うまれる 夏休み、音之進くんは県外に住む親戚の家へ遊びに行きました。両親が出張、お兄さんが部活動の合宿で数日留守にするためです。たまに来る場所ではありましたが、お泊まりは初めてです。少し心細い気持ちもありましたが、豊かな自然に囲まれた土地にすぐ気を取り直しました。
絵日記以外の宿題を早々に片付けた音之進くんは、毎日色々な場所で遊びました。少し行ったところにある浜辺。家の前を流れる浅い川。危ないので水の中には入らず、砂遊びをしたり魚を眺めていました。これは両親やお兄さんとの約束です。少し我儘なところもある音之進くんですが、大好きな家族からの大切な約束は固く守っています。あぶないところに、ひとりでいってはいけない。脳裏に焼きついていました。
その日は蝉取りのため、朝からあちこち走り回っていました。けれど普段うるさいくらい鳴いている蝉の声が聞こえません。近所にある大きな木には何匹も蝉がとまっていたはずです。しかし今日は一匹も見当たりません。夏の盛りにそんなことがあるのでしょうか。不思議に思いながらも、頭がうだるような暑さのため深くは考えませんでした。音之進くんは麦わら帽子を被り直し、水筒の麦茶で喉を潤しました。雲ひとつない青空を見上げ、視線を下ろすと遠くに蜃気楼が見えます。
そういえば、家から少し行った場所に小さな山があったと音之進くんは思い出しました。小学生の彼から見てもとても小さな山で、ともすれば木の生えた丘にも見えます。あそこに蝉はいないだろうか。山に行くなと言われた記憶もあります。しかし、あの山だっただろうか。あんなに小さな山なのだから自分だけで行ってもいいのではないだろうか。自問自答は一瞬のうちで、音之進くんは目的の場所へ歩き出します。家族の言うことをよく聞く彼らしくない行動でした。
予想通り山は小さく、まっすぐ登れば数分で頂上に着きそうなほどでした。その代わりに木が沢山生えていて鬱蒼としています。音之進くんは薄暗い森を進み始めました。相変わらず蝉の声はなく、自分の息遣いと地面を踏み締める音だけが聞こえます。
はぁ、はぁ。ざく、ざく。ぱき。はぁ。がさ、がさ。じじ、じりり。
あ。それは蝉の声に聞こえました。暑い。頭も身体もくらくらしています。細い糸が身体に絡みつき、ゆるく引っ張られているような感覚でした。不思議な感覚に誘われ、彼は歩みを進めて行きます。
木々の間を抜けていくと、大木が姿をあらわしました。翳った森の中とはいえその木は影のように真っ黒く、音之進くんを威圧するように聳え立っています。何より彼の目をひいたのは、木の幹に下がるそれでした。
翡翠のような薄く綺麗なみどり色。それは焦げた色の殻からゆっくりと外に出てきます。木漏れ日に照らされたみどり色の身体。蝉の羽化だ。音之進くんは図鑑で見たことを思い出しました。しかし生まれてくるそれの形は、人間です。人間の羽化。このように生まれる人間がいるのだろうか。聞いたことも見たこともない光景に彼は釘付けになります。すると、みどり色のそれが彼を見ました。髪を剃ったおとなの男です。この男を知っているような、知らないような。男が口を開きます。
「どうして、いつも見つけてしまうのですか」
何十、何百とも思える蝉の声が一斉に上がりました。