いつか美しくなる未来にゴォオ、と巨大な動物の唸り声のような音を上げて、古いエアコンから吐き出された温風が首もとを撫でる。さりさりと風に揺られる毛先がくすぐったくて、その感触を知覚したと同時に、意識がひと息に浅瀬まで引き上げられた。次いで耳が拾ったのは、誰かのデカいいびき。それから、うすい仕切り越しの喧騒、肉の焼ける音。香ばしい匂いと、煙たさ。壁に寄り掛かった身体はそのままに薄目を開ける。が、目の前がぐるりと回ったような不快感に、開けた目はすぐに閉じる羽目になった。
(いッ……た)
磨かれたテーブルに反射した光に目を貫かれたかと思った。眉間とこめかみが軋むように痛む。
いったい何がどうして今こうなっているのか。記憶を遡ろうとしても、熱に浮かされたように頭がぐらぐらするばかりでまったく要領を得ない。少なくとも視覚以外から拾える情報としては、ここは平和な焼肉屋であり、なにか危機的な状況であるわけではなさそうだということくらいだが。
「もう食べないでしょ? 一本いい?」
「ああ」
テーブルの上をなにか軽い金属のものが滑るような音とともに、向かいからライターの着火音が聞こえた。ほどなくして吐き出された煙のあまい匂いに確信を持つ。俺の正面と、右隣に座っているのは――
(未守さんと、正義さん)
そしておそらく、デカいいびきの主は寛二さんだ。
ともに卓を囲っている人間たちを把握した瞬間、これまでの経緯が断片的に蘇ってきた。
『今日は好きなだけ食べていいわよ』と得意げに笑ってメニューを渡してきた上長の快活な声。
『主役にはいいもん食わせないとな』と次から次に皿に肉を放り込んでくる相棒のしたり顔。
『ほら、もう一杯。まだいけるだろ』と何度も俺の杯を満たした先輩の赤ら顔、無骨な手指。
口々におめでとうと告げられ、頭を撫でくりまわされたことも。ビールより日本酒の方がいいですと言ったら寛二さんは顔をしかめて、逆に正義さんは嬉しそうにしたことも。焼き加減を間違えた肉を遠慮なく上長の皿に放り込む正義さんの足を、未守さんが思いっきり蹴飛ばしたことも。
そんなおとなたちを見ながら、俺自身よりよっぽどこの人たちの方がはしゃいでるなと思ったことも、俺のことで俺以上に喜んでくれる姿が気恥ずかしくて、でも無性に嬉しかったことも。
(ああ、そうだ)
今日は――この会は。俺の、服部耀の、二十歳の誕生日会なのだった。
「ねえ。前に、私たちのなかで一番早く結婚しそうなのは耀よねって話をしたじゃない」
しばらく静かにタバコを吹かしていた未守さんが口火を切った瞬間、ドッと他所の席がにわかに盛り上がった。騒がしいその音にかき消されそうな静けさのなか、正義さんが小さく笑う気配がする。俺は聞いたことのない話だったが、正義さんには心当たりがあったらしい。
「早くもなにも、俺たちのなかで結婚しそうなのが耀しかいないって話だろ」
「あら、よく覚えてるわね」
視線には音も匂いもない。けれど今、見えなくともたしかに、二対のまなざしが同じ温度で自分に注がれているとわかった。俺の意識が限りなく表層に近いところにあることにこの人たちが気づいていないとは思えなかったが、べつに聞かれても構わない話なのか、ボリュームを絞られた会話はぽつぽつと続く。
「ホントになっちゃったなと思って」
(……?)
かろかろとグラスのなかで溶けた氷がぶつかる音がする。意味がうまくのみ込めないまま、俺は何度か未守さんの言葉を頭の中でなぞった。
一番早く結婚しそうなのは耀。ほんとうに、なる。
「なんだ、結婚願望でもあったのか?」
「無いわよ、茶化さないで。……でも、耀は〝かろうじて〟そうかなと思ってただけだったから。いざ本当にそうなるとびっくりするって、ただそれだけ」
つまり、俄かには信じがたい話だが、今の会話の流れでは『ホントになった』のは『服部耀の結婚』ということになる。
結婚。
(……俺が?)
「お前や寛二は耀を見てきた時間が長かったからな。より感慨深いものがあるだろ」
「まあね。これだけ長い付き合いになると、息子の結婚ってこんな気持ちかしらって思うわよ」
いますぐ目を開けて、どういうことですかと訊きたかった。俺はまだ二十歳で、警察官になって一年ぽっちの若輩者で、菅野班に所属されて僅か一年くらいのはずで――
(本当に?)
乱れた思考は、唐突に頭に乗せられたぬくもりにぴたりと止まった。親が子どもにするような、やわらかく、慈しむような手つきで、二度、三度とあたたかい手のひらがすべる。
「起きるぞ」
「……」
「未守」
「……ごめんね、耀」
立て続けに起こる予想外の出来事に、この人も謝ることがあるんだなと、つい的外れなことを思う。未守さんは自分が正しいと信じていることしかしない。だからたとえ誰かが彼女の行動で不利益を被ったとしても、それはあなたの事情でしかないと言い切ってしまえるような人なのに。
謝罪される理由がわからなかった。目も口も開きたいのに自分の意志ではぴくりとも動かない。
まるで自分の身体ではないみたいだ。続きを聞きたいのに、勝手に意識が闇に溶け出して、五感が遠のいていく。
最後に残ったのは、未守さんが愛飲していたピースのあまい匂いと、それから。
「耀、……になってね」
は、と開いた目に映ったのは焼肉屋の内装ではなく、車のフロントガラスだった。酔いが醒めてきたのか、頭痛はもう感じない。法定速度を守って走る車の外は、警視庁にもほど近い、官公庁が立ち並ぶ通りだった。歩道にひと気はないが、建物にはまばらに明かりが灯っている。車載の時計は午前零時を回ったところだった。
「起きたか」
バックミラー越しに運転席の人間と目が合う。含み笑いとともに声をかけてきたのは、やはりというべきか正義さんだった。車内には俺たちふたりだけしかいない。解散の際、声をかけても起きなかったのだろうか。無礼講の席だったとはいえ、本来は自分が運転するべきところを先輩にさせるなど……というところまで考えて、はたと思い至る。
さっきの席では、正義さんも一緒に飲んでいたはずではなかったか。
だが、彼からはおろか、なんなら潰れるだけ深酒をしたはずの自分からも酒の匂いがしない。鼻がバカになっている可能性も否定はできないが、そもそも自分も飲む日にこの人は車を動かしたりしない。ということは。
(……夢?)
「耀? 気分でも悪いのか」
「ああ、いえ……ちょっと一瞬、どこまでが夢なのか分からなくなってしまって」
正義さんの片眉が愉快そうに跳ね上がる。
「へえ、夢見てたのか。どんな夢?」
どんな夢かと言われても。なんと答えたものか悩んで、喉の奥で小さく唸る。現実との齟齬が生まれなければ夢だと気づかなかったくらいには、現実に近い夢だったとしか言いようがない。あのふたりの会話を除けば。
「……前に、焼肉屋で俺の成人祝いをしてくれたことがあったでしょう。たぶん、あの日の夢だったんですけど……」
「たぶん?」
俺の歯切れの悪さに、正義さんが首を傾げる。説明しようにも、俺だってよくわからないのだ。
未守さんの、あのいかにも俺が結婚したかのような口ぶりも、謎の謝罪も。そもそもが夢の中の出来事だから、どれだけ考えたところで説明がつかないものなのかもしれないが――
「もしかして、聞いてたのか?」
「……? なにをです」
ふと差し込まれた目的語のない問いに、俺は改めて隣席の顔を見上げ、そして自分の目を疑った。
運転席に座っているのは間違いなく正義さんだ。ただ、見慣れた顔より目尻の笑い皺が目立つその横顔は、俺のよく知る三十歳の伊田正義の顔ではなかった。もっと、それこそ今の自分以上に歳を重ねた――
今の?
等間隔に置かれた街灯の光が舐めるように車内を照らしては通り過ぎていく。
「その夢のなかで、お前は未守に結婚を祝福されてた、違うか?」
一瞬だけ、弧を描いた月と同じ色の瞳が俺を見る。思わず自分の両手を目の前にかざした。街灯の青白い光が照らしたのは、乾き、節くれ立って、血管の浮き始めた手だった。およそ二十の青年の手ではない。
今は。
『耀。……お前が、俺の希望だ』
『――元気でな』
鋭い銃声。安全柵の向こうで消えていく身体。走馬灯のようにあの日見た光景が蘇る。
(ああ、……)
ひとりでに呼吸が浅くなるのがわかった。あの日、丁寧に俺の中の〝伊田正義〟を殺していってからというもの、すっかりご無沙汰だったから油断していた。
「これも、夢なんですね」
「……そうだ。あれも、これも、全部。お前の夢だよ」
夜の街を走っていた車はいつの間にか停車していた。車が横付けされたのは、俺が恋人ともに住んでいるマンションだった。夢だから、この人は俺の帰る場所を知っているし、夢だから、きっと今この人にアルコールチェッカーを向けても反応しないのだろう。法は、夢にまでは適用できない。
横からぬっと伸びてきた手が、わしわしと頭を撫でる。未守さんとのそれとは比べ物にならないくらい乱暴な手つきに、それでも胸が詰まって俯く。夢だとわかっているのに、髪がかき混ぜられる感触も、手のひらの熱も、なにもかもちゃんと伝わってくるのが、どうしようもなく残酷だった。
「……お前には迷惑をかけ通しだったが、いい歳の取り方をしてるようで安心した」
「は……?」
乾燥した指先がとんとんと目尻をつつく。
「ここ、笑い皺。いい嫁さんをもらって何よりだ」
助手席のロックが外される。けれど、正義さんは降りろとは言わなかった。この人はもう、わざわざ言わずとも、俺が自分の意志でこの車を降りられると、自分のための人生を選んでいけると、わかっているのだと思った。
俺が今いるべき場所は、正義さんの側じゃない。
そうわかっていても、ドアにかけた手は僅かに震えた。
(ここで降りたら、この人はもう二度と夢にすら現れてくれない気がする)
だが、それでいい。それが正しい。きっとこの人自身が、なによりそれを望んでいる。
夢はいつか覚めるのだ。朝が必ずやってくるように。
「明日は出席できないが、改めておめでとう。どうか幸せに」
車のドアを閉める間際かけられた言葉に、ひとり合点する。
そうか。未守さんの『ごめんね』は――
♢
「……さん、……きゃくさん、……耀!」
落ちるような感覚とともに目を瞠ると、まず自分自身と目が合った。巨大な鏡に映る四十を目前にした男の顔をひとしきり眺める。寝起きの瞳は眠たさを引きずっていて、言われてみればたしかに目尻にうっすら皺が見えるような気がする。自分の顔からすこし上に視線をずらすと、呆れ面の老年の男と目が合った。
「…………俺、どれくらい寝てた?」
「さあな。十五分くらいじゃねぇか? お前さん、寝てても頭ピクリとも動かしやがらねえから判断つかねぇんだよ……」
いやこっちとしては助かるがな、とぼやいている男は、この理容室のオーナー兼かつて正義さんのエスだった男だ。初めてこの理容室に連れられていったのがまさに成人直前のころだった、と思い返していたのが、夢の冒頭を作ったらしい。
今日髪を整えるに至ったのは恋人の発言が主だが、それがなくとも自発的に時間を作ってここに来ていただろうと思う。人生の節目くらいきちんとしなさいという元上司の声が、未だ鮮明に思い出せるくらいには、口酸っぱく言われていたので。
「ホラ。こんなもんでいいか」
頭の後ろで二面鏡が開かれる。量ばかり多くてもさもさとうねっていた髪の毛は、すっきりすかれて落ち着いていた。
一度髪を伸ばして初めてわかったことだが、髪は短い方が扱いが面倒臭い。ある程度長さがあれば、髪のうねりも落ち着くし、暑いときは結べばいいし、寝癖もそう付かない。
それでも髪を短いまま保つのは、最初はあの人に要らぬ心配をさせないためだったが、今は……。
後ろ髪を軽く撫でてみる。すいただけでなく、後ろもすこし短くなったらしい。半端に長いよりこの方があちらの親族のウケはいいだろうと思えたので、仕上がりには満足だった。恋人は俺がどんな髪型にしたとしても似合ってますと受け入れてくれるだろうが、親族はそうもいくまい。大事な一人娘をもらうのだ。きみの家族にすこしでも気に入られる自分でいたいと思ったと言ったら、あの子は笑うだろうか。
夢のなかの自分も似たような髪型をしていたのだろうなと思うと、なんともいえずおかしかった。今はいつも着ているワイシャツ一枚だが、明日の式ではきっと、あのときと同じような格好になるのだろうと思うとよけいに。
「ありがと」
「金はいらねぇよ。お前にはなんだかんだ長いこと世話になってるからな。お祝いだ」
「いや、お代は受け取ってほしいけど。そのかわり、ちょっとだけ世間話に付き合ってくれない?」
「……なんだよ」
面倒臭そうに顔をしかめた男に、べつに仕事の話じゃないよと添えて、改めて口を開いた。
「さっき、昔の――正義さんたちの夢見てたよ」
男が静かに息をのむ。俺が男に正義さんの話をするのは、さいごに正義さんに会ったあの日の数日後、髪を切りにきて以降はじめてのことだったから、無理もない。この男は俺が正義さんの後をヒヨコよろしくくっついて歩いていた頃を知っているのだ。俺にとって伊田正義という人間は、ただの思い出として昇華するには大きすぎることも。
「俺の結婚を祝ってくれる夢だった。ひとりは刑務所、ひとりは生死不明だから招待すら出せなかったっていうのにね」
口に出してみると尚更、なんて滑稽な夢だったのだろうと思う。もしかしたら結婚の話そのものは風の噂で知っているかもしれないが、以前ならまだしも、今こうして決別している以上、彼らが祝いにくるはずがない。だからこそ自分が一瞬でも信じられるように、夢を見られるように、成人祝いの日の光景とダブらせていたのが、実に巧妙で悪趣味な夢だった。
「結婚の夢ってさ、願望夢っていうから。所詮ぜんぶ、俺が作り出した願望なんだよね」
かつての班員が揃う飲み会も。彼らから貰う祝いの言葉も。
いわゆる青春っぽいこととは無縁の十代を過ごしてきた。菅野班は、そんな俺が十代最後に出会った人生の春だった。一度過ぎてしまえば永遠に戻らない、ただ美しくなるばかりの春。
あの人たちと過ごした時間は、なにも楽しいことばかりではなかった。凄惨な事件をいくつも見たし、何度も庁舎で夜を明かした。無力を噛み締めることも多かった。けれど。
夢のなかじゃない、遠い遠い本当の成人祝いの日のことを思い出す。あの日代わる代わる頭を撫くりまわされた感触を、丁寧に。
(俺は、あの人たちに愛されていた)
そして俺も、愛の続きを願って夢を見るくらい、あの人たちを愛していたのだ。
「いつまでも未練たらしく夢なんか見てるんじゃねえよ。嫁さんが泣くぞ」
吐き捨てるようにな言葉に思わず笑ってしまう。
未練。まさしく言い得て妙だ。たしかにこんな夢を見てしまうということは、この期に及んでもあの日々を諦め切れていないことに他ならない。
「ほんと、俺も自分が情けないと思うよ。だけど……」
玲は泣かないだろうなと思う。
あの子はきっと、俺が見た夢を素敵な夢だと言うだろう。それから、自分もその光景を思い描こうとするかのように目を閉じて笑うのだ。皆さん、直接会いに来れなくても耀さんを祝いたかったんですね、嬉しいなあと。
玲のそういう健やかさが、彼女の一番の美点だと思う。俺にはないもので、彼女の反応を見て、想像して、初めて得られる視点がこれまでにいくつもあった。そしてそれは、これから先の生活でもっともっと増えていくのだろう。
そんな子とこれからともに歩めることを、夢みたいだとはもう思わない。なんで俺をとか、俺でいいのかとか、そんな迷いももう捨てた。だって、選んだのは彼女なのだから。あとは彼女がその選択を後悔しないように、させないように、努めるだけだ。
「俺のお嫁さんは、俺よりずうっとつよい子だから」
「そーかい。……その調子で惚気のダシにしてやんな。その方が、あの人も喜ぶんじゃねえか」
「ふは。それもそうかもね」
男が笑う。俺も笑う。この世のどこかでくしゃみをしているであろう正義さんを思いながら。
きっちりお代を支払ってコートを羽織り、店を後にする間際、幸せになれよと寿いでくれた男に、夢のなかの正義さんの姿が重なる。
もう戻らない陽だまりの季節を幻視する。
一度覚えた後悔はそう簡単に消えやしない。誰に赦されても、誰に諭されても、自分自身がゆるせなければ、それは一生つきまとう疵になる。だが、疵があることと不幸であることはイコールじゃないのだ。この疵はかつて幸せだったからこそ生まれた疵だと、もう俺は知っているから。
俺も玲も、お互い死を意識せざるを得ない職業だ。玲と生きるこれからが、いつか疵になる日がくるかもしれないと考える夜もある。それでも。
俺はもう、幸せになることを恐いとは思わない。
「もちろん、幸せになるよ」
片手を上げ、コートを翻して歩き出す。顕になった首に、秋の風が気持ちよかった。
いつか。
明日俺の妻になる人に、今日の話をしてあげようと企てながら家路を急ぐ。
このどうしようもなく優しくて悪趣味な未練の話も、そのときにはきっと、さらに美しくなっていることだろう。