「今日は一日中、厚い雲に覆われます」
そう、テレビから聞こえた。
魘夢は指でなぞっていた本を閉じ、リモコンを取った。5のボタンについた印を境に、テレビのチャンネルを変えていく。どれもニュース番組。
「雨の心配はありませんが、」
「晴れ間はなく…」
「曇で…」
言い回しは違えど、どれも天気予報は同じ。なら、とテレビを消して準備を始める。
いつものポシェット。折り畳み式の白い杖。保険証の確認。大丈夫。
常に揃えてある柔らかい踵の低い靴を履き、玄関の扉を開けた。
地面の感触を足の裏に感じ、杖を伸ばす。かしゃん、と音を立てながら魘夢は迷いなく歩いた。今日は駅前に行きたい。駅周辺を歩いて知っておくのは大切だし、特に最近は再開発やらなにやらで色々と変わっている。ついでに買い物も出来たらしたい。昼間に出歩けるのは貴重だ。
「(遠回りになるけど、交通量の少ない方から行こう)」
自分が歩くと、周りの人々が避けるのがわかる。ありがたいが、そんなに腫れ物の様に扱わなくても……。でも本当に困った時は助けて欲しいから難しい。
ある程度は一人で出来るけど、初めての場所や久々の場所ではやはり戸惑ってしまう。そうやって焦っている自分は、周りからはどう見えるのだろうか。
かしゃん。違和感を感じて、立ち止まった。もうすぐ駅前の筈。だけど、
「(……あれ、点字ブロック途切れて…)」
そこまで考えて次に流れて来た音声で、魘夢は理解した。
『只今工事を行っており、道が大変狭く……』
魘夢が知らない間に、再開発の工事区域が広がっていた。先程からすぐ側を人が通っている。避けるスペースすらないのだろう。仕方無い。一度広い場所まで行って、誰かに手伝って貰うしかない。自分は今、冷静を装ってはいるが正直に言うと、道がわからなくなった。
周りの喧騒に、魘夢の知りたい情報は埋もれてしまったのだから。
横に逸れ(それでも人混みの中ではある)、白杖を両手で持って掲げた。これの使い方には賛否両論あるが、今は声をかけたところで聞いて貰えるとは思わない。とりあえず、困っている自分をアピールして誰かが気付いてくれれば。
「………」
浅はかだった。
そう言えばこれで助けて貰った事はないに等しい。大体しびれを切らして、相手の表情が見えない事を良いことに声をかけていた。
魘夢は杖を下げ、考える。人が行き交っているのはわかる。だが、その中で声をかけても大丈夫な人は……。そう考えていた時、何かにぶつかり転倒した。
間違いない、人にぶつかった。魘夢はその場から動いてはいないので、相手がぶつかってきたのだろう。舌打ちが聞こえたから、話しても無駄だと悟った。
溜息を吐き、立ち上がろうと杖を探すが見つからない。さぁ、と血の気が引いた。あれがないと満足に歩けない。転がってしまったのだろうか。辺りに手を伸ばすが、それらしい物に触れない。
「(杖、どうしよう…どこに…)」
どうしよう。頭の中を占める言葉は何の解決にもならない。
がやがやとした喧騒が煩わしい。うるさい。自分は今大変なんだ、黙ってくれ。……なんて、八つ当たりだ。
とりあえず落ち着いて。炭彦に電話を…駄目だ。あの子は危険登校の罰で補習を受けに学校に…。
もう一度手を伸ばすが、誰かに踏まれた。
目頭が熱くなる。誰か。
「…たすけて」
「大丈夫ですか!?」
魘夢の消え入りそうな呟きに応えたみたいに、誰かが声をかけた。男性、まだ若い声。炭彦くらいの歳だろうか。
彼は魘夢と目が合わない事で事態を察し、「失礼します」と言ってから魘夢の手を取った。彼は魘夢をゆっくりと立たせると、手に馴染みのある杖を握らせた。
「手を怪我してますね。後は痛いところは…」
どうやら魘夢の心配をしてくれている様だ。何だか聞いたことのある声。それと、匂い。花の、匂い。これは、……蓮。
「……童磨、殿?」
「え?……君、お姫様…?」
◆◆◆◆◆
「良いのかい?女性の一人暮らしにお邪魔して」
「何をするつもりですか、クソガキ」
思わぬ再会に懐かしむ事はしない。二人は場所を変えた。この二人の会話は周りが聞いたら「気でも狂ったか」と思われかねない。童磨の手を借り、魘夢は家に帰ることにした。
あまり人の家に行かないのか、童磨はキョロキョロと見回している。勿論、魘夢にはそれは見えてはいない。彼女は棚を手でなぞり、お茶の準備をしていた。慣れた手付きでカップを出し、茶葉を蒸らし、淹れる。差し出された紅茶はとても良い香りがした。
「本当に見えてないんだ」
「えぇ、全く。だから、今の貴殿がどんなお姿かもわかりません」
「あまり変わらないと思うよ。髪も、目も。でも、君は変わったね。ずっと生きているのに、別人みたい」
紅茶と共に出されたケーキの苺に、フォークを刺して童磨は笑った。
「地獄の刑期は随分と短いらしいですね」
「君のおかげだよ」
『君のおかげ』。意味がわからず、魘夢は黙った。自分は褒められる様な事は一切していない。周りの鬼が死ぬ中、人間に戻り、好いた男と結婚して、子供を産んで、孫も曾孫も玄孫も抱いた。
「君の目が見えなくなったのは、『他の鬼の罪を被った』から」
童磨は魘夢を指差し、言う。彼女とは一切目が合わない。
「何故、それが罰だと?たかだか目が見えなくなったくらいで、今までが帳消し?」
「君はずっと生きているのだろう。愛しい人や自分の子供に置いて逝かれて。それでも尚生き続けるのが君の罰」
後は、と童磨は続けた。苺は既に腹の中。
「目が完全に見えなくなる事で、君は愛した男の系譜を見続ける事が出来なくなる。今後一生ね。それは、君にとって地獄の責め具より辛く恐ろしいだろう。君以外の鬼の罰として、君が受けるのに相応しい」
なんて、理不尽なのだろう。童磨は思った。彼女はただ鬼狩りに着いて行っただけ。だけど、決して許されなかった。人間に戻っても。だって彼女は人間を殺した。自身の子供を慈しんでも。だって彼女は誰かの子供を殺した。押し潰されて泣いても。だって彼女は誰かを絶望の底に叩き落した。
人間として生きる代わりに、他の鬼の罪を被れ。童磨がたった百年そこらで転生出来た理由。記憶があるのは、彼女に伝える役割があったからだろう。
何せ、二人は『友達』だったから。
「……なら、貴方方は俺に感謝して欲しいですね」
「してもしきれない。出来る限りサポートはさせて貰う」
「貴方まだ高校生でしょう」
「そうだった。少女だった頃の君を知っているからつい、」
魘夢が鬼になる前からの友達。居場所が無かった彼女の唯一の話し相手。魘夢自身は覚えていないが、童磨にとってはやはり彼女は友人だった。
男女の友情は成立しないと言うが、成立したら友情と呼べば良い。童磨は彼女に恋愛感情はない。今の自分の初恋は幼稚園の頃に会った教育実習の先生だった。
「生憎、俺は今でも鬼になる前の記憶は曖昧なんです。そんな事より、夫や子供との思い出を覚えていたい」
「俺の事も覚えてくれよ」
「では、今の貴方を教えて下さい」
すっかり温くなった紅茶を啜り、魘夢は微笑んだ。こんな柔らかい表情が出来たのかと驚いたが、きっと彼女の夫が変えたのだろう。
「良いぜ。今の俺は都内の進学校に通っていて、高校二年生。両親と三人暮らし。遅くに出来た子供だからかなり過保護だけど、怒られる時はちゃんと怒られる」
「良い親御さんですね」
「名前は童磨、じゃないけど君は童磨と呼べば良い。混乱するだろ?」
「えぇ」
彼女の瞳は薄暗く、そして何も映さない。今の魘夢はあまりにもか弱く儚い。それに、何かを抱えている気もする。彼女自身も知らない何かを。
しかし、童磨が深入りする権利は無い。彼女は彼女なりに、それを受け入れている。甘いクリームを飲み込んでから、童磨は言った。
「後でお線香あげても良いかい?友人として彼に礼を言いたい」
「礼?」
「君を『本当に好きな相手と結婚をさせてくれた』礼だよ」
魘夢がはっとした表情をする。
「結婚おめでとう」