他人ごっこあの出来事は夢だったのでは、と思う事がある。
偶然知り合った全盲の女性。亡くなった旦那さんが俺と同姓同名で、何だか近く感じた。そして、彼女と俺は。
「ー!!」
「うわ、びっくりした」
俺が上げた奇声に、善逸が異を唱えた。それは本当に申し訳なかったから、謝った。
「炭治郎、何か変だよ」
そうだろう。何せ、あの人とそう言う事をしてから俺の頭の中はあの人でいっぱいなんだから。
見えない彼女の目は薄暗く、でも綺麗で。彼女の肌は白くて柔らかった。そして、彼女の中は……。
俺は机に頭を打ちつけて、煩悩を追い出す努力をした。
一回。たった一回されど一回。俺はめでたく童貞をその一回で卒業し、同級生の下世話な話にもついていける。だけど、彼女の事を言うのは憚れた。彼女が大人だからとか、未亡人だからとか、ではなく、彼女と俺はきっとずっと昔から知っていたから。それを上手く説明は出来ない。
ずっと探していた。彼女に全てを押し付けてしまった。あの子は、彼女の元で良い子でいただろうか。
「(?……あの子って、誰だろう)」
いつもこんな調子。
でも、彼女にはあれ以来会っていない。病気で太陽の光を浴びる事が出来ないのだから、そんなに外出はしないのだろう。会いたいと思っても、彼女の元へは行かなかった。
しかし、俺は多分、彼女にまた会いたいんだ。だからずっと、日がな一日中彼女の事を考えている。
ごそごそと、スクールバッグからスマートフォンを取り出した。カレンダーを開いて下校後の予定がない事を確認した。よし。
そうなれば行動は早かった。先に帰ると善逸に言って、校舎を出た。走って駅まで行って、電車に飛び乗る。
確か、彼女の最寄り駅は…と考えて、はたっと我に返る。
「(あれ?俺ってもしかして…かなり気持ち悪い…?だって一回した女の人の家まで行こうと…)」
今度は電車の扉に頭を打ちつけた。周りの視線が痛いが、普通に頭も痛い。
いや、でももう一度会いたいのも事実。もしかしたらそれで吹っ切れるかもしれない。だけど、あぁ!
そうやって悩んでいる間にも電車は走り続け、彼女の最寄り駅に着いた。降りない選択肢もある中、俺は降りてしまった。
ここまで来たら仕方ないと、記憶を頼りに彼女の家までの道のりを歩く。駅からはそんなに遠くなかった筈。
「お姉ちゃん、足元気を付けてね」
誰かのその声に思わず反応して、そちらを見た。
俺にそっくりで、俺と同い年くらいの男の子が白い杖を持った女性の介助をしていたんだ。息を飲む。その女性は、俺が会いたくてここまで来た理由の人だから。
何故、彼女が外にと思ったが、辺りはすっかり暗く、恐らく俺が電車に乗っている間にもう陽は沈んだのだろう。
彼女はしっかりした足取りで、隣の少年と仲睦まじく話をしている。俺とそっくりだけど、ちょっと違う少年。
彼の手前、話かけるのを迷ったけど行動しなければ俺の目的は達成されない。
「あ、あの!」
一歩踏み出して、俺は彼女に声をかけた。勿論、彼女に声をかけると言う事は一緒にいる少年も俺の方を見る。
俺にそっくりな彼は、俺を見て驚いていた。
「魘夢さん!あの、いきなりすみません!俺、貴女にまた会いたくて…」
彼女、魘夢さんと目が合わないのを良い事に俺はここまで来た目的を話した。凄く一方的だった。その間、魘夢さんは何も言わなかった。その魘夢さんの代わりに、隣にいた少年が言った。
「お姉ちゃんの知り合い?」
「……ううん。知らない」
はくっ、と息が詰まった。
魘夢さんが俺を知らないと言った。知らない。
「行くよ、炭彦」
かしゃん、と白い杖を地面にあてて彼女は自身の介助をしている少年に促した。俺は、追い駆ける事も、また声をかける事も出来なかった。
◆◆◆◆◆
町を歩いていると、様々な匂いがする。
アスファルト、ガソリン、道端の草花、店特有の香水、後は食べ物。
きっと匂いに敏感な彼なら顔を顰めたりもしたかもしれない。だけど、不思議だったな。彼は、俺の化粧の匂いを嫌がらなかった。結構、厚化粧だったんだけどな。
「(パン、焼き立ての。良い匂い)」
くん、と鼻を動かすと香ばしい香りがやってきた。匂いがする方向へ顔を向けると、ちりんちりんと鐘の音がした。店の入退室を知らせる音。パン屋があるんだ。
暗くなってから家を出た。夕方と言える時間。それでもまだ焼き立てパンが並ぶなんて、人気の店なのかな。
丁度良いから、いくつか買っていこう。匂いを頼りに杖をそちらに向ける。店舗の扉を引くと、入店を知らせる鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
穏やかな女性の声が聞こえた。そのすぐ後に、ぱたぱたと店の奥に走り去る音も。
大体、入ってすぐ側にトレーとトングがある筈。これに関しては手探りだ。両手が塞がるのは不便だけど。
手を彷徨わせてトレーとトングを探してあると、横から「失礼します」と言われた。
身体が凍りついた様に固まった。心臓が跳ねて、息が止まる。だけど、決して面には出さない様に。
「良かったらお手伝いします。俺がトレーとトングを持って、パンの説明をしますから、欲しいのがあったら言って下さい」
きっと。
きっと彼も気が付いている。気が付いていて、俺を知らないふりしている。そうだ。最初に彼を突き放したのは俺はだもの。今更、彼の名前を呼んで抱き締めるなんて出来ない。
だって、彼は、俺の炭治郎じゃない。
「お願い、します…」
俺が言うと、彼は一つ一つパンの説明をしてくれた。俺が欲しい、と言えば彼はパンを取ってくれた。
「この店のパンは俺が作ってるんです」
レジでパンを詰めながら、彼は言った。どうやら最初の女性は母親らしく、白杖を持っている俺を見て介助として彼を呼んだらしい。
内心、穏やかじゃなかった。彼を家に泊めた時、彼は母親に連絡をした筈だ。彼が何と説明をしたかはわからない。だけど、俺だとわかる様な事を言っていたら?母親にもし尋ねられたら、はぐらかせない。
「…―円です。……お客さん?」
「え、あ…!ごめんなさい…!えっと…」
手でろくに確認をしないで財布を触ったから、落としてしまった。小銭が散らばる音がして、余計に焦る。
慌ててしゃがみこんで探すけどもう何もわからない。
「大丈夫です。落ち着いて下さい。俺が拾います」
彼の声が優しくて、記憶の中の彼と全く一緒で、目がじわりと熱を持った。
駄目だ、泣くな。この子を突き放した意味がなくなる。
「落ち着いて、大丈夫だから」
彼は、俺にだけに聞こえる様に言った。それがあまりにも残酷だった。彼を俺の炭治郎だと認めれば楽なんだろう。けど、違うんだよ。
彼は、俺が愛した彼と同じじゃない。夜に俺を抱いてくれる彼と同じじゃない。
彼は、俺とは出会わずに今に至る。もう、いらない。
「…っ、たんじろ…」
殆ど空気だった言葉を彼は受け止めて、俺をゆっくり立たせた。彼が俺を支えて、彼の母親が会計を済ませてくれた。
彼は店から出るところまで、付き添ってくれた。
「ありがとうございました」
客を見送る言葉。
それだけ。
「良かったら、また来て下さい」
「…来て、良いの?」
はっとした。思わず言ってしまった。慌てて口を塞いだところで、意味はない。俺には彼の表情はわからない。だけど、そう。ただ、彼は笑っている。あの、変わらない笑顔で。
俺を見ているんだ。
「勿論です。ウチのパンを好きになってくれたら嬉しいので!」
「……っ」
「え!?ど、どうしました!?どこか痛いですか!?」
堪えきれず、その場に泣き崩れた俺に彼が焦る。あぁ、一緒だ。そうやって慌てるところも、俺を捨てきれないところも。
意地悪してごめんね、炭治郎『君』。
「ありがとう、炭治郎君。またお客さんとして来るね」
これで良い、これが良い。
彼とはこの距離感が良いんだ。
「さよなら、炭治郎君」