蜂蜜の日「すっかり遅くなってしまったな」
その日の菩齊村は、ここ一年で最も暑いと言っても良いくらい、気温が高い日だった。
謝憐は、”生い茂って手がつけられなくなった雑草をなんとかして欲しい”という願いを叶えるために、高齢夫婦の家を訪ね、一日がかりの作業を終えて菩齊観へと戻るところだった。
細かく散った草木や土埃が汗で張り付き、髪も肌もざらざらとして、少し払うだけでも煙のように細かい砂が舞った。
「……これは酷い。水浴びが必要だ」
少し咽せながら呟いたものの、すでに日は沈み、とても水浴びできる明るさではなかった。
仕方なくそのまま帰宅することにして、再び道なりに進み出した。しばらく進み、緩やかな曲がり道の向こうに菩齊観が見えると、自然と頬が緩んだ。
窓から漏れる柔らかな灯りは、観の中に誰かが居ることを示していた。小走りで観へと急ぎ、扉に手をかけると勢いよく開く。
「三郎、ただいま!」
扉に背を向けていた花城は、ゆっくりと振り返ると、顔を綻ばせながら謝憐に労いの言葉をかけた。
「お帰りなさい、兄さん。疲れたでしょう?」
思っていた通りの人物が出迎えてくれたことに気を良くした謝憐は、持っていた荷物を床へと下ろすと、水瓶の前に立つ花城へと近付いた。
花城が菩齊村にいる時は、十七、八歳の少年の姿でいることが多く、今日もその姿だった。
碗を手にした花城は、その中身を謝憐に見えるように傾けて見せた。中には、黄色い柑橘系の果実が、輪切りになって入っている。
「今日、鬼市で檸檬が手に入ったんだ。搾って飲むと疲れが取れるよ。兄さん、一緒に飲まない?」
花城は、謝憐に物事を強制するようなことはせず、決定権を謝憐に委ねる。その心遣いからは、自分を大切にしてくれている花城の想いが感じられて、毎回、謝憐の心を温かくした。
「ありがとう、いただくよ」
謝憐の返答に、微笑みを深めた花城は、水瓶にかけてある柄杓へと手を伸ばす。
「……ただ、たくさん砂埃を浴びてしまったから、先に沐浴をしても良いかな?」
謝憐が続けて伝えると、花城は飲料の準備を中断し、暖簾の奥に置かれた大きな木桶へと向かい、蓋の代わりに載せていた板を持ち上げた。
「さっき、沸かして入れたばかりだから、まだ温かいよ。どうぞ入って」
「君は本当に準備が良いな、ありがとう」
謝憐が沐浴を終えて、内衣だけをまとった状態で髪を整えていると、水を碗へと注いでいる音が聞こえた。
暖簾をくぐって花城の横に並び、作業を見守る。半分に切った檸檬を握り締め、果汁を碗へと絞るところだった。途端に、柑橘系特有の香りが、謝憐の鼻腔に届く。
「良い香りだ」
謝憐が碗へと手を伸ばそうとすると、花城の手が優しく遮った。
「まだだよ」
花城は懐に手を入れると、茶色い小瓶を出し、栓を取った。
「蜂蜜を入れた方が美味しい」
花城が瓶を傾けると、注ぎ口から琥珀色の液体がゆるやかにこぼれ落ち、碗の底に溜まっていくのが見えた。
「蜂蜜」
謝憐が単語を確認するかのように口に出して言うので、花城は首をあげて、謝憐の様子を伺う。
「ごめんなさい、確認を怠った。兄さんは蜂蜜が苦手だった?」
「いやいや!苦手じゃないよ。昔、うっかり蜂の巣を壊してしまって、蜂にたくさん刺されたことがあったなと、ははは、ふと、思い出してしまっただけ…だ……」
しまった!と思った時には遅かった。碗から顔を上げると、先ほどまで微笑みを浮かべていた美しい顔からはすっかり笑みが消えていた。
まるで今まさに自分が蜂からの痛みを受けたかのように、苦しそうな顔で謝憐を見ている花城と目が合った。
「……」
「……すぐに作り直すから、兄さんは座って待っていて」
先に沈黙を破った花城は、青白くなった手を伸ばして、注いだばかりの碗を洗い桶に放りこもうとしていた。その手を掴んで、謝憐が慌てて止める。
「だめだめ!だめだよ!飲むよ!」
「……」
花城があまりにも悲しそうな顔をして俯くので、まるで叱られた子供のようだ、と謝憐は思った。
「君のことだから、この檸檬も蜂蜜も、とても貴重で、高価なものを手に入れてくれたのだろう?変なことを言って、君を嫌な気分にさせた。謝らせてくれ」
謝憐は、「檸檬を手に入れた」と教えてくれたときの花城の表情を思い出していた。檸檬も蜂蜜も、この辺りではなかなか手に入らない、高級品だ。
「……大して貴重でも無いよ」
花城はいつもこうだ。この世の中に自分が知り得ないこと、手に入れられないものは無いかのように言い切るし、実際にもそうなのだろう。
「蜂に刺されたことがあるってだけで、蜂蜜が苦手なわけではないんだ。せっかく三郎が作ってくれたんだから、私に飲ませてくれないかな」
花城は、手に握ったままだった碗を謝憐に渡すと、ようやく固くしていた表情をやわらげた。
「ありがとう、飲み方があるなら教えてくれるかな?」
「そうだね、今は下に蜂蜜が溜まっているから、好みに合わせて蜂蜜を混ぜて甘くするのもいいし、輪切りの檸檬を蜂蜜に絡めて食べるのも美味しいよ」
質問に答える花城に、いつもの自信に溢れた彼の口調が戻ってきていて、謝憐は安心した。
教えてもらった方法を試す前に、まずはそのままの檸檬水を口に流し込んでみる。先ほど謝憐の鼻に届いた香りのとおり、爽やかな酸味が口いっぱいに広がり、気分を晴れさせた。
「この季節にちょうど良い飲み物だね、とてもさっぱりするよ」
次に、指を碗の中に差し込み、輪切りになった檸檬を一枚摘んだ。教わったとおりに、底の蜂蜜を掬って持ち上げる。
そのまま上手く口に運んだつもりだったが、檸檬の端から溢れた蜂蜜が、謝憐の指を伝って胸元へと線を引いて落ちた。口の中の檸檬を味わったあとで、花城の方を向き直って謝る。
「すまない、蜂蜜を少しこぼしてしまった……、三郎?」
花城は、蜂蜜がついた謝憐の手を取ると、真剣な眼差しを向けて言った。
「殿下、この蜂蜜は大変貴重なものなので、俺がもらっても構わないかな」
「……先ほどは、貴重ではないと話していなかったか?」
瞬きする間に少年の姿から本尊へと戻った花城がおかしなことを言い出すので、謝憐はどう答えたらいいのか分からなかった。
「蜂蜜自体は、大したものじゃない。でもこれは」
花城は、謝憐の手を持ち上げると、指の合間を流れていく蜂蜜に、唇を寄せた。
「あなたが触れた蜂蜜だから、ご利益があるでしょう?」
謝憐が加護を与えたわけでもない、ただ触れただけの蜂蜜にご利益なんてものは無く、花城もそれを理解しているはず。つまりこれはただの言葉遊びであり、その真意は……。
「……っ、三郎!」
「許可して?兄さん」
たった一人の忠実な信徒である花城からの願いを、謝憐が断る訳が無い。小さく頷いたのを確認した花城は、口角を上げると舌を指に沿わせて蜂蜜を舐め取った。
雪のように白い肌を持つ花城の口から伸びる赤い舌はとても煽情的で、謝憐は顔が熱くなった。指の合間の敏感な部分を舌が行き来すると、その感触に思わず息を飲んだ。
「あっ……!」
謝憐の反応に気を良くした花城は、さらに大胆になり、今度は指を口の中へと招き入れた。
花城の口の中で、されるがままに大人しくしていた謝憐だったが、指を吸われたり、軽く歯を立てられたり、舌で転がされたりとしているうちに、昨夜も経験した別の行為が頭の中に浮かび、思わず花城から目を背ける。
その様子を見た花城は、謝憐が左手に持ったままだった碗をそっと受け取り、供物台へと置くと、自由になったばかりの謝憐の左手指に、自分の右手指を絡めた。
そうして両手の自由を奪うと、謝憐の胸元へと顔を寄せる。
「ここにも垂れてしまったね。今、綺麗にするから」
一日中、夏の陽射しを浴びた謝憐の身体は、湯浴み後も内側から熱を放っていた。そのため、内衣の合わせ付近に垂れた蜂蜜は、その場所に留まらず、熱に溶かされ下へと流れていた。
流れる蜂蜜を、花城の舌が丁寧に追いかけ、舐め取っていく。衣の下まで流れた蜂蜜へと舌を潜り込ませながら下りていくと、舌先に小さく膨らんだ感触があった。
「…っ!!」
握り込んだ両手が一瞬震え、花城の頭上から何かに耐えるかのような吐息が聞こえた。
「……ねぇ、三郎。そこには、垂れていないだろう?」
「そうかな?ここもとても甘いから、きっと蜂蜜がついていたんじゃないかな?」
咎められたというのに、花城は楽しそうな声で返事をしながら、謝憐を見上げた。
謝憐は平静を装って話しかけたが、その頬は真っ赤だった。
「……そう……なのかな」
そんなわけが無いと思いつつも、どうせ反論しても言いくるめられてしまうのだろうと考え、花城のしたいようにさせることにした。
花城が仕掛けてくる悪戯は、謝憐には経験したことの無いことが多く、初めは混乱してしまうことがあった。
だが、どんな行為からも愛を感じたし、謝憐が本当に嫌がるようなことを彼はしないと、理解していた。それに、彼が待っていてくれた八百年と、自分が待った一年のことを想うと、とても些細なことに思えた。
抵抗も反論もしない謝憐をじっと見上げていた花城は、絡み合っていた両手をほどくと立ち上がり、謝憐を強く抱きしめた。
「……ねぇ、兄さん。足りない。このまま、もっと兄さんを味わいたい」
耳元でそう囁かれた謝憐は、花城を優しく抱きしめ返し、答えた。
「私も、君を味わいたいよ」