呼ばずとも春は来る兄さんの好きなものならいくつも知ってる。
まず第一に、お金。最初に出てくるのがコレってどうなの?って我が兄ながら思っちゃうけど、なんたって兄さんの座右の銘は『出雲の神より恵比寿の神』だ。なんにしても生きていくにはお金が必要だし、お金が大事じゃないなんてひとはそうそういないと思う。主語が大きすぎたかな?まぁ兄さんの場合はちょっと……いや、かなり、お金にうるさいほうだけども。でもこの“うるさい”っていうのはケチくさいって意味じゃなくて、なんだろう……報酬にうるさい、が一番近いかな。自分が得たものに対して相応の価値があると思えば支払いを渋ったりはしないから、べつに守銭奴ってわけでもないんだよね。ただ、自分が施したものに対しても、相応のもので返すべきだと思ってるから『お返しは気にしないで』なんて絶対言わない。もし兄さんがそんなことを言ったとしたら、既にべつの方法で見返りをもらっているか、これ以上関わらないほうが益になると判断したかだ。まぁ兄さんはたとえヤクザ相手だとしても引かないだろうから九割九分前者だと思うけど。
次点は、かわいいもの。これはもう、なにも言うことはない。兄さんのパーソナルスペースを見てもらえればわかる。一番ハードルが低いのは車の後部座席かな。ものすごく頭がいいくせに、へたくそな言い訳でかわいいもの好きを隠し通せてると思ってるところなんかもう、判断基準ガバガバで一周回って笑っちゃう。まぁ人間そのくらい隙があるのがカワイくていいんじゃないってボクは思うけど。
あとは、トレーニングも好きだし(これは必要に迫られている部分もあるんだろうけど、嫌いなものにあそこまでこだわれないと思う)、すてきな値段の料亭やレストランでの食事、馴染みのバーテンダーさんが出すカクテルも好きだと思う。兄さんはおいしくないものにお世辞で「おいしい」なんて言ったりしないから、兄さんの「おいしい」はけっこう信頼できる。お世辞だけじゃない、ここは空気を読んで嘘を言った方がいいなとか、とりあえず相手を納得させるためだけに同意しておくかとか、そういう自分につく嘘があんまり上手くないのだ。
そう、信頼。たぶん、兄さんの好きなものをひとつの傾向としてまとめるなら『自分の信頼を裏切らないもの』になるんじゃないか、なんて。弟のボクなんかは思ったりするんだけど。
席についた途端玲さんのカバンのなかから控えめに、でも無視できない大きさで鳴った着信音に、玲さんは即座に反応した。
清志さん、と小声でうかがう玲さんに、兄さんは慣れたようにさっさと行けと促す。玲さんはボクを見て「仕事の電話です。すみませんが先に始めていてください」と言ってぺこっと頭を下げると、電話を取りながら店先へと出て行った。
「よくあるの? ああいうの」
玲さんの後ろ姿を目で追いながら訊くと、兄さんはドリンクメニューを眺めながらなんでもなさそうに相槌を打った。
「短ければ二、三分で戻る。それより、どうするんだ」
「あ、ボク梅酒のお湯割りがいいな〜。兄さんは角ハイ?」
「いや……、俺は伊佐美にする」
「イサミ?」
聞き慣れない銘柄にメニューを覗き込むと、やはりというかなんというか、イサミは焼酎の項目にあった。伊佐美、芋焼酎だ。……ふうん。
兄さんは近くを通りがかった店員をさっとつかまえると、滞りなく注文を済ませた。その横顔をめいっぱい上げた口角を隠さないまま眺めていると、こちらに向きなおった兄さんはぎょっとしたように眉を跳ね上げた。
「……なんだその顔は」
「べっつにぃ〜。兄さんってば本当に玲さんのことが好きなんだなと思って」
「……」
兄さんは渋い顔をしてボクを無視すると、今度はフードメニューをめくりはじめた。今日の店は海鮮がおいしいボクのイチオシ。兄さんの家からそう遠くないから、玲さんも兄さんも心置きなくお酒が飲めるってわけ。ボクってなんて兄思いの弟なんだろう。
玲さんが戻るよりさきにお酒が届いて、先に始めていてというお言葉に甘えてふたりでグラスを掲げる。そうして兄さんがグラスに口をつけたタイミングを見計らって、ボクは改めて口を開いた。
「ねえ、兄さんって玲さんのどこを好きになったの?」
「んっ!?」
ごぼ、と向かいのグラスの表面が大きく波打った。
吹き出したらおもしろいな〜と思ってあらかじめ距離を取ってはいたけれど、さすがにそこまでは品が悪くなかった。ただ、かわりに気管に入っちゃったのか、兄さんは背中を丸めて激しく咳き込んだ。
「わっ!ごめんごめん、そこまでとは思わなくて」
「………………なんなんだ突然……」
地を這うようなおどろおどろしい声を涙目のよわよわしさが中和する。まだ違和感があるのか兄さんは何度も咳払いを繰り返しながらボクを睨みつけた。
「え〜、玲さんの前だとはずかしいかなって思っていま訊いてあげてるのに〜。それに、ボクがこれを訊くのはいつものことじゃん」
そう、いつものことだ。
兄さんにはじめての彼女ができたときは純粋な好奇心からだった。ボク自身が思春期真っ盛りだったのも相まって、兄さんが異性のどういうところを好きになるのか気になって。
だけど、二人目以降は好奇心より確認したいきもちのほうが大きかったと思う。だって、一人目から三人目まで、兄さんの回答はまったく一緒だったのだ。
『どこもなにも、他に付き合っている人間がいるわけでもなし、断る理由がなかった。相手のことはべつに好きでも嫌いでもない』
兄さんはいつだって自分は自分、他人は他人できっぱり世界を分けている。兄さんにとって恋人とはすなわち他人であり、そのポジションはあってもなくてもどうでもいいただの椅子なのだと、三人目のときにようやくボクは悟った。バーのカウンターでとなりに座っても構わないかと尋ねられたからどうぞと答えるのとおなじ。べつに恋人がいようがいまいが兄さんがすることは変わらないし、嗜好も変わらない。自分の愛すべき世界を愛しながら、ときに他人を泣かせながら、これからもゴーイングマイウェイに人生を歩んでいくんだと。……そう思っていたのだけれど。
お酒で咽せる兄さんなんてはじめて見たな、と思うとなんだか晴々としたきもちになってしまった。もうこれだけでじゅうぶん、いまの兄さんは違うんだってわかる。だからもう答えは聞けなくてもいいかなと思ったのだけど、何度目かの咳払いを終えた兄さんが、ふいに口を開いた。
「……信じます、と言われたんだ」
「え?」
「俺のことを信じると。俺たちの立場がまだ……仕事関係者だったときに」
あの、口数は多くないけれど、喋るときはいつも淀みなく的確に喋るひとが。息すら詰めて、ボクは目の前のたしかに兄であるはずのひとを見つめる。
「玲の『信じる』は、本当に、言葉のままで……だからこそ、俺はそれに、絶対に応えられる人間でありたいと思った。……それがだんだん、玲に一番信じてもらえる人間……、立場になりたいという欲求に繋がったのかもしれないな」
ぽつぽつとこぼされた兄さんの言葉に、自分の立てた仮説が芯が通るのを感じる。
信頼を裏切らないものが好きな兄さんは、だからこそ、自分が信頼を裏切りたくないと思えるひとのこともまた、好きなのだ。
「兄さんさ、」
「うん?」
「飲みにきてとりあえずで頼むもの変わったよね。前は角ハイだったけど、いまは焼酎飲んでる」
「……まぁ、もともと嫌いではなかったが。玲と飲んでると必然的に焼酎の割合が増えるからな」
「うん、そうだよね。玲さん焼酎好きだもんね」
兄さんの世界にはいつだって、兄さんの愛するものだけがあった。
その世界に新たな風を吹かせられたのは、玲さんそのものが兄さんにとって愛すべき対象になったからだ。玲さんの好きなものを兄さんも好きになり、きっとその逆もあるのだろう。
玲さんがLIMEで時折使うリラッゴマのスタンプを思い出す。
それってすっごく、すっごく素敵なことだ。
「そう思って……はい、これ。ちょっと遅くなったけど、お誕生日おめでとう」
「ああ、ありがとう……これは?」
「芋じゃないんだけど、おいしいらしいよ。ウィスキーに近い味わいの麦焼酎なんだって」
「ほう。俺というより、俺と玲へのプレゼントみたいだな」
瓶を包む紙のパッケージを矯めつ眇めつ眺める兄さんのつぶやきに、そうだよとだけ言って、ようやく梅酒に口をつける。ほどよくぬるくなったグラスから、ゆたかな梅のかおりが鼻を抜ける。おいしい。
「は? おい、それは」
と声を上げかけた兄さんを遮るように戻ってきた玲さんの声が重なる。
「すみません、遅くなりまして……!」
「おかえりなさい。お電話、大丈夫でしたか?」
にこりと微笑んで玲さんを迎えると、彼女は花が咲くように笑った。
「はい、もう今夜は大丈夫かと。って、清志さん、それ……!」
きらきらと音が聞こえてきそうなくらい目を見開いた玲さんに忍び笑いをこぼす。焼酎が好きならもしかしたら知ってるかもしれないなと思ったけど、どうやらしっかり知っていたらしい。ボクは兄さんにぱちんと片目を閉じてみせると、立ったままの玲さんを引き寄せてこそっと耳打ちした。
「兄さんへの誕生日プレゼントです。……いい夜になるといいですね」
兄さんの好きなものならいくつも知ってる。
お金、かわいいもの、トレーニング、すてきな値段の料亭やレストランでの食事に、馴染みのバーテンダーさんが出すカクテル。
そして、玲さん。
玲さんが好きな焼酎の味が舌に馴染むように、きっとこれからも兄さんの世界は広がりつづけるだろう。
兄さんの世界に訪れた春は、まだはじまったばかりだ。