Letters From (Another) New York(書きかけ)「あなたは私のヒーロー」
金色で書かれた文字は、そこだけわずかに膨らんでいる。年季の入ったグリーティング・カードは、未使用だというのに少しくたびれて見えた。穏やかなペール・ブルーの背景に、手描き風の字が光っている。筆豆とは言えない僕がこんなものを手にしているのは、強盗を捕まえたお礼にと文具店の店主に押し付けられたからだ。流行遅れのペン、手紙を送るには大きすぎる封筒、黄色くなりかけているセロハンテープなどと一緒に。カードを手にした彼女はこう言った。「ヒーローへのお礼にはピッタリ」とかなんとか。たぶん、父の日か何かの売れ残りだったのだろう。売り場でずっと埃をかぶっていたことがうかがえる。
メイおばさんに送るクリスマス・カードを除けば、カードを送る習慣は僕にはほとんどなかった。それでなくとも、ほとんどを電子メールで済ませてしまう時代だ。今思えば、ベンおじさんに父の日のカードを贈れば良かった。でも小さい頃の僕は、おじさんを父親と呼ぶのが怖かった。そうしたら、父さんが死んだことを本当に認めなければならない気がしたから。
お礼にもらった品というのは、たとえそれが体よく押し付けられただけであっても捨て辛い。でも、こんなカードを贈る相手なんて僕にはいなかった。じっと眺めていると、ふいにカードを送りたい相手を思いついた。なんだ、簡単なことじゃないか。僕にとってのヒーローといえば彼だ。それにブルーの色合いが、彼の目を思い出させたから。
ピーター2。別の宇宙で出会った、もう1人の僕。道を踏み外そうとするあの子を迷いなく止める姿を見て、ああ彼は本当にヒーローだと、そう思ったのだ。
カードを開くと、真っ白な内側にメッセージを書きつけてみた。厚い紙にペンが滑る感覚は久しぶりだった。近頃はメールやメッセジーアプリばかり使っているから。
「君はみんなのヒーローだけど、ぼくにとってはそれ以上だ ピーター3より」
まるでずっと温めていたみたいに、メッセージはすらすらと出てきた。素直な気持ちだったが、冷静に読み返してみると、だいぶ恥ずかしいことを言っている気がした。「それ以上」。それ以上ってなんだ? まあいいか。だって、どうせ本人に渡すわけじゃないんだから。渡したくとも、彼は別の宇宙にいる。自分の宇宙に帰ってきてから何度かマルチ・ユニバース間の移動を試みたけれど、成果は芳しくなかった。本当に、かなり本気で試したのだ。ピーター2にもらった電話番号も、結局つながらなかった。
「たった1人のヒーロー」でいることには慣れていたはずなのに、僕はかなり打ちのめされていた。あの2人に会いたくてたまらない。
そういえば、ピーター2と話していたとき、彼の住所が僕とまったく一緒だということを知った。電話はダメだったけれど、手紙はまだ試していなかった。科学オタクたるもの、あらゆる可能性を試さなくては。やはり文具店の店主に押しつけられた封筒を取り出して、自分の住所を書いてみた。カードを入れ、封をする。僕は切手を買うと、封筒に貼り、ポストに投函し、路地裏で車泥棒を何人か退治して家に戻った。自分の家あてに手紙を出すなんて、ジョークみたいなものだ。でも、冗談にすぎないとしても、気分がよかった。「ピーター2に手紙を書く」というシチュエーションには、なんだか僕を高揚させる力があった。
ささやかなロマンを味わった後は、いつもどおりの日常だ。寝る。起きる。パトロールをする。悪党と戦う。人助けをする。合間に仕事をして、JJJとやりあって、また悪党と戦う。ボロボロの体を引きずって、ようやくアパートに帰ってくる。鍵を開けておいた窓から部屋に入って、そうだ玄関だ、と思い出した。郵便受けを覗くと……見覚えのある封筒が入っていた。やっぱりね、なんて思いながらも少し傷ついていて、どこか期待していた自分がいたことに気づく。僕の人生はあり得ないことばかりが起きてきたから、もう一度あり得ないことが起きたって、さして不思議ではないような気がしたのだ。誰かに向けた言葉がどこにも辿り着けないというのは、悲しかった。まるで、言葉が死んでいくのを見るような心地だ。僕は封筒を取り出す気になれなくて、郵便受けに寝かせたままにした。もう着替える気力もなくて、スパイダーマンのスーツのままベッドに寝転がった。
僕のむなしい実験は終わり、夢想に心躍らせる束の間の休息も、もうこれっきり……のはずだった。
ヒーロー活動や研究に没頭して社会生活を捨てがちな僕でも、ときどきは郵便受けを確認する。だからその日、自分宛に出した手紙が無くなっていることに気がついた。おかしい。取り出した覚えはないのに。代わりに誰かからの手紙が入っていた。見覚えの無い、薄ピンク色の封筒。差出人は……ピーター・パーカー。
全身の血が、一瞬にして逆流したような気がした。心臓が早鐘を打ち、全身の毛が逆立つ。まさか、そんなはずない。手が震えそうになるのを必死に押さえて、おそるおそる封を開けた。中から出てきたのは、真っ赤なグリーティングカード。ケーキの絵と、ポップな文字で「きみはアメージングで、この世にたった一人」なんて書いてある。たぶん、本当は誕生日に送るカードだ。深呼吸を一つしてから、カードを開く。大丈夫。僕はいい年をした大人で、ヒーローで、だからめったなことじゃ動じないはずだ。
「ピーター3へ」
心臓が止まるかと思った。もし耐えきれずに叫んでいたら、アパート中に筒抜けだっただろう。(もちろん、僕のアパートは壁が薄い。)
「ピーター3へ
感動的なカードをありがとう。正直に言って、最初はイタズラかと思ったよ。でも、この呼び名を知っているのは僕ら三人だけなのだから、きっと君なんだろう。いや、君であってほしい。
マルチバースの神秘には驚かされるばかりだ。手紙を待ってるよ。
ピーター2より」
Rのはらいの丸み。少し傾いたN。それは清々しいほど、僕の字ではなかった。僕はその短い文を何度も何度も読んだ。「きっと君なんだろう。いや、君であってほしい……」文字を指でなぞりながら、思わず口に出していた。ああ、マルチバースの神は、なんて気まぐれなんだろう。宇宙間移動をしようとする僕の努力をさんざん嘲笑っておきながら、こんなふうに僕をもてあそぶなんて。僕はもう一度、カードと封筒をまじまじと眺めた。封筒に切手は貼られておらず、もちろん消印もない。まるで、誰かが僕の郵便受けに直接放り込んだみたいに。
こんなことになるなら、もっとちゃんとした手紙を送れば良かった。自分が出したカードが、ひどく恥ずかしいものに思えた。僕は机を引っかき回して、なんとか便せん……などという洒落たものは持っていないので、大学のときに使っていたレポート用紙を見つけ出した。このさい、罫線があればなんでもいい。
「ピーター・パーカー様へ」
そこまで書いて、むず痒い気持ちになった。そういえば、自分宛てに手紙を出すセラピーがあった気がする。気を取り直して、もう一度ペンを走らせる。
「ピーター・パーカーからピーター・パーカー様へ
どうしよう、ものすごく興奮してる。状況から推測するに、君の郵便受けと僕の郵便受けが何らかの形で繋がったということだろうか。これって、マルチバースの奇跡だ。この仕組みを解析すれば、宇宙間の移動もできるかもしれない」
そうしたら、真っ先に君に会いに行きたい。これは書くのをやめておいた。2通目の手紙としては、少々情熱的すぎる気がしたのだ。
「追伸。自分がキアヌ・リーヴスだなんてうぬぼれるつもりはないけれど、これだけ確認しておきたい。今は2023年の冬だ。そっちはどう?」
ピーター2は恋愛映画を見るだろうか。彼がどれくらい僕と共通した趣味を持っているかわからないけれど、少なくとも僕と同じなら、映画は好きなはずだ。こんな状況、時を超えて文通する、あの映画を思い起こさずにはいられない。もちろんここはシカゴではなくニューヨークだし、ピーター2もサンドラ・ブロックでないことは確かだ。でも、マルチバースの仕組みがまったく分からない以上、僕の宇宙と彼の宇宙では時間の流れが違うことだって、十分ありえそうな気がした。
僕は仮説を確かめるべく、封筒に入れた手紙をそのまま郵便受けに置いた。誇張ではなく15秒ごとに郵便受けを覗いては、手紙がまだそこにあることに落胆した。このままじゃ郵便受けから離れられなくなる! 僕は危機感から、パトロールに出ることにした。スウィングして風を切り、悪党と戦っている間は、少なくとも手紙のことを考えなくて済む。その日のニューヨークはいつもと同じだった。ひったくりと車泥棒をちゃちゃっと捕まえて、高所作業中に落ちそうになった作業員を助ける。歓声を上げるニューヨーカーとハイタッチして、デイリー・ビューグルに買い取ってもらうための写真も撮っておく。家に戻ると、もう日が暮れていた。
おそるおそる郵便受けを覗く。手紙は消えていた。叫びたい気分だ。あとはマルチバースの郵便屋が、無事にピーター2のところへ届けてくれることを願うだけだ。
家に帰って郵便受けを見るのが一日のうちで最も楽しみな時間だなんて、今までの人生でこんなことはなかった。今では暇さえあれば郵便受けを覗くのが習慣になっていた。ピーター2のところにもう手紙は届いただろうか。返事を書いてくれただろうか。一日中、そんなことばかり考えている。
そしてとうとう郵便受けにクリーム色の封筒を見つけたときには、思わずそれを抱きしめて、熱に浮かされたようにベッドに倒れ込んだ。こんなに小さくてささやかな手紙が、マルチバースを旅して僕の手の中へやってきたのだ。なんだか開封するのが勿体ない。
「アメイジングなピーターへ
さっそく返信をありがとう。僕もぜひともこの宇宙間移動の仕組みを解析したいところだけれど、今は少し、この奇跡の幸福に浸っていたい気がする。せっかくマルチバースの気まぐれが僕らにチャンスをくれたのだから、少し君のことが知りたい。あの後どうしていたか、ずっと気になっていたから。君が少しでも心穏やかに過ごせていることを願っているよ。きっとそっちの宇宙でも、ニューヨークの冬は寒いだろうね。温かくして、体に気をつけて。
親愛なる隣人より。
追伸。こちらも2023年の冬だ。ところで、キアヌ・リーヴスって?」
どうやら、ピーター2の世界には時間を超えて文通をする映画はないらしい。そして、僕らの間にそれほど時間の差がなさそうなのは朗報だった。ただでさえ宇宙を隔てているのに、時間まで違っていたら厄介だ。それにしても、ピーター2に心配されると、本当に「お兄ちゃん」みたいでこそばゆかった。そんなことで喜ぶ年齢じゃないのに。