取り交わす。そのまま近付けた唇へ、微かに笑ったような吐息が掠めた。
(2024.4.29)