花にうもるる仕事が大事なことなんて百も承知だ。大事じゃない仕事なんてない。国の中枢に噛んでいる自分の仕事は責任が国に及んでしまうこともあるから適当になんてできないし、たとえそうでなくとも、自分がやりたくてやっている仕事を適当に扱いたくなんかない。
(そう、やりたくてやっている仕事だ)
仕事そのものに文句はない。過分な仕事量は信頼の現れでもある。“渡部ならなんとかできる”と思ってもらえるのは嬉しいし、ひと肌でもふた肌でも脱ぎたくもなってしまうというものだ。ただ……
(一歩進んで二歩下がる……いや下がってはないけど。なにこれ、ひとつ片付けるとふたつに分裂する仕様にでもなってるの……?)
ひとつ捌けたと思ったらその倍、ふたつ捌けたと思ったらそれ以上に。終わらない無限ループに突入してはや二週間。タスク同士が絡み合っているせいで、ひとつ進むごとに関連して他のものも動くからこんな状態になっている。そう、理屈としてはわかっている。いるけれど。
大事じゃない仕事はない。しかしそれと同じくらい、いや、気持ち的にはそれ以上に大事な予定というものも存在するわけで。
一件、プライベートのメッセージを送った私用の携帯を伏せ、浅く息をつく。
なによりも明日の自分のために、今は休んではいられない。そう思うのに、どうしようもなく目が霞んで仕方なかった。どれだけ執務室にトレーニング器具を持ち込み体力を落とさないように気を配ろうとも、寄る年波には勝てないと思い知るのはこういう瞬間だ。年々無理がきかなくなっていく。こころは逸るのに、それに身体が追いつききれない。
目頭を軽く揉み、引き出しに仕舞っている目薬を取り出そうと手を伸ばしたところで、さきほど伏せたばかりの携帯が短く振動した。
もしかして、と思う。伏せたままの携帯をわずかに起こし画面を覗き込むと、ポップアップには、メッセージを送ったばかりの相手の名前が表示されていた。
『泉玲 お疲れ様です。お知らせいただきありがとうございます。…』
メッセージがまだ続いていることを示す三点リーダに目を細める。気遣い屋の彼女のことだ。きっと無理はしないでという旨の言葉が続いているのだろう。
あの子のためというよりは、自分のために今は無理をしたい。けれど、そう伝えたところで余計な心配をかけるだけだ。無難にお礼だけ返そうと携帯を持ち上げると、もう一件追加で通知が届いた。
『泉玲が写真を送信しました』
写真?
なんだかカラフルな写真は霞む視界ではよくわからない。なんだろう、と画面をタップした瞬間視界に飛び込んできたのは。
(あ、)
彼女が送ってきた写真、正確にはその写真にうつっているものを、俺は知っている。
ガラスの箱に詰め込まれた色とりどりのプリザーブドフラワー。去年、彼女の誕生日を祝う一連の企画のなかで、彼女に贈りたい花をひとり一輪ずつ、ひとつの箱に詰めて贈った、そのフラワーボックスの写真だった。瞬時にピンときたのは実物を見たことがあるからでもあるが、なにより。
『宮瀬くん、玲ちゃんにあげるフラワーボックスの件だけど、アネモネはもう誰かに選ばれちゃった?』
『いえ、今決まっているのはヒマワリとカサブランカ、サクラソウ、エーデルワイスだけですので。アネモネ、可憐でいいですね。お色や品種にご希望はありますか?』
『品種は詳しくないから、他の花との兼ね合いを見て収まりがいいもの選んでもらえたら。色は、そうだね……紫にしようかな』
送られてきた写真は、フラワーボックスを全体的にうつしたものではなかった。フォーカスが寄せられているのは、俺が選んだ紫のアネモネ。
『お疲れ様です。お知らせいただきありがとうございます。決してご無理はしてほしくありませんが、渡部さんのお仕事が無事に落ち着くことを願っています』
添えられていたのは、なんてことないメッセージだ。なんてことはない、彼女の気遣いとやさしさが織り込まれた言葉たち。これまでにも何度か、こういうやさしさを分けてもらったことがある。
だけど、これはそれだけじゃない。
俺にはわかった。玲ちゃんがこの控えめなメッセージに込めた信頼と祈りが。
「あ〜……」
真面目な玲ちゃんだから、きっと相手が花を選んだ理由を汲むために、花言葉を調べるだろうなとは思っていた。だから直球すぎるものは避けて、あえて変化球を投げたのだけれど。
まさかこうやって直球で返ってくるなんて。
は、と漏れた吐息にこもった熱に、泣きたいような、笑い出したいようなきもちになった。うっかり視界が滲んで、でもそこはさすがに堪える。深夜に職場でひとり涙を流すおじさんの絵面はさすがにいただけない。
「、ははっ……」
(……こんなの、頑張るしかないじゃん)
携帯の画面を額に押し当てる。眼裏の暗闇に「私って、運がいいな!」と力強く言い放った、あの子の泣きそうな笑顔がはじけて消えた。
あのパーティーは彼女の人徳が生んだ人の想いの奔流であり、決して神様の気分次第で変わるような“運”なんかじゃなかった。だけど、あの状況を“運がいい”と言える彼女の謙虚さと健やかさが、彼女の言う“運”を引き寄せたのだと思う。
方々に活躍する忙しすぎる二十七人が一堂に会する機会は、何度計画を立てたってそうそう実現するものじゃない。あとは自分だけ、ということもこれまでに幾度かあった。でも明日は、明日だけは。
(頑張ろう)
間に合わせよう。開始時刻には難しいかもしれないけれど、でも、間に合わせることを諦めないでいよう。
そして会いにいこう。彼女に、みんなに。玲ちゃんには負けるけれど、俺だって決して運は悪くないのだ。
念願だった仕事につけたこと。その仕事を折れずに続けられていること。忘れられなかったひとに再び巡り合えたこと。そのひとにこうして今、俺なら大丈夫と信じてもらえること。
目を開ける。一度潤んだおかげで、目の霞みもずいぶんマシになった。これならできる。やれる。
明日彼女に会えたら、めいっぱいの笑顔で運が良かったよって笑おう。どれだけくたびれ果てた姿でも、彼女もきっと笑ってくれるはずだ。