思い出は手放さない 部屋が、がらんとしている。
あんなに温かった室内が、今では冷たく感じてしまう。さみしい、なんて、思わず呟いてしまうけれど、それを拾ってくれる人物は今はいない。
二人でおそろいで買ったマグカップも、色々な思い出が詰まったアルバムも、全てここにはない。「天馬司人形だ!嬉しいだろう!」と言って、輝く笑顔でプレゼントしてくれたかわいらしい人形も、僕の手元にはもうなかった。
司くんとの大切な思い出。それが、この部屋にはたくさん詰まっている。
ベランダに出て、一緒に星を眺めた夜。僕が星ばかり見ていると、司くんは「隣に輝かしいスターがいるというのに、いつまで星を眺めているんだ!」とプンプン怒り出したことがあった。僕は、司くんがあまりにも煽情的(お風呂上がりでケアしたてだったからか、唇がいつも以上にぷるぷるしていて、今にもキスしたいと思うほどだった)だから、あまり司くんの方を見られなくて、星を眺めていたのだけれど。でも、拗ねたように唇をツンと出している司くんがかわいくて、結局キスしたのは、いい思い出だ。
それに、あのキッチンでは、よく一緒に料理をした。僕が頑なに野菜を食べようとしないため、司くんは仕方ないとばかりにみじん切りにして、味が分からないようにしてくれていた。ああ、後、司くんのエプロン姿が煽情的(司くんの夏場の部屋着は短パンが多く、その上にエプロンをつけると、まるで裸エプロンのようになるのだ)で、料理中にお触りをしようとする僕に、司くんが怒るというのも、いつもの光景だった。
こうして思い返してみると、なんだか僕はいつも怒られている気がする。けれど、僕も最近司くんに怒ったことがある。だって、司くんが、勝手にこの部屋の思い出をなかったことにしようとしたのだ。あまりの悲しさに僕が涙を流して取り消してほしいと頼んでも、「もう決めたことだ」と言って、司くんは取り合ってくれなかった。もっと早くに僕が気づいていれば、こんな最悪の事態は防げたのだろう。けれど、後悔してももう遅い。司くんの様子に気がつかなかった僕が、きっと悪いんだ。
僕は、二人掛けのソファーが置いてあったところに座り込む。きっと、僕たち二人が一番一緒に過ごした場所だ。もう、そのソファーもないけれど。
「おーい、類!」
ああ、司くんの声が聞こえる。そう言えば、僕がソファーで寝落ちしてしまったとき、こうやって司くんが起こしてくれたなぁ。
だなんて思い出にふけっていると、部屋の扉が開かれた。
「なんでそんなところに座り込んでいるんだ!?」
「色々思い出していてね……」
「なぜ今なんだ!早く大家さんのところへ行って、退居手続きをしないといけないだろう!」
司くんはまたプンプンと怒っている。けれど、僕の方が怒りの気持ちは大きいはずだ。
「だって!司くんが勝手にこの部屋を手放そうとするから!」
「なんだと!?引っ越すのだから、当たり前だろう!」
「当たり前じゃないよ!この部屋には、僕たち二人の思い出がたくさん詰まっているんだよ!?引っ越すとしても、僕はこの部屋も借り続けたい!」
「いや、なんで二つも部屋を借りる必要があるんだ!?」
司くんは、全く訳が分からないと言った表情でこちらを見てくる。いや、訳が分からないのは、僕の方だ。司くんとの大切な思い出を手放すだなんて、僕にはできないというのに。
「ほら、そんなことを言っていないで、早く大家さんのところへ行くぞ!」
そう言って司くんは僕の腕を掴んでくる。けれど、僕は抵抗するために、体育座りをして顔を埋めた。大家さんと退居手続きなんてしたら、それこそこの部屋から出ていかなくてはならなくなる。断固拒否だ。
「はぁ……。類、顔を上げろ」
「嫌だよ」
僕はさらに顔を埋めて、抵抗の意志を見せる。すると、司くんは僕の顔を掴んで、無理やり顔を上げさせた。今、僕の首からぐぎっという音が聞こえた気がする。
僕が恐る恐る首をさすっていると、司くんが真剣な顔で僕と目を合わせてきた。
「類!オレを見ろ!」
司くんにこう言われて、見ないわけにはいかない。そう思って司くんと目を合わせる。すると、司くんは嬉しそうに微笑んだ。
「類。お前は、思い出の中のオレが大切なのか?いや、違うはずだ。類は、オレがいれば、それだけで十分だろう?」
そう言う司くんは、あの日一緒に見た星空よりも、キラキラと輝いていた。
ドクン、と、僕の心臓が音を立てる。
ああ、大好きだ。
「もちろんだよ!司くんがいれば、それだけで僕は幸せだよ」
「そうだろう、そうだろう!」
「フフフ、司くん、大好きだよ」
「ああ、オレもだ!」
司くんがニッコリと笑った。僕も、司くんが愛しくて、抱きしめようとする。
「さて、それでは、さっさと退去手続きをするぞ!」
「えっ」
けれど、抱きしめようとした腕は、空を掴んだ。司くんはさっと立ち上がって、大家さんに電話をかけている。あまりの切り替えの早さに、僕はついていけない。だって、さっきまで甘い雰囲気だったはずだ。だというのに、司くんはもう退去手続きを進めている。
もしかして、さっきのあの話は、早く手続きを済ませたくて、したのだろうか。
僕はさみしくなって、ポケットに忍ばせていた司くん人形(司くんからプレゼントされた天馬司人形ではなく、自作のものだ)を撫でた。
そして、人形に誓う。新居についたら、思う存分司くんに甘えるのだと。司くんがそんな態度をとるのなら、僕も好きにさせてもらうのだと。
後日、司くんが解約したあの部屋は、ある人物によってすぐに契約されたことを、司くんはまだ知らない。