# ただ一言の 誘いすら◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
もしも を考えた瞬間が、なかったとは言えない。
いだいた憧れを憧れのまま、口にした夢は夢のままで、あのキッズテントの中にそっとしまい込んでおいたなら。同じ道を歩もうとせずに、目指さずにいたなら。
あのやわらかな眼差しとやさしい温もりに包まれた日々は、今も変わらず、そこにあったのだろうか。
当たり前のように与えられていた愛情を疑うこともなく、相手に受け入れられないことなど想像もせずに全身で伝えていた愛は拒まれることなく、今日まで過ごしていたのだろうか。
ブラッドの隣に並び立ち、支え、忠義を尽くすことを揺らぎない指針としているオスカーを――その逞しい背中を見送って。多忙を極めながら、たまに実家に顔を出す二人それぞれから、互いの活躍を聞かせてもらう。そんなもしもが、あったのだろうかと。
「……馬鹿みたい」
意味を成さないもしもを夢想しても、何も満たされないし、何も変わらない。
フェイスは胃のあたりでもやつく不快感を流し込みたくて、自販機で購入した炭酸水を煽った。
冷たさと微炭酸の刺激でそれなりの爽快感は得られるが、消化しきれないなにかが腹の底の方に落ちていっただけのような気もする。
気まぐれにエリチャンなんて、見るんじゃなかった。数分前の行いを後悔しながら、フェイスは自室に戻ろうと向けていた足を、居住区ではなく地上階エントランスに繋がるエレベーターへと方向転換させた。
元々今日は一日オフを利用してレコードの整理や音源の聴き込みを行うつもりだったが、どうにもそんな気分になれない。適当に街中をぶらついて、気に入りの店でショコラでも買おうか。いや、楽器店のレンタルスタジオに立ち寄って、ピアノやドラム、ギターでもなんでも借りて、音の海に潜って遊泳するのもいいかもしれない。そうだ、そうしよう。
誰かに、何かに。執心して、固執して、一喜一憂することはひどく、疲れる。
自分の機嫌を、気分をコントロールする術はそれなりに手に入れたつもりのフェイスだが、誤魔化しを重ねただけの応急処置は簡単に剥がれ落ちてしまうことも理解していた。
「フェイス」
例えばこうやって、不意に背後から この声 に話しかけられたときなどは、殊更に。
「…………ブラッド。どうかした?」
なんてことのないような声で、顔で、振り返る。そこまではできる。問題ない。しかし決して気分が良いとは言えない今の状況で、平然な態度という鎧を纏うのは、少し重たい。
それでも。動揺も、強張りも見せたくはなかった。それは最早、何のために張るのかもわからない意地でしかないけれど。
「いや、……」
どこか歯切れ悪く、言葉に迷っている様子のブラッドに気づかれぬよう、フェイスは喉の奥を使ってため息を押し戻す。
ブラッドが口を開くと反射でフェイスが身構えてしまうのは、この数年ですっかり習慣づいてしまった自己防衛のようなものだ。その名残は未だ、ふとした瞬間に出てしまうことがある。
無防備だった心の柔らかい部分が、鋭い言の葉のギザつきでサクサクと刻まれて。厳しく頑なな態度で、ザリザリとヤスリにかけられたような痛みを、在りし日の古傷と呼ぶにはまだもう少しだけ、時間薬が必要だった。
望まなければ、深入りしなければ、傷は浅く済む。時間経過と共に、傷を負ったこともその傷の原因すらも忘れてしまえばいつか、傷ついたことを忘れられるかも知れない。そうなってくれれば、いい。忘却は、無と同義だ。
「……通路を曲がったところでお前を見かけたが、少し顔色が悪いように見えた。きちんと睡眠は取っているのか。最近は以前よりも夜間外出を控えていると聞いたが――――」
声の抑揚にこそ険はとれているものの、お説教やお小言の類であるそれに、辟易というより一周まわって苦笑いがこぼれそうになる。
「……そう? 別に、体調は悪くないけど。顔色が悪そうに見えるって話題で絡もうとしてくる子達もたまにいるから、外に出るのはやめておこうかな。……そっちは、出かける用事があるんでしょ? それじゃあね」
以前のように反発心のまま聞き流すより、ある程度は受け取ってみせて、会話の主導権を握らせずに離脱した方が、結果的に心の軋みが少なくて済む。
精神の防衛を最優先としたフェイスは、エレベーターの同乗を避けるため、ブラッドが更に何か言わんとする前にくるりと踵を返した。
ここは一旦引いて、ブラッドとは時間差で出かければいい。内臓をじくじくと攻撃する痛みを手放すためにも、鬱憤解消の外出は今のフェイスにとって必須なのだ。
『 もしも、次に予定が空くことがあったら―――― 』
なんて、絶対に言わない。絶対に、言えない。
悪友がお膳立てしたランチのときのような場が、あったとして。何を話したいだとか、どうしたいだとか。具体的なことは、何も思い浮かばない。それらしい理由がなければ、実の兄を誘うこともできない。
――――否、誘いたいなんて、思っていない。きっと向こうだってそんなこと、思わない。
それでいい。今の自分達は、それで構わない。そんな状況でも、以前よりはずっとずっとマシなのだ。そうだと思い込めば、それが事実になる。
例え口の端が歪んでいても、フェイス笑っている。笑えている。だからまだ、大丈夫。
# ただ一言の 誘いすら
「……そっちは、出かける用事があるんでしょ? それじゃあね」
ひらりと手のひらを揺らして踵を返されてしまえば、それ以上引き留めることはできず、ブラッドは弟の背中を黙って見送った。
「……そうか」
小さく呟くような声は、リノリウムの床に落ちて誰に拾われることもない。
ポケットの中では、端末が振動している。おそらくは、年若い部下からの合流のせっつきだろう。
その言動も振る舞いも、何一つ重なるところはないものの。無垢で無邪気な年少の頃の弟の姿をたびたび思い出しては、現実目の前に居るフェイスの瞳の奥を見つめることができない現状に、思うところがないわけがない。
昔から、愛情を惜しみなく相手に与える子だった。
愛される分だけ与えられた分だけ、ひょっとするとそれ以上に愛を返そうとするフェイスを、両親もブラッドも慈しみ、愛し、見守っていたつもりだ。
兄のようでいて弟のような存在だったのだろうオスカーを慕い、面倒もよく見ていた。互いに与え合い、寄り添い合っていた親しげな姿を微笑ましいと、愛おしいと感じた瞬間は、数えきれない。
フェイスの与えたがりは、裏を返せば愛されたがりの甘えたでもあった。愛くるしい末っ子を、家族みなで愛した。
ブラッドは、自身が弟に及ぼしていた影響力を自覚している。フェイスの人格形成の根幹部分、ベースのほとんどに色濃く、強く関わってきた自負がある。それは慢心でもあり、純然たる事実でもある。
フェイス本人も肯定した通り、ブラッドの態度が何よりも、誰よりもフェイスを傷つけた。それもまた、揺るぎない事実であるのと同じように。
フェイスが誰と過ごそうと、笑っていようと、――笑うことができていなくとも。フェイスが他者にいだくあらゆる感情に、ブラッドが干渉する権利はない。蠱惑的に振る舞って、なんでもないように強がって、それでも引かずに、折れずに、抗う姿はときに、ひどく痛痛しい。
頭を撫でてやることも、肩を支えてやることも、背中を押してやることもできない今がもどかしく、伸ばす腕を持たない不甲斐なさは、自己の選択と言えど情けない。
――――それでも、と考える。それでも、いつか。いつかは、と。
瞼の裏で考える『もしも』に、できもしないくせにと自嘲気味に顔を歪めたブラッドは、頭を軽く左右に振った。
選択した先にあるものがどんな未来を、どんな結末を連れてくるのか。答えはまだ、見えてこない。
だから今は――――
# ただ一言の誘いすら ままならない