路地裏の猫「猫…いた…ちょっと見てくる」
そう告げてすぐ、視界の端に映った猫を追いかける。「あんま遠くに行くなよォー」背後の仲間の声に上げた左手をヒラヒラと揺り、前を歩く猫と共に路地へと消える。ゆらりくらりと自分のペースでとことこ歩く猫を追う足は軽い。追われて逃げているというよりも、時折振り向く両眼はこっちだ着いてこいと言っているようで。
(触らせてくれるかな…)
猫の尻尾を見ながら考え事をしていると、ふ、と立ち止まった。気を抜いた瞬間、予想外の方向へ猛ダッシュ。予想外というのは今までの歩いて来た道、股の下を潜り抜け数m先の更に細い道へと曲がって行った。
「…残念」
綺麗な猫だった。汚れも穢れもない白い猫。顔は少しふてぶてしかったが、瞳の色は例えるならば晴れ渡った空の色。皆のところに戻ろう、元来た道を重い足取りで歩き始める。
(こっちに曲がっていった…?)
でももう居るはずない。不意を突かれた上にあんな駆け足で行ってしまったのだから、この近辺にはもういないだろう。必ずしも触らせてもらえることはない、そんな所も含めて猫だと思う。しかしさっきの子を逃したのは残念だった。名残惜しいと猫の通って行った狭く暗い道の先を見つめた。
(………)
耳を澄ませると微かに聞こえる声。その声は猫が行った方向から、そして件の猫の声も聞こえてくる。誰かの飼い猫だったのか…そう思うも思い返してみるも首にその証は無かった。
(…まだ大丈夫かな)
いつも気まぐれに猫を追いかけてるからかチーム仲間は煩く言ってこない。加えて無口ゆえに勘違いされる事も多々あったが、今の居場所は本当に心地良く恵まれている。一足一足声のする方へと進ん行くとT字路になっており、更に左に曲がった突き当たり。居たのはあの白い猫、とこの路地には似つかない毛色の綺麗な…、ーーー。
「これは俺の飯だってぇの…あ、こら!待てこのバカ猫!」
(あれは…)
二人組の…チーム名はcozmezだったか。常に気怠そうにしている双子の片割れ、帽子を被り上着をだらし無く着崩しているのは方…どっちがどっちだったっけ。常に二人でいる印象だったが今日は何故か片方だけ。乱雑に積み上げられた箱を椅子代わりに買ったとは思い難い食べ物を手掴みで口へと運び、ぺろっと指を舐める。その時に覗く舌は何処か…そこまで考えた後首を横に振る。綺麗な顔をしていると言っても相手は自分と同じ男だ。
猫を追いかけて来たはずなのに何で他のチームの、それも男に興味を持ってるんだ。隠れつつも向けていた視線を外し、馬鹿馬鹿しいとその場から離れようとするも足が動かない。その場を去りたい身体ともう少し見届けたい心の不一致か、仕方ない…もう少しだけともう一度猫と少年の方を見遣ると、最後に残しておいたと思われる唐揚げを巡り取り合いを始めていた。
「毎回毎回唐揚げの時に来やがって…これは那由汰の分なんだよ」
"那由汰"
それは確か弟の名、とするとここに居るのは兄の方。どちらかと言うと弟の方が愛嬌のある顔、対して兄は弟以外眼中にないふてぶてしい顔をしていた…はず。
しかし目の前にいるのはその辺の少年少女となんら変わりない感情を乗せ怒る姿。
「あっ、あー…那由汰の唐揚げだったのに…たく、しょうがねぇな」
結局またも不意を突いた猫の勝利に終わった唐揚げ争奪戦。さっきまであんなに怒り散らしていたのに、隣で美味しそうに食べる猫に向ける視線は優しいもので。普段の姿との落差に、ただただ驚く。
食べ終わった猫がゴロゴロと擦り寄り、それを受け入れ応える腕に包み込まれた。白く細い指に撫でられ、口から出るは甘い声。それに更に応える手に添えられたのは無表情ではなく……。
(いいな…あの猫、代わりたい…)
「ん?」
待て待て待て。いつもと変わらず猫を触りたいと思っていたはず、そう思ってここまで辿り着いたはず。なのに一体全体何がどうなってそういう思考になったのか。
思わず出してしまった声に、一帯の空気が変わった。
「あんた…誰?」
笑みが消え此方に向いた視線は冷たい。腕に抱いていた猫を下ろし、まだ撫でて欲しいと足元で甘え鳴く猫を余所目にズカズカと足早に北斎の方へと足を運んだ。
「この辺じゃ見ねぇ顔…ああ…お前も俺を使いたいって輩の一人か」
「使うって…何?」
「あ?使うって言ったらコレしかねぇだろ…その代わり弾んでもらわねぇと……あ、お前…客じゃねぇの?」
人差し指と親指で輪っかを作り、それを舌を出した口の前に持っていく。それを意味するのはただ一つ。" "。さっき食べていた弁当代も今着ている小綺麗な服ももしや、と勘繰りたくなってしまう言動に完全に動揺してしまう。
いつまで経っても手を出して来ない、それどころか引いている北斎の姿を見た少年・珂波汰は己が要らない事を口走ったことに気付き同じく動揺し始めた。
「あ…あんた確か、5人チームの…」
弱味を握られた、それも自らの墓穴によって。
そう思っているであろう動揺はあちらこちらに揺れる双眸の動きで読み取れる。言い触らしたりしないのに、そう思いつつも少しでも落ち着いて貰おうと猫と戯れていた場所へと連れて行き、隣に腰を下ろした。
「うん…そ、覚えててくれた…?」
「名前は…わかんねぇ。興味ねぇから…言われても覚えねぇし」
「…じゃあ覚えて。覚えてくれたら言わないから…弟くんには内緒にしてる…違う?」
「……っ」
それまではずっと下を向いていたのに、"弟くん"と言った途端顔を上げた。不安に揺れる大きな目には薄っすら涙が溜まっているようにも見える。それでも堪えるように流すまいと気を張っている姿にますます興味が湧いた。
「名前……覚えてくれる?」
「……、…わかった」
「よかった……征木北斎…ま、さ、き、ほ、く、さ、い…覚えた?」
「ほくさい…って年上?」
「ん…でも学生してる…興味もってくれた?」
「…別に」
分かりやすく伝えた名前をその口から聞く喜び。その後の問い掛けには素直じゃない答え。でもそんな態度でも悪くない。
未だに足元にいた猫を抱き抱え、ポケットの中にあった猫用おやつを差し出すと途端に態度を変え擦り寄ってきた姿に目の前の珂波汰の姿を重ねる。
そういえば、ともう片方のポケットの中からあるだけの小銭を掴むとそれをそのまま珂波汰の手に握らせた。
「はい、これ…この猫に取られたんだよね、…弟くんの唐揚げ。名前覚えてくれたお礼……受け取って」
渡された物に一瞬怪訝な表情をするも小さく「…さんきゅ」と言うとズボンのポケットにそれを仕舞い込んだ。そして暫くの間のあと、ふと真顔になり北斎へと問い掛けた。
「……待て、どこから見てた…?」
「あ…えーと…唐揚げ取られる前辺り…かな」
「……っっ!」
ころころ変わる百面相。弟に盲目な印象しかなかったがこれはこれで新たな発見か。キッと睨みつける顔も頬を真っ赤に染めた顔も、ほかにどんな表情が出来るのか引き出したい欲に駆られてしまう。
そんな折に『使うって言ったらコレしかねぇだろ』の言葉が浮かぶも慌てて首を振り消し、膝上で戯れる猫に意識を集中する。
「…?どした?」
しかし身長差というよりも座高差ゆえ、上目遣いになった珂波汰に再び視線を向けざるを得ない。猫に触れていた手を移動し珂波汰の頬に触れようとした瞬間、刺すような視線に空気が凍りその手は行き場を失くす。
「…珂波汰」
此方が愛想の良い方、だったはず。しかし表情は皆無、向けられる視線は鋭く、声色も澱みきっている。
その声を聞き慌てて振り返った珂波汰の表情は一番引き出したいと思った、花が咲いたような可愛い顔。北斎から離れ、声のした方へと駆け寄った時には怖い顔ではなくいつもの甘い顔になっていた。
「…那由汰!身体大丈夫か?」
「うん…大丈夫。ね、戻ろうよ…ここ居るの俺やだ」
「あ、うん…わかった。唐揚げ買ってから…っ」
「別に…いいのに、でも珂波汰が言うなら……行こ」
心配する兄と軽く抱擁した後、肩に凭れ掛かるのは弟の方。珂波汰に抱く思いを完全に見透かされている、牽制とばかりに再度北斎を睨みつける双眸は厳しいもの。更に中指を立てる姿は猫というよりは虎や豹のように見える。同じ双子でもこうも違うものなのか、その後はにっこり笑みを浮かべ、ぎゅっと手と手を繋ぎその場から去ろうと珂波汰の手を半強制的に引き歩き始める。
「…この子…に会いにまた来るから、…」
未だに離れずにいた猫を触りながら独り言を呟くように、それでも耳に届くように声を発する。早くこの場から離れたい那由汰と違い重い足取りの珂波汰はその声に反応し振り返る仕草をするも、弟が隣にいる手前かすぐに向き直った。
「なにあれ…知り合いになった?名前、覚えた…とか?」
「…覚えてねぇよ」
「フーン…そっか。ね、俺…やっぱ少ししんどいかも…唐揚げ珂波汰に食べさせて欲しいな」
「なんだそれ…しょうがねぇな」
気まぐれな猫のように、再び此処に来てくれるかは分からない。でも今撫でているこの白猫は、度々弁当を食らう珂波汰を見つけては唐揚げを強奪している筈だ。この猫を追えば何回かに一度くらいは会える、だろう。
猫を追いかけて、猫以上に興味が持てるものを見つけた。
「珂波汰…か」
どうやったら弟や知らない男共の手をくぐり抜けて、落ちてきてくれるのだろうか。自問自答を繰り返すも当然答えなど出せないまま、仲間の所へと帰っていった。