紅い唇「身体の部位で一番どこが怖いと思う」
「それは手だとか脚だとか、そういうことですか?」
鯉登さんが唐突なことを言い出すのは珍しくない。やれ何々が食べたい、やれどこどこへ行きたいなど。だから今回も質問の意図を深く考えることもなく、何かホラー映画にでも触発されたのだろうと予想した。
「そうだ」
「そうなると……月並みかも知れませんが、目ですかね」
「目か」
目。目は口ほどに物を言うというが、全くその通りだと思う。どれだけ表情を作ろうとも目の中の感情を消すことはできない。前世の記憶を持つという特異な境遇であるから、余計にそう感じる。どんな人間でも目、瞳の奥を覗けば何かしらが見えた。
「確かに、何かに見られている時なんかは怖いな。そこの隙間から何か覗いているとか」
「隙間男ってやつですね」
「隙間女じゃないか?」
気配を感じて家具の隙間を見ると何かがこちらを見ていた。よくある都市伝説、怖い話のシチュエーションだ。はじめに考えた人間は隙間にいる何かを見たのだろうか。
「男でも女でも、そうでなくても隙間から見られてたら怖いですよ」
「それもそうだ」
何となく、部屋の中の隙間に目をやる。薄暗い隙間がいつものように存在しているだけで幸い何もいなかった。鯉登さんもそうだったようで、話は隙間の住人から他へ移る。
「目も怖いがな、私は口が怖いと思う」
「口」
鯉登さんの口がそう、と動く。
「ホラーだともっぱら目やら手やら、そういう部分で怖がらせてきますが……口単体はあまり見たことないですね」
「そうだろう。想像してみろ。夜、寝ている時に前触れもなくふと目が覚めるんだ」
鯉登さんは少しだけ声を潜めて続ける。
「部屋の中は暗く、ほぼ何も見えない。せいぜい窓際からうっすら外の光が入ってくる程度だろう」
俺は寝室を思い浮かべる。確かに夜中に目が覚めるとそんな光景が目に入るだろう。
「もう一度眠ろうと思い寝返りを打つ。隣にはお前が寝ている。ぐっすり寝てるようだ。私は何となくもう一度仰向けになってみる。普段仰向けで寝ることが多いからな」
鯉登さんは仰向けで寝つく多い。しかし、時間が経つと不思議と俺の方を向きながら横向きになっている。ゆうべの可愛い寝顔を思い出した。
「するとな、上を向いた視線の先に何か見えるんだ。何だと思う」
「それは……」
口、だと言いたいんですか?
鯉登さんは俺の言いたいことを目で感じ取ったようだった。
「そう、目と鼻の先に口が浮かんでたんだ。天井が見えないほど暗いんだ。闇の中に真っ赤な唇がな、浮かんでる」
真夜中の寝室、ふたりで並んだベッドの上。闇の中に紅い唇が浮かんでいる様が、何故かありありと想像できた。
「おそらくルージュだか何だか、とりあえず化粧品で紅くしていると思う。その唇がゆっくり開いて歯が見える。真っ暗な中でどうして見えるのか私にも分からない」
目と鼻の先に浮かぶ唇が肉を切り裂くように開く。生暖かく湿った吐息が顔にかかる。真っ白な歯が闇の中で煌めく。
「すると、上の歯と下の歯の間から舌が伸びてくる。ずるっと蛇が這い出てきたのかと思った。唾液が垂れそうなほど濡れていて、ゆっくりゆっくり私に近づいてくる」
俺は想像の中で捕食されるおぞましさを味わう。怖くはない。ただ、生理的な嫌悪がある。
「もう少しで食べられてしまう、というところで私は気を失う」
「結果、食べられてはいないですよね」
「おそらくな」
鯉登さんは深くため息をつく。
「ただ、内臓やら見えない部分になると分からんな。こっそり食われていても気づけない」
「いえきっと食べられていませんよ」
「どうして分かるんだ?」
「俺が隣にいるのに、貴方を食べるなんてことはしないでしょう。命が惜しくなければね」