前編 GEGO DIG. SUMMER 3 展示作品夏の、蒸し暑い午後だった。
「悟。そこを”どけ”」
「……イヤだね。お前こそ、その手を下ろせよ」
山奥の村での任務だった。
廃墟同然の家屋の壁を吹き飛ばし、突如現れた白髪の青年に、その場にいた人間はみな同時に言葉を失った。
薄暗い室内に真夏の日差しが差し込んで、子供2人は目を細める。まるで昔、母親に読んでもらった物語から飛び出してきたかのような容姿の彼。息を乱し、肩で呼吸しながら汗を拭って顔を上げた五条は、サングラスをどこかへ落としたのか、六眼が晒されている。ギラギラと異様な六眼の輝きを前に、壮年の男女はハッとして何やら汚い言葉で五条を罵った。しかしそれも、彼がひと睨みすれば口を閉じる。
「悟……なぜここに」
「っ、あー……うん、お前がやろうとしてることを止めに?」
何も考えず飛び出してしまった為に、バカ正直に答えて五条は内心舌打ちする。まだ慣れない長距離の移動に、身体がオーバーヒート気味だった。尋ねられたから返す。コマンドでもなんでもなかい。けれど夏油を前に五条は偽ることを知らなかった。
「なんのつもり?」
「お前こそ、どういう意味だよ」
先ほど五条を罵っていた村人を背に立つ五条に、夏油は瞠目する。
自分の中で揺れている信念は、彼に欠片も見せていないはずだ。
だというのに、目の前の彼の立ち位置はどうだ。
夏油から守ろうとしている。対立している。
事実、五条があと数分遅ければ、夏油は彼ら村人を集めさせ、殺戮を開始していた。そのつもりで、彼らに声をかける直前だった。
なぜこのタイミングで。
彼は何を知っている?
疑問はあったが、夏油の背後にいる、檻の中の子供らの戸惑う気配に余計な考えを捨てる。
自分の信念は変わらない。弱者は護る。それだけだ。
「悟。そこを”どけ”」
「……イヤだね。お前こそ、その手を下ろせよ」
戸惑いを捨てた夏油の表情と、向かってくるグレアに、五条は奥歯を噛みしめることで耐える。
特級術師でDomの威圧感に、五条の後ろ、村人は腰を抜かした。夏油に庇われるように、壊れた檻の中で手を取り合っている子供らも、震えて異変には気づいているようだが、体調を崩している様子はない。彼らがNormalであることを五条は瞬きひとつ分で判断する。つまり、この場で夏油のグレアの影響を受けているのは五条のみだった。
五条は細く息を吐く。握りしめた拳から異音がした。
Domの命令に逆らった。それもパートナーである夏油の。
さらにグレアまで浴びては、通常のSubならDrop確実だろう。
動悸に加えて、喉を締められるような息苦しさもある。それでも足を踏ん張って、五条は歪みそうになる表情を奥にしまって相手を見据える。
「話し合いの余地は?」
「グレアを浴びても余裕な君が理解できるとは思えないな。……圧倒的な強者に、弱者の気持ちなんて」
その言葉に五条は目を伏せると、自嘲するような笑みを浮かべてなにかをつぶやいた。こちらには聞こえなかった。聞かせるつもりもなかったのだろう。今の夏油にはどうでもよかった。
コマンドもグレアも五条に通じない。彼には必要がない。いつから?今までのSubとしての言動は演技だった?ああ、そういえば最後にプレイしたのはいつだっただろうか。……五条悟に夏油傑はいらなかった。その事実がどれだけ夏油を打ちのめすのか五条はわからないのだ。
今の夏油には、Subとしての本能を克服した、本能すらも制御下に置いた、まさに『最強』としての五条悟が写っている。
……決して、五条が実は気力だけで立っているなど夢にも思わない。
「傑」
いつの間にか逸らしていた顔をあげる。
五条が笑っていた。今にも泣きそうで、みたことのない、大人びた優しい笑みで。
「ッ、さと——」
それを見た瞬間、夏油はこの世のすべてを投げ捨てて、彼の元に駆け寄りたい衝動に駆られた。その瞬間だけは、村人も、子供らも、夏油の視界になかった。
なにかをまちがえた。
間違えてなんかない。
私が決めた、私が選択した。
誰にもそれを間違いだなんて言わせない。
——なのに、
「”さよなら”」
後悔が一つだけある。
・
「傑が?教師?……ああ、常勤てわけじゃないのね。いや、それにしてもどういう風の吹き回しだよ。教祖サマ事業は?」
寝耳に水な情報に、長い脚を持て余してくるくる回っていた医務室の椅子が静止する。
夏油が高専を離れて約10年。
退学した理由が理由だったために、夏油には定期的な近状報告が半ば義務付けられていた。
一般人に対する暴力(軽症)さらにNormalとはいえグレアを浴びせ、危険にさらした。しかし、情状酌量の余地あり、未成年ということもあって経過観察という、書類上で見れば比較的軽い処分が下った。……彼の心情がどうだったかなんて、実行されなかったものは存在しない。
それも数年前に終了し、やっとフリーの呪術師として、または退学後に始めた怪しい宗教家の教祖サマとて自由に生きていけるようになったというのに。なぜ再び高専に近づくのか。わからん。
五条の疑問に、家入は温くなったコーヒーをすすって答える。
ここ数週間、海外の任務で浦島状態の男に。
ここ数週間、高専内で話題の男について。
「アイツが面倒見てる双子がいるだろ。今年入学した。あの子らが夏油に稽古をつけて欲しがってるみたいでね。話を聞いたパンダと狗巻が調子に乗って自分たちも、と。高専を離れてた特級術師の一人が戻ってくる、って窓も補助監督も今は高専内はこの話ばかりだよ」
「……そりゃあ担任の僕がなかなか授業みてやれないのも悪いけどさあ~。え~?泣いちゃう」
よよよ、と包帯で隠れた目元を覆う仕草をする五条に、家入は無反応で返す。反応すればつけ上がるからだ。
「で。五条、大丈夫そ?」
「ん?」
家入が何を言いたいのか理解した上で、五条は首をかしげてみせる。だから余計に家入の機嫌は降下するのだが、五条はさらにへらりと笑う。いつものように。
「ま。今までなんとかなってたんだし。大丈夫でしょ」
だって僕、最強だから。
・
五条悟がSubである、というのは特別秘匿されてはない。だからといって言いふらしているわけでもないが。
特に呪術師なんて職業は、ひとつの行動が生死に関わることもある。Domの呪いから生まれた呪霊に対峙した時。呪詛師を前にコマンドを使われた時。DomよりもNormalよりも、どうしたってSubの術師はSubであるというだけで障害がある。
早いうちからSubは補助監督もしくは窓など、術師をカバーする役割に転身する者が多かった。
「や、悟」
「……やっほー傑!久しぶりじゃん!ここで働くんだって?言ってくれればいいのにぃ~」
夕暮れ時の校舎の廊下で。五条や夜蛾と似たような服装の夏油は、まるで昨日振りのような気安さで片手を上げている。
実際には約10年ぶり。定期的に報告で高専を訪れた時だって五条に会いに来なかった男がだ。……それは自分もだけれど。
五条が担任する1年生を、五条が海外に出ている間から見ているという。
へー、全く知らなかったよ。だーれも教えてくんなかったな。まぁ伊地知は、僕と傑が直接話してたとでも思ってそうだけど。灰原はなんにも考えてなさそう。七海は敢えて言わなかったなアイツ……。ん?なんて?憂太はまだまだだけど筋がいい?うんうん。真希は体術で今後抜かれそうで鍛錬してて楽しい?お、意外な感想。棘とパンダは相性がよくて互いにカバーしあえてる?ノリもいいでしょ2人。
相槌を打って頷いて、廊下での立ち話はそこそこ弾んだ。ように思う。
硝子にはああ言ったけど、ちょっぴり気負ってた(もちろん表には出してないけど)全然大丈夫だったな。自然に話せてるし、自然にいつもの笑みも浮かべられてる。傑も、変に筋肉の緊張もなく、声の張りも記憶の通りで違和感はなかった。目の下の隈だって学生の頃が嘘のように綺麗さっぱり存在しない。
やっぱり高専を離れて正解だったのだ。あーよかったよかった!
ヒクっ、と喉が変に鳴った。
「悟?」
「?……んん、なんでもないよ」
「そう……あ、今夜時間ありそうかい?久しぶりに夕食どうかな。硝子も呼んで3人で」
「あー、うん、そうだねぇ……」
スマホを取り出してスケジュールを確認し始める夏油は、当たり前のように「何時からにしようか?」と訊ねてきた。五条はそれに、学生の頃のように即答したい気持ちを抑えて返した。
「ごめん、僕このあと任務がまだ残っててさ」
硝子と2人で行ってきなよ、と続けるつもりだったが、言葉にはならなかった。もう夏油は自分のものではないのに、10年経っても未練たらしい。あとこの嫉妬を硝子に知られたら盛大な舌打ちされそうだなぁなんて考えていたから、夏油の言葉を聞き逃しそうになった。
「そっか残念。じゃあ明日は?」
「……いやぁ、どうだろ」
なんか普通に誘ってくるんだけど。あれ?お前10年前に俺を振って退学したよな?10年も前ならもう関係ないって?そういうのわかんねーんだよなぁ。僕がおかしいのかな。おかしいんだろうな。こういうところなんだろうなぁ。……実は海外から早めに戻ってきた影響で、今夜も明日も空いている。でも夏油の精神状態をまだ掴めていないから、なるべく逆撫でしたくない。つまり食事に行って怒らせたりしたくない。
どうやって断ろうかなぁと考えていたら、タイミングよく僕のスマホが鳴った。
さんきゅー伊地知!急に任務が入っても今日は大歓迎だ!
「はいはーい!どうした伊地知ぃ。……うん、うん」
すまん、と手刀を切れば、夏油は「また連絡するよ」と言ってあっさり去っていった。
……アイツ、僕の連絡先知ってたっけ?
・
実は、夏油と五条は正式にはパートナーの解消をしていない。会話すらなかったから。ま、自然消滅ってやつ?
あの村で五条がセーフワードを放ったあと、夏油は目に見えて狼狽し、村人そっちのけで五条をケアした。自分のパートナーがDrop寸前だったとその時に気づいた夏油は、補助監督に連絡し、子供たちに適切な対応を求め、五条を高専へと連れ帰った。Dropこそしなかったが、そもそも移動でオーバーヒートを起こしていた六眼と脳に更にプレッシャーが加わり、高熱を出した五条は2日まるまる医務室のベッドの上で過ごした。
目を覚ました時、夏油は高専を退学していた。
「夏油がな、お前に”ごめん”って」
「……そう」
悲しいとは思わなかった。
置いていかれたな。と身体の力が抜けて、もういいか、とも考えた。
少なくとも夏油は呪詛師として扱われていない。五条が殺さなくてもいい。
「……ぼく、は」
一緒にいたいなんて贅沢だった。夏油が生きてる。それだけで十分だろ。
それは安堵だったかもしれないし、それを悲しみというのかもしれなかったけれど。
様子を見に来た家入の後ろには、七海と灰原がいて、五条は「僕、がんばったよねぇ」と力なく呟いた。
突然変わった五条の一人称に、同級生と後輩は恐ろしいものを見たような顔をしたけれど、五条はへらりと笑って目を閉じた。
五条悟にコマンドは通じない。
夏油の退学後、五条悟がSubであると同時に流れた噂だ。事実である。
高専に入る前がそうだったように、まるで夏油がいる間だけのSubだったかのように。
抑制剤がよほど合うのか、五条自身にもわからない。腐ったミカンの腐った台詞を聞いてしまったなぁ、くらいの感覚のみで、Domのコマンドに影響を受けなくなった。同時にSubの欲求すら薄れたものだから、一時期はNormalにでも性別が変わってしまったのかと疑ったほどだった。家入に確認してもらった結果はSubのままだったが。
・
「ちょっと聞いてよ硝子さん」
「いやだ」
「傑のやつなんで僕の連絡先知ってるわけ?個人情報!お前だろ教えたの!」
「別っっっっつにいいでしょ今更じゃん。飯行ってきなよ。誘われてんだから。いつまで避けてんの」
「今更だからだろぉ!?今更アイツとどんな話しろっつーの。教師としての教育ビジョンを語り合ってみるか?!似合わなすぎて鳥肌が立つんだけど!」
医務室に入ってきたと思ったらぐるぐる歩き回る大男に、家入は動かしていたボールペンを止めた。
クズと大馬鹿者の痴話喧嘩に巻き込まれるのは、いつだってたった1人の同級生だ。早めに対処するに限るのだが、これがもうめんどくさい。何がめんどくさいって、結末がわかっているものに部外者の自分は絶対必要ないとわかっているからだ。
五条は夏油が好き。
夏油は五条が好き。
お疲れ様でした。解散!
五条は本気で悩んでるのかもしれないが、学生の頃を思い返すと何も変わっていないのだから、家入としてはなーんも難しいことはない。早く飯食いに行って告り告られ復縁してろ。である。
夏油があの日なにがあったのかも、この約10年間どうしていたのかもどうでもいい。
いま、現在、なう、夏油は高専に所属して、自ら五条を飯に誘っている。友好的に。
五条の連絡先を教えてほしいと請われた時、当たり前だが一度拒否した。なんの説明もなく退学して、何事もなかったかのように戻ってきたクズよりかは五条の方に寄っているから。万が一にでもアレを損なう発言でもしようものなら、ボールペンでもメスでも投げつけてやろうと思った。全くの杞憂だったのでさっさと五条の連絡先を売ったが。
「ね~~~~~しょうこぉ」
「鬱陶しい。わかった。聞くだけ聞いてやるから取り敢えずそこに座れ」
定位置にある丸椅子をボールペンで指せば、五条はスッと素直にそこに座った。
「……」
「……」
包帯越しに黙って見つめられて、家入は首を傾げる。
「どうした?」
「え。あれ?」
話したいことがあるんじゃなかったのか、と言う前に、五条は自分の行動が信じられないような挙動をみせた。
「待って。え。いま僕、硝子のリワード待ってた。マジで?」
「は」
ぽろっと零したリワードという言葉に、家入は頭を抱える。家入はDomだが、五条にコマンドを出したことはないし、いまのもコマンドとして言ってない。要素がないのに反応したのであれば、それは。
「言う事が聞けて偉かったな……?」
「待って、大丈夫、いいから。言いたくないこと言わせちゃったみたいな雰囲気にさせないで」
慌てる五条は、そうは言うが椅子から腰を上げようとしないので、家入はさらに深いため息をついてしまった。
医者としてのスイッチが入ってしまった為に、このめんどくさい2人の痴話喧嘩に強制参加である。誠に遺憾。酒が飲みたい。
「……いいか、五条。Subの欲求はいつからある?」
「いまも無いけど。……いや!マジだって!嘘じゃない、本当になんとも無いんだよ。さっきのが初めてっていうか」
「抑制剤は欠かしてない?」
「処方箋通り飲んでまーす。その辺は万が一があるからね、健康管理も最強の努めでしょ」
「万年ショートスリーパーが何言ってんだか。……もう一度、今度はコマンドを出すけど、いい?」
「うん」
「セーフワードは?」
「いらねぇって。……睨むなよ。んー、じゃあ”ストップ”。今回だけね」
それ用の紙が手元にないので、五条の様子をメモ紙にさらさらと書き留めておく。
どうせコマンド効かないだろうけど~と言っている馬鹿を前に、家入はコマンドとして発言した。
「五条……”おいで”」
「…………っ、ぁ」
ぐらりと五条の頭が揺れたかと思うと、立ち上がって一歩また一歩と家入に近づいた。
机を挟んだ向かいまで来たところで、”いい子”、”よくできた”などリワードを与える。
無言だった五条はリワードを与えられた直後、どかっと勢いよく膝を落として項垂れた。
「硝子に汚された…………!」
「言うに事欠いて君な……。ほら、腕出して脈取らせて」
「ん」
コマンドとして意識していなくても、最初がアレだったためにどこからをプレイと認識しているのか家入には……おそらく五条自身も理解できていないので慎重に。
「脈は正常。熱もない。身体に違和感は?」
「んー。コマンド出された時にクラっとしたけど、いまはなんとも。ちょっと身体軽いかも」
「プレイで体調が整ったんだろうね。もとはプレイを必要としてたんだから、今までが異常だったんだよ」
「高専入る前もこんなだったけど?」
「保健の授業でも学び直したら?」
「……」
ぷく、と頬を膨らませても可愛くもなんとも無い。とりあえずの対応として、普段よりも少し強めの抑制剤を渡しておく。
PTPシートを指先で弄る五条の姿に、この場で飲むのかと湯呑みを用意しようとした時。
「……硝子、もう一回だけコマンド出して。なんでもいいから」
「はぁ……?」
振り返れば、五条はにっこりと何を考えているかわからない笑みを浮かべていた。
「……」
めんどくさいことが起こるぞ、と家入の脳内で囁く声がする。ああ、ほんとうに、めんどくさい。
「……五条、”おすわり”」
「……」
一般的な、けれど服従という意味ではわかりやすいコマンド。
家入の前に移動して、足を開いて内股に折り座るようにと。
けれど五条は机を挟んだ向かいに立ったまま。
「……」
「……お。やったー、コマンド効いてない。なんともないよ硝子!」
「なにをした?」
「ん?」
ぐるり呪力が巡った気配はあったのだ。伊達に呪術師として医者をしていない。
信じられない、信じたくない思いで訊ねる。もはや飲み物のことなど頭になかった。
それはあまりにも。
五条はサプライズに成功した子どものように明るく答える。
「バースに影響する脳みそを破壊して、即時反転!新鮮な脳みそをいつでもお届け!」
いやぁ、僕って最強だからなんでもできちゃうんだなぁ~。
なんて笑っている大馬鹿者を、ああ、早く早く、あのクズは引き取ってくれ。