悪い虫廊下の先にあるホールに見知った銀灰色の髪をした後ろ姿を見つけたヒューは、声をかけるべく足を早めた。しかし銀灰色の髪をしたその人物、キャットの隣にはホールの柱が死角になっていて視界に入らなかったが、見知らぬ男がいた。
ヒューは、一瞬にして不愉快な気持ちになる。
(なんだ、あいつ…)
ヒューとキャットは会議に参加するために王城へと来ていたところだ。銀砂糖子爵の補佐となっているキャットは普段は来る必要はないが、今回は要請があったため共に赴いていた。会議後、国王陛下に拝謁する予定のあったヒューは、キャットに待つよう伝えて部屋をあとにしたわけだ。
そして戻ってきたヒューは、キャットの隣の男が誰なのか思い出そうと頭を巡らせた。確かに先程の会議で、父である伯爵に付き従い同席していた、その子息だったはずだ。年若くまだ家督を継ぐような年齢ではない。ほんの社会勉強として参加したのだろう。
その子息は、キャットに肩が触れそうなほど傍に寄り、本を片手に何事か話し込んでいた。キャットは後ろ姿しか見えないが、子息の顔はよく見える。貴族らしく物腰が柔らかそうな青年だ。
キャットも黙っていれば品よく整った顔をしている。今日は正装を身にまとっているせいか、普段よりもすらりとして優美な印象だ。
今日の会議でも貴族たちは、ちらちらとキャットをまるで品定めでもするかのように横目で伺っていた。それがどういった種類の視線なのか、ヒューには嫌でも分かる。この子息も、そういう目で彼を見ているに違いない。
ーーだから王城には連れて来たくなかったのだ。
(それにしても大人しく話聞いてるな)
ヒューは、貴族嫌いのキャットが貴族と個人的に会話をしていることにも感心していた。
以前は感情の起伏が激しく、よく怒鳴ったり怒ったりしたものだが、近頃はぐっと落ち着いて、物静かにしていることも増えた。
エリオット・ペイジの言うところだと「ようやくキャットも大人になったんだねぇ」などと、いつもの軽い口調で話しているのを聞いたことがある。
そう、一般的にはごく普通の大人の態度だが、静かすぎるのだ。兄弟子としてはその成長を喜ぶべきだろうが、彼は長年の恋人でもある。
年々、彼が魅力的に映るようになるのは恋人の欲目ばかりではない。ヒューは実のところ、キャットを表舞台に立たせるのが嫌だ。それに今日のようなことは、今までにも幾度かあった。
ならば補佐にしなければいいのにと思うが、銀砂糖師でキャットほどの砂糖菓子の腕前を持つ職人も、こちらの意図を察する能力を持つ者も他にはないない。そしてなんと言い訳しても、ヒュー自身が側に置きたいのだから仕方がない。
かと言って、自身の我儘で近くに置いたばかりに、恋人に悪い虫が付くのを放っておくわけにもいかない。
苦々しい気持ちでいると、子息の腕がキャットの腰に回りそうになる。瞬間、ヒューの中でカッと何かが弾けた。
前に出て、キャットの薄い肩を自分の方へと引き寄せた。急なことにキャットは「うゎっ」と声を上げ、ヒューを振り返る。
「てめぇかよっ。びっくりさせんな」
目を瞠る青い瞳がヒューだけを映す。
「悪い。だが遅くなったから急いで戻って来てやったんだ、感謝しろよ」
「馬鹿かっ、するか。普通に声をかけろ」
いつもの応酬をしていると、おずおずと、しかし気不味そうに「では、私はこれで失礼しますね」と口にした。そこにはもう少し話したかったと読み取れる未練が残されていた。
「あ、おい……」
「本日の会議、お疲れ様でございます。お疲れのところ、わたくしの部下の話相手までしてくだったようで、感謝申し上げます。父君にも、どうぞよろしくお伝えくださいませ」
キャットが答える前に、言葉を遮るようにヒューは重ねる。そこに、にこりと、笑顔を向ける。牽制を込めたつもりだったが、上手く伝わったようで、子息は慌てたようにその場を去って行った。
そしてヒューはキャットの腕を引いてホールを抜け、広い廊下の奥へと進む。
「…おい!何だよさっきの!お前…変な態度だったぞ」
「いや、俺の態度は分かるのに、あんなにあからさまな態度は分からんのか?」
「…なんのことだ?」
ヒューは本当に分かっていないキャットの言葉に全身の力が抜ける思いがした。
キャットはまだ「おい」とか「こら」と言っていたが、ヒューは足を進め、廊下の突き当り、人気のない場所で手を離す。
「つまりな、もう少し警戒心を持てと言いたいんだ」
そして、そのままキャットを壁に押し付けて、奪うようにキスをした。いきなりのことにキャットな肩がビクリと震える。重ねるだけのキスにしたかったが、あの男が馴れ馴れしくキャットに触れようとした光景を思い出し、つい衝動的になってしまう。
キャットの唇を舌で突けば、ほとんど抵抗もなく開かれることに、わずかな喜びがわく。口内に侵入すると舌を絡ませて、吸い上げてを繰り返す。
「ん…ふっ、ぅん」
鼻に抜ける甘い声は、ヒューの脳を痺れさせる。キャットは縋るように背中を手を回して、必死にこちらに答えようとしてくれた。
「…ふぁっ…ンン」
しばらくキャットの口腔を弄び、ようやく唇を解放する頃には、キャットはもう自分では立っていられなくなっていた。ヒューに抱き着くようになりながら、小さく掠れた声で「誰かに見られたらどうすんだよ」と悪態をつく。
「見られても誤魔化すから大丈夫だ」
「くそが」
「態度はまぁまぁ一丁前になったが、口の悪さだけは一向に直らんな」
ついヒューは呆れてしまう。
そして立てなくなったキャットを、ひょいと抱き上げて廊下を進もうとする。キャットはぎょっとして声を荒げた。
「待て待て、そのまま行くのか」
「お前さんは立てないしな、部屋を借りる。しばらく休んでから帰った方がいいだろ?」
「うぅっ……というか誰のせいだ!」
「俺のせいだな」
どちらにせよ会議に出席した貴族らはまだ城内にいるだろうから、彼らに見えるように歩けばよしだ。本来なら上司と部下の関係だ。内密にしておくべきだが、分かるやつにだけそれとなく伝わればいい。
「いいか。体調不良ってことにしてやるから、きちんと顔は伏せておけよ?」
まだ顔が赤いままだからな、と告げればキャットは慌てて顔を伏せる。素直な反応が可愛らしくて、そして可笑しくて仕方がない。
「ところでお前さん、さっきの警戒心を持つというやつだが、きちんと守れるか?」
「だからそれ、どういう意味だ?」
「守ると言わんと、今すぐキスの先をするぞ」
「馬鹿やろう!今はダメに決まってるだろ!わかった守る。守るからやめろ!」
伏せた顔をぱっと上げたキャットの、先程までキスで潤んだ瞳はいつもの強気な色を取り戻していた。それがわずかばかり残念に思えた。
だが、ヒューの方は「なるほど、今じゃなければいいのか」と解釈し帰ってからが楽しみだなと、ほくそ笑むのだった。
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