最高で最後の恋 好きな女の子が居た。
彼女ーー中学のクラスメイトだった■■さんは、どちらかといえば大人しく目立たない、地味なタイプの女の子だった。優しい雰囲気があって、笑うと愛嬌があって、どうしてそう思ったのか、今となってはよく覚えていない。
足下で骸となった父娘の無惨な姿に目を落とす。
「……夏油」
好きな女の子が居た。
もう、二度と会うことはないと思っていた。
最後に会ったのは西武新宿駅の喫煙所。本当は会いに行くつもりなんてなかった。もっと言えば、好きになるつもりなんて無かった。ーー彼女だけは抱かないだろうと思っていた。
好きだからこそ、大切にしていたつもりだった。
三人でいる限りは手出しをすまいと決めていたはずだった。
なぜ抱いてしまったのか、今となってはよく覚えていない。
「怪我をしているのか?」
「返り血さ」
新宿のなかでも新大久保に近く、人通りが少ない路地裏。
人払いは家族たちに任せて、帳を下ろさず暗闇の中で猿二匹の命をこの手にかけて、らしくもない感傷に浸っていたまさにその時だった。
久々に顔を合わせた家入硝子は、あの頃よりも髪が伸び、どこか大人びたように思う。生臭い血の匂いの中に、かすかに、ふんわりと、どこか懐かしくも儚い春の匂いがしたような気がした。
なぜだろう。こんな血溜まりの中で、雑踏の喧騒から隔離されたこの暗闇の中で、硝子だけがはっきりとその存在を浮かび上がらせている。
「それは」
足下に転がる二体の骸に視線を向けながら、硝子はいつもと変わらない様子で話しかけてくる。彼女の言う犯罪者であるところの私に、だ。
「金も無い、自分の立場もわかってない猿に生きている価値なんてないからね」
「君がやったんだな」
片方は、中学の時のクラスメイトだった。
あの頃大人しく優しかった■■さんは、大学の頃に父親が盤星教に出会い、親子ともども多額の寄付を行っていたそうだ。園田が死んでからは上手く立ち回っていたが、最近は金まわりが悪くなり、気立の良い娘を使って今の立場を維持しようと、ーー私に色仕掛けを行うようになった。
いくら有数の反転術式の使い手であろうと、この猿二匹を蘇生することはできないだろう。
硝子は冷静だった。
冷静に、私だけを見つめていた。
「こんなところで会うなんて思いもしなかった。会いにきてくれたのかい?」
あの頃から、硝子が高専を出ることは珍しいことだった。ましてや、1人で出歩くなんて以ての外の話で、だからこそ、悟に存在を気取られながら、派手に立ち回る姿を遠巻きに眺めながら、もう一方のクラスメイトと会うことは出来なかったのだ。
最近はよく高専を開けているという話も聞いていた。不思議と、近くにその存在を感じていた。それでも、接触をすることはなかった。
「ああ、会いにきたよ」
かつて、硝子がこんなにも素直に心情を吐露したことがあっただろうか。
いや、硝子はいつだって正直で、素直で、嘘をつくことは滅多にない。
しかし、きっと一般的な感覚の持ち主よりもずっと、自らの心情に鈍感なのだと思う。誰かに大きく感情を発露させることはなく、いつだってのらりくらりと、だからこそあの日、私は彼女の手を掴んで走ることをしなかったのだから。
「……私のことが忘れられない?」
「忘れたことなんかない」
それがどうして、顔色ひとつ変えない中にも、その視線の中に、確かに硝子の感情の揺れが見えた。かつて繋がった呪力が呼応するように、私の身体の中心で、心臓が跳ねた。
返り血に塗れた手で、その肩を抱くことに逡巡などなかった。
「……一緒に行くかい?」
今なら一緒に来てくれるだろうか。
なんて。
本当はあの日、硝子に声をかけるつもりなんてなかった。
誰にでもわかってほしいわけじゃない。でも、ーー同じ春を共にした君たちなら、言わずともわかってくれるかもしれない。
「意味分かんねー」と笑う硝子が、「説明しろ」と激昂する悟が、同じだと信じたかった二人のクラスメイトに幻想を打ち砕かれたような気さえした。
まさか、なんでもないような顔をして佇むその姿にーー、あの日の私は、本当は失望なんてしたくなかった。
でも、今はそうじゃない。
「行かないよ」
「……そう言うと思った」
腕の中で、硝子が笑う。
きみたちが、迷わず私の手を取ることができるような人間であればーーきっと、私はこんな道を歩まなかったのだろう。ーーきみたちがそうやって、当然のように自己を犠牲にし他者を救い続けることができてしまうからこそ、私はーーきみたちのことが大切で、どうしようもなく、遠いんだと気づいてしまったのか。
「ねえ、なんで私と寝たの」
言葉で私を拒みながらも、腕の中から抜け出すこともせず、硝子は言った。
あの日、人生で一番と言ってもいい、最高のセックスをした。
きっと、あれほどの夜はもう無いだろう。恋心なんて可愛らしいものは、あの日あの部屋のベッドに置いてきたのだから。
「好きだったから」
「……やっぱりクズだな」
目を伏せたまま、硝子は自嘲気味に笑う。
ーー本当さ。
そう囁こうとした唇を、硝子に遮られる。
あの日身体と共に繋がった呪力がさらに増幅するような、そんな不思議な感覚に身を任せるようにして、血に塗れた腕で硝子の背中を掻き抱いて、間髪いれず侵入する舌に応えた。
あれ以来、激情に身を任せるようなキスなんてしていない。
単なる性欲処理以上の行為なんて、もう二度とするつもりはなかった。
「硝子、一緒に来てくれなんて言わないから、今夜は帰らないで」
それなのに、気がつけばそんなことを懇願してしまった。
「……バカだね」
私が好きだった女の子は、この手を振り解くことはしなかった。