ファイナルトーナメント、初戦後のとある光景。「すごいよ、すごかったよ。今日のネズくんはとんでもないよ、キバナくん!」
カブさんは晴れやかな笑顔でもってそう言った。輝く瞳、紅潮した頬、汗みずくの体。快活なエネルギーに満ち溢れたその姿は、とても初戦敗退した選手のものとは思われず、オレは思わずあんぐりと口を開けてしまった。
ファイナルトーナメントの初戦、ヤローとの試合を見事勝利したオレは心身ともに絶好調で、次の試合もぜったいに勝つぞと張り切っていた。意気込んでいたというよりは、二戦目もオレが勝つに違いないと確信していたと言う方が正しい。全ての試合に勝利した自分がダンデと戦うヴィジョンが、鮮明に思い描けるほどだった。
オレと同じブロックの第一試合、もう一組は、カブさんとネズだった。ふたりのうち勝ち上がった方とオレとで第二試合を行うことになる。
初戦後、シャワーを浴びたり着替えたり、ポケモンの回復をしてやったりと、二戦目の準備をしていたオレは、カブさんとネズの試合を見ることができなかった。だが、誰と当たっても勝てるよう、何通りも戦略を組み立ててきたので、別段焦りはしなかった。カブさんだろうがネズだろうが、オレさまの嵐で吹き飛ばしてやるだけだ。獰猛な強気がオレの中に満ちていた。何が起きようと動揺しない自信があった。
だが、第一試合で敗退したカブさんが、悔しがるどころかにこにこしながらオレに会いに来たものだから、さすがのオレも面食らってしまったのだ。
破顔するカブさんは見るからに興奮している。素晴らしい宝物を発見したとでもいうかのように、明るい歓喜を背負っていた。
「……カブさん、負けたのに、どうしてそんなふうに笑ってんの?」
失礼なことだとわかりつつも、オレはそう訊かずにはいられなかった。
カブさんは大ベテランのトレーナーだ。勝利も敗北も、いいことも悪いことも、オレとは比べようもないほどたくさん経験してきたひとだ。そんなカブさんが、いまさら初戦敗退ぐらいで落ち込むとは思っちゃいない。だとしても、負けたらちょっとは悔しがるものだ。少なくとも、心底から嬉しそうに笑ったりはしない。
だから、カブさんがどうしてこんなにも喜んでいるのかわからない。負けたのに、なぜ、どうして。
怪訝な顔をするオレに、カブさんは言う。
「だって、ネズくんとのバトル、すごく楽しかったんだ」
それは、充実感が強く感じられる声だった。
「これまでにもネズくんとバトルしたことは何度かあったけど、今日のネズくんは、これまでの比じゃないよ。まるで別人だ。驚かされたよ。ネズくんはこんなふうに戦えたのか、こうやってポケモンと力を合わせることができたのかと……ネズくんは、ほんとうにすごかった。彼がここまでの力を隠していたなんて、ほんとうにびっくりだ! いやあ、嬉しい誤算だったよ! バトルしている間じゅう、すごく楽しかった!」
カブさんは満面の笑みでそう語る。
「だから、負けたのは悔しいんだけど、それ以上に嬉しいんだよね。予想もしていなかった素晴らしいバトルができたから」
「素晴らしいバトルねえ……」
カブさんの言うことはわかる。トレーナーにとって、素晴らしい才能を持った相手と真剣勝負ができるのは、無上の喜びだ。オレだって、強いヤツとバトルできるのは嬉しい。
それでも首を傾げてしまうのは、カブさんがすごいと褒め称えているのがネズだったからだ。
「たしかにネズは強いけどよ。そこまでだったか……?」
思わずそう声に出してしまったのは、過去に経験したネズとのバトルが、どれもあまり印象に残るようなものではなかったからだ。ネズが弱いとか、ネズと戦っても楽しくなかったというわけではない。ネズは強かったし、面白いバトルだった。だが、オレの心をがっしりと掴むほどの魅力はなかった——ダンデよりも惹きつけるものを、ネズは持っていなかったのだ。
カブさんが嘘をついているとは思わないが、ネズがそれほどの魅力を持っているとも信じがたい。首を捻るオレに、カブさんは「バトルすればわかるよ」と言った。
「きみは次の試合、ネズくんと当たるだろう。その試合でわかるよ、ぼくの言うことが。今日のネズくんは、ほんとうにすごいんだってことが。そうしてバトルの後、結果がどうあれ思うんだ。こんなトレーナーとバトルできて光栄だ、これは自分の誇りになるって」
「そこまでえ?」
「そこまでだよ!」
半信半疑のまなざしを向けるオレに、カブさんはにこにこ笑うばかりだ。
「きっとネズくんは、いままで実力をきちんと発揮できていなかったと思うんだ。だって彼は、チャンピオンを目指せなかったからね」
「ああ……チャンピオンになると、色んな仕事でガラル中を回ることになるもんな。ひとところには留まれない。だから、大事な故郷であるスパイクタウンにいる時間を増やすためにも、ジムリーダーで在り続けることを選んだって? チャンピオンの座を狙うわけにもいかず、本気を出せなかったって?」
「そうだよ。もしネズくんがチャンピオンになったら、スパイクジムのジムリーダーがいなくなる。どうもネズくんは、後継者として相応しい人物を見つけられていなかったらしいね。資質の無い人間がジムリーダーになれば、ローズ委員長にいいように使われかねない。下手をすれば委員長が、自分に都合の良い人材をジムリーダーに据えかねない。そうなればスパイクタウンは守れない、一度は消えた移転の話が今度こそ現実になってしまうかも。そう考えて、信頼できる後継者が見つけられるまでは自分がジムリーダーでいようと思ったんだろう」
「そして、とうとう後継者が見つかった——というより、育ったか。マリィっていう後継者が」
ネズは妹であるマリィにジムリーダーを譲り、今季限りで引退するつもりらしい。そんな噂がまことしやかにささやかれていた。ネズ自身が明言したわけでもないが、否定だってしなかったのだから、その噂は事実なのだろう。
「マリィがジムリーダーになってくれるから、ネズがチャンピオンになっても問題ない。それで今回のネズは、マジでチャンピオンになろうとして、本気を出してきた?」
「そういうことだろうね。だからね、キバナくん——舐めてかかると、痛い目を見るよ」
カブさんは笑顔のまま、しかし声にはおそろしく凄みを利かせて言った。オレは思わず気圧される。
たじろぐオレを見て、カブさんはふっと表情を和らげる。
「ごめん、脅すつもりはないんだ。ただ、ネズくんがあれだけ本気なんだから、キバナくんもいつも以上に用心してほしいなと思って」
「はあ……」
「ネズくんとの試合を楽しんでくれ、キバナくん。きみの方がネズくんと歳が近いぶん、きっとぼくよりも興奮できる……というか、良い刺激を得られると思う。ぼくも、若者たちが楽しく試合をするのを見て燃えたいしね。どうか、素晴らしい試合を見せてくれ」
カブさんはオレの背中をばしんっと叩き、「頑張れ、キバナ!」と励ましてくれた。
カブさんの言葉をどこまで信じればいいのかわからなかったが、カブさんのエールを受けて気が引き締まったのは確かだ。オレは「おう、熱いバトルを見せてやるから期待しててくれ!」と答える。
カブさんは笑ったまま、オレの控室を後にした。
「今日のネズがどれだけすげえのか知らねえが、このキバナさまが華麗に勝利するしかねえよな!」
誰に聞かせるでもなく、自分を鼓舞するために言う。
脳裏には相変わらず、全ての試合で勝利を収めて、ダンデとバトルするビジョンが思い浮かんでいた。
このときのオレは、まだ知らない。
カブさんの言葉が全て真実だったということも、ネズとの試合でネズの真の強さを思い知らされることも、その試合がオレの心に強烈に残るものとなることも、それをきっかけにオレがネズにすっかり魅了されてしまうことも——何にも、知らなかったのだ。