めぐり「カナタ、今日は魘夢お姉ちゃんの所にお泊り行ける?」
忙しそうに動く母に言われて、カナタは「うん」と言った。カナタは自ら親戚、厳密には高祖母の元へ行く事は滅多にない。弟は入り浸っているみたいだが。
「炭彦、そんなに悪かったの?」
「インフルエンザ。学校がお休みとは言え、カナタも感染ったら大変でしょ?」
「まぁ、嫌だね」
電話しといたから、と言う母にカナタは腰を上げた。泊まりの準備の為に部屋に入らなくてはいけない。使い捨てのマスクをしてから、弟と共同の部屋に入った。
空間除菌の匂いの中、タンスから着替えを取り出す。後は暇潰しになるものも…と考えながら二段ベッドの一段目で眠る弟を見た。
正直、寝ていて良かった。あの人の所に泊まりに行くと知ったら、きっと面倒な事になっていただろう。そんな事を思いながら荷造りを終わらせた。
◆◆◆◆◆
「お邪魔します」
勝手知ったるその家に入ると、形式上の挨拶だけをする。家の奥から真っ黒な服を着た女性がカナタを出迎えた。
黒い服が彼女の白い肌を際立たせる。揺れる長くて太い三つ編み。三つ編みを留めている黒い薔薇の髪飾りが見えた。
彼女は片方だけの翡翠の瞳を細めて「いらっしゃい」と言う。
「炭彦、インフルだって?珍しいね」
「まぁ、インフルは風邪じゃないし。あいつも罹る時は罹るよ。荷物置いてきて良い?」
「うん。二階のいつもの部屋ね」
泊まりに来るといつも決まった部屋に通される。慣れっこなカナタは迷いなくその部屋に向かう。存外急な階段をぎしぎしと音を立てて上り切り、廊下を進む。目当ての部屋のドアを開けると、畳の匂いがした。畳まれた布団一式が部屋の隅にあり、彼女が用意してくれていたのだとわかった。
カナタは荷物を下ろし、着替えを分ける。それだけして、部屋から出た。客間のすぐ隣はこの家の主、魘夢の部屋。勝手に入る事はあまりしないけど勝手に入って怒る人でもない。事後報告をしても「そっか」で済む。カナタは少しだけ手を彷徨わせてからその部屋のドアノブを掴んだ。
きぃ、とドアが音を立てた。隣の客間とあまり変わらない内装。違うのは彼女の服や私物をしまう箪笥や棚がある事。鏡台がある事。仏壇がある事。
セピア色に笑う人物の前で正座をし、マッチで蝋燭に火をつけた。その火を線香に移し、振る。さく、と線香を挿したらちーんと音を鳴らし、手を合わせた。
変わらぬ笑顔の高祖父は、当たり前だが何も言わない。カナタは蝋燭の火を手で仰いで消した。
「(炭彦は曾々おじいちゃん似、俺は魘夢さんじゃない方の曾々おばあちゃん似。魘夢さん似の人って、うちの一族いないよなぁ)」
線香のつんとしたあの匂いを身体に纏わせて、カナタは魘夢の部屋から出る。
階下に行くと、良い匂いがした。夕食の用意をしているのだろう。台所に近付くに連れて、匂いは強くなる。線香の匂いなど気にならない程に。
「夕飯、何?」
「魚の煮付け」
「後は?」
「昨日の残り物の煮物」
「煮てばっか。後は?」
「大根とお揚げの味噌汁」
「…ねぇ、今日はタラの芽ないの?」
「ほうれん草のお浸しを作ろうとしたけど、タラの芽が良い?」
「うん。さっき曾々おじいちゃんと話したから」
ぴたり、と料理をする手が止まった。カナタの方は見ていないが、きっと驚いているとは思う。
勝手に部屋に入った事に驚いているのではない。カナタが「曾々おじいちゃん」の話をしたことに驚いている。
「お前はおばあちゃん子だったろ。珍しいね、曾々おじいちゃんに会いに行くなんて」
「曾々おじいちゃんだからね。手伝う?」
お願い、と魘夢が言った。出来上がっている食事をカナタは運ぶ。大きくなってから、あまりこうして話す事はなかったな。
「別に好きでもないタラの芽をリクエストだなんて、可笑しな子だね」
「なら魘夢さんの血だね」
「よく言うよ」
美味しい、と言う言葉はなかった。きっと炭彦なら大袈裟に「美味しい!」と騒ぐ。カナタのこういうところは、カナヲに似たのだろう。本当に、自分の血は何処に行ったのか。カナタが言っていた通り少し変わったところは魘夢の血かもしれない。
残さず食べていると言う事は、不味くはないのだと思う。彼は祖母に素直になれなかった事を悔やんで、なるべく口に出すようにしているらしい。だが、魘夢には少々…。
「食べたらお風呂に入りな」
「片付けくらいやらないとお母さんに怒られる」
「そう。なら、お願い」
二人の会話は簡潔で短い。カナタはそもそも魘夢に対してそんなに話はしないし、魘夢も相手に合わせる。
淡々と、食事を済ませた。
「じゃあ、頼んだよ」
カナタの意思を尊重して、片付けを任せる事にした。うん、と言うカナタの返事を聞いてから浴室に向かう。
扉を閉めて、服を脱いで、眼帯を外す。鏡に映る自分を見つめて、漸く一息ついた。
「難しいなぁ、あの子は」
昔はカナタもお姉ちゃん、と呼んでくれていた。いつからか余所余所しくなり、親族が集まる時だってあまり魘夢と目を合わせない。まぁ、あの子も高校生だし、本来ならこんな風に親でもない人に世話されるのは嫌なのだろう。いつになったら、あの子は自分にも素直になってくれるのだろうか。
「カナヲはもうちょっと素直だったけどなぁ。男と女の違いかなぁ」
誰も答えない問を、一人呟く。
―やってしまった、とカナタは食器を洗いながら一人反省する。高祖母との距離の測り方がわからない。昔は大丈夫だった。美しい彼女が大好きだったし、自慢だった。だけど、自分が大きくなっても彼女は変わらない。確かに周りの大人は変わらない人も多いが、彼女は変わらな過ぎる。その頃から美し過ぎる彼女が苦手になった。弟はしょっちゅう遊びに行っているが、自分には到底。家の決まりで彼女の秘密を知って尚も、苦手意識は拭えない。
カナタが何も言わないから、魘夢も何も言わない。カナタが話すから、彼女も話してくれる。カナタが聞いたから、彼女は眼帯の秘密を教えてくれた。
八つ当たりにも近い自身の振る舞いで、彼女を傷付けていないか。
「(炭彦みたいに無邪気にお姉ちゃん!なんて呼べたら楽だけど、もう無理だよね…)」
これはチャンスだった。二人きりと言うのはなかなかないし、炭彦の邪魔も入らない。
べったり、とはいかないがせめて祖母と孫らしい距離感になりたい。
「…なら、」
きゅっ、と蛇口を閉めた。遠くでシャワーの音が聞こえる。
◆◆◆◆◆
おやすみなさい。
挨拶をして、二階に上がった。畳まれた布団の上に置いてあった枕を抱き、待つ。
ぎしぎし。階段を上がる音。ぎしぎし。廊下を歩く音。きぃ、ばたん。扉が開いて閉まる音。
カナタは枕を抱えたまま部屋から出た。向かうはすぐ隣。ノックをして声をかける。
「ねぇ、入っても良い?」
「え……。うん、良いよ」
カナタの来訪に驚いていたが、承諾をしてくれた。部屋に入るとネグリジェを着た魘夢が、ちょうど布団の真ん中に座っていた。身体の向きからして、高祖父と話をしていたのだろう。カナタが抱えた枕に魘夢は首を傾げる。
「どうしたの?何か足りなかった?」
「いや…そうじゃないんだけどさ…」
もごもごと言い淀む姿に、珍しいと魘夢は思った。はっきり物事を言う子なのに。
「…今日さ、一緒に寝ても良い?…曾々おばあちゃん」
「……へ?」
「ほら、俺っておばあちゃん子だから」
言い切ったカナタに、魘夢は片目をぱちくりさせた。彼の言葉を反芻して、じわじわ喜びが込み上げる。
だって、この子が、カナタが!おばあちゃんって、自分の事をおばあちゃんって呼んだ!あんなに余所余所しかったカナタが!
駄目だ、にやけそう。
「っ…良いよ。おいで、カナちゃん」
「…その呼び方だけは勘弁して欲しかった」
布団を捲り、魘夢が中に入る。眼帯はしたままなのかとぼんやり考えていたら、魘夢に呼ばれた。カナタは彼女が空けてくれたスペースに入り、枕を並べる。
「昔はよく一緒に寝てたねぇ」
「そうだっけ?覚えてないや」
「寒くない?ほら、もっとくっついて」
「うん」
線香と、なんだろ懐かしい匂いがする。
「(あぁ、おばあちゃんの匂いだ)」
きっと、小さい頃の祖母もこうやって彼女にくっついて眠ったのだろう。
ねんねんころり、こんころり。
この子守唄を聞いて、彼女の腕の中で。
重くなる瞼をそのままに、カナタは眠りについた。