梅雨に入る 拝啓、王都の匠先生、瞳さん、洸平くん、いのりさんに理凰さん、ついでに珠那くん、お元気でしょうか。
現在私は北の辺境伯様のお屋敷にて、至れり尽くせりの生活を送っております。理由は私にも分かりません。
伯爵邸のメイド達により、艶々に仕上げられた髪を一房摘み上げながら司は現実逃避をしていた。
断られる気満々でこの屋敷を訪れたのに、使用人から出入りの商人、果ては町の住民達からも諸手を挙げた身に余る歓待を受けている。
さっさと追い払われることを目論んで、わざと旅の身なりのまま伯爵邸に行った司だったが、あの傾国顔の男が独断で屋敷の中へと引き入れてしまったのだ。
その男の指示に全員が従うものだから、よほど伯爵に近しい人間なのだろう。右腕もしくは重用されている部下なのか。あんなにあっさりと招き入れられるとは微塵も思わなかった。
想定外の展開に全くついて行けず、呆気にとられているうちに全ての事が終わっていた。
持ってきた荷物は使用人達に引き取られ、纏っていた外套も外された。そのまま浴室へ案内され、丸裸にされかけたところで漸く正気に戻った。手伝おうとする彼女達をどうにか宥めて一人でお湯をいただいたところまではハッキリしている。
その後はとんでもない醜態を晒してしまった。
軍人としてあるまじき事だが、長旅の疲れと予期していなかった事態による混乱で、湯船に浸かったまま眠ってしまったのだ。
あまりにも長い時間浴室から出てこない司を心配したメイド達に発見され、大騒ぎを起こしたらしい。伝聞系なのはそのまま眠り続け、丸一日目を覚まさなかったからだ。
そんな最悪の初対面だったせいで病弱だと思われたのか、何をするにしても、優秀なメイド達が先んじて行ってしまっている。
おかげでお肌も髪も司史上類を見ないほど艶々に磨き抜かれていた。
(さすがにこれは駄目だろ)
誰かに身の回りの世話をやってもらうことなど、長じてからはほとんど無かったせいで最高に居心地が悪い。どんどん堕落していっているし、何か仕事をしていないと落ち着かない。
ここで司に天啓が降りた。
(結婚相手にふさわしくない振舞いをしたらいいんじゃないか!)
何故招かれたのか、どうしてこんな至れり尽くせりの状況になっているのかいくら考えても分からない。なので、潔く考えることを止めてしまおう。そして、王都の貴族令嬢とは反対の事を好めば良いはず。
歌や楽器、刺繍にダンス、過不足のない教養に美しい礼儀作法等々令嬢の嗜みは数多い。その中から手っ取り早く出来そうなものを頭の中の図書館から大急ぎで探していく。すると、自身の経験からこれしかない、という会心の妙案が浮かんできた。
(専門書読みまくればいいじゃん‼)
過ぎ去り士官学校の日々を思い出す。司よりずっと良い生まれの同期達から受けたやっかみの中で、それなりに大きい比重を占めていたのが、読書についてだ。仮にも貴族令嬢の端くれである司が、戦術書や哲学書、歴史書といった令嬢の教養としてはいささか過ぎたる本を読んでいるとき、聞こえよがしな嫌味や時には直接的な罵倒がとんできたものだ。
だが、そんな苦々しい経験も役に立つものである。そうと決まれば話は早い。窓からの景色を眺めるだけの日常にようやく変化が訪れた。急に靄が晴れたような清々しい気分になって、部屋の隅に控えていたメイドに声をかける。
「あの」
「はい、いかがされましたか」
「その、できればでいいんですが、こちらのお屋敷にある本か何かを読ませていただきたいんですが可能でしょうか」
「もちろんです。どういったものをお持ちいたしましょう」
「いえ、わざわざ持ってきていただくのは申し訳ないので、よければ図書室に案内していただいてもいいですか?」
「かしこまりました。ご案内させていただきます」
こうして司はこの家に来て以来、初めて部屋の外に出た。部屋から出ることを禁じられていた訳では無かったが、人様の屋敷を勝手に歩き回るのは気が咎めてしまったので、一か月間引きこもり生活を送っていたのだ。
図書室につくまでの道すがら屋敷の様々な部屋を案内され、日当たりがよくない北の一角に辿り着く。
「こちらです」
古紙とインクの匂いが鼻腔を満たす。美しく装丁された壁一面を覆う分厚い背表紙の数々、明り取りのために最低限設けられた窓から差し込む光を受けて繊細な箔押しが鈍く輝いている。
由緒正しい伯爵家に相応しい、実を伴った図書室だ。
「うわー!こ、これ全部読んでいいんですか!」
本の数に圧倒されて小声になって案内してくれたメイドに司は確認をとる。健康的な白さの肌にサッと朱が刷かれ、興奮した内心をそのまま表すかのように蜜色の瞳はきらきらと輝いていた。
「はい。どのような本もお読みいただけます」
「ありがとうございます!」
(うわあ~どれから読もう)
士官学校時代に通い詰めた図書館で何度も読んだ歴史書もある。ずっと前、匠先生に勧めてもらった書名の数々も取り揃えられていてどれから読むべきか目移りしてしまう。
迷った末、手に取ったのは北の帝国と干戈を交えていた当時の事を記した戦術書と歴史書、両方の側面をもつ分厚い本だった。表紙を開くと格調高さを強調するためか、大陸共通の古典語で書かれている。
背表紙を傷めないようにそっと本棚から取り出したその本を大事そうに抱え、いそいそと扉にほど近い椅子に腰かけて表紙を開くと、司は瞬く間に文字の海へ溺れていった。
「旦那様、いい加減奥様とお話ください」
早急に婚儀のために必要な書類や仕事を捌く当主に、責めるように物言いたげな目を向けるメイド長はここ最近主に苛立ちを募らせていた。
「どんな心変わりがあって奥様を招き入れたのかは分かりませんが、大変結構なことです。ですが、今の今まで全くお会いにならないとはどういうことですか。もう一月も経っているんですよ」
「まったくですなぁ。これからの人生を共にするのですから、まずお互いを知る所から始められませ。奥様付きのメイド達も心配しておりますぞ」
夫婦揃ってチクチクと夜鷹の痛いところを責めてくる。ここで下手に反論しようものなら百倍の小言と万倍耳に痛い諫言になって返って来ることを知っているため、仕事に集中しているフリをして聞き流そうとする。
当然、この場にいる三人ともそんなことは承知の上だったが、それでも伯爵家の未来がかかっているので構わずに続けた。
「王都から遥々このような辺境、しかも生家と縁もゆかりもない北の地にたった一人で来られたのです。それを会いにも行かず放置とは。なんと非道な仕打ちをなさっておいでですか。嫌われても知りませんぞ」
なにかが引っ掛かったのか、ピタリと手を止めてから上げられた顔は若干青ざめていた。
「嫌われるの?」
夜鷹の幼少のみぎりより見知っていた三人でも初めて見た反応で、少々驚いていたがそれどころではない。
「当然でございます。そもそも王からの命令でこちらに嫁がされたのです。一軍人としての華々しい功績も捨てさせられて、慣れ親しんだものなど何もない地にいらっしゃいました。なのに当の旦那様は一向に会いに来ないとは。奥様の胸中、如何ばかりでしょうか」
ただでさえ白い顔からどんどん血の気が引いていく様はなかなかお目にかかれないもので、いっそ小気味いいくらいだった。ここで、おや、と揃って視線を交わす三人を尻目に夜鷹はふらふらと覚束ない足取りで部屋を出ていってしまった。
三人のうち二人にはそれがあまりにも既視感のある様子だったせいで、ただでさえ痛んでいた頭と胃がより痛くなる。
「よりにもよって似なくてもよいところが先代に似てしまうとは」
「これは長期戦ですね」
「どういうことだ」
執事とメイド長は代々夜鷹家に仕える家系の出で、先代、なんなら先々代の頃から奉公に上がり、先代とは兄弟のように過ごしてきた。だからあの動きはよく知っていたし、もう二度と見たくはないとも思っていた。
「先代が奥様に懸想されていた時とまるっきり同じです」
「お二人が最初から許嫁で本当に良かった」
頷き合っている姉弟を横目に、当時のことを知らない部下は扉の向こうに消えた主を思い、何とも言えない気持ちがこみあげてきた。
「あの偏屈頑固で人にも一切興味がなかった坊ちゃんが誰かに惚れるとは。長生きはするもんだな」
「感慨に浸っているところ申し訳ないが、これから大変ですよ」
新たな大問題の発生に眉間を揉む執事は当時を振り返り、主の現状と照らし合わせる。
「先代と同じくらいの口下手さに、いくら言っても直らなかった言葉選び、悪癖の数々、挙げだしたらキリがない」
「素直なところは救いと言えますが、言葉選びに大いに難ありな原因でもあるので難しいですね」
「ほう」
「これから大変ですよ。あなたも覚悟してください」
この優秀な二人をしてそこまで言わしめるとは、どれだけ大変だったのか。本人に聞いてみたくもあったが既に土の下にいるせいで何も分からない。
「まぁ、そこまで気負わずともいいだろうさ。どんと構えていよう」
楽観的に構えているが、三人の中で最も客観的な視点を持ったこの男こそ、主の恋路に一番巻き込まれることになるのをこの場の誰も知らなかった。
執務室で部下三人から散々な評価を下されていた主はそんなことも露知らず、重い足取りで司に割り当てた客室へと向かっていた。準備期間があまりにも短かったせいで、伯爵夫人の部屋が未だに改修されておらず、先代が設えたままとなっているため、仕方なくとった、応急措置である。
(司の好みに合わせられるならそれでもいいか)