星を溶かす潮騒 ふとした瞬間、どうしようもない程に胸が灼けるように熱くなる。
辛口のスラーダを一気に飲み干した時よりも存護の炎を纏っている時よりも、ずっとずっと熱くて全身が焦げてしまいそうなくらい。
今だってそうだ。
星穹列車のロビー、時間が取れたからと顔を出しに来てくれた景元と丹恒が話している。何を話しているのだろうか、丹恒の表情はわかりにくくはあるが穏やかで柔和な雰囲気を纏っている。時に意見を交わし、時に世間話をして、時に昔の話をする。
(………嗚呼)
何回目だろう、あの丹恒を見るのは。
見る度に胸の奥がきゅうっと縮んで胸が張り裂けそうになる。
今日が初めてじゃないし、きっとこの先も見ることになるであろう風景。でも今日だけは、本当に今日だけはそれがどうしても見たくなくって。
踵を返す。努めて静かに、足音をさせないように。燃える胸を押さえつけて、誰からも怪しまれないように忍び足でロビーを出て。
そうして俺は逃げるように列車を飛び出した。
燃えている。
息が切れることなんてお構いなしに俺は走る。
ずっと燃えているんだ。
周りの奇異な視線を物ともせず、長楽天の往来を駆ける。
何が燃えている?
「わかるわけない…」
やっと速度を緩めて、少し歩いてからしゃがみ込む。
胸は足早に鼓動を鳴らして、足は殆ど棒同然。
なのに歩みを止めたく無くて、穹はすぐに立ち上がって当てもなく歩き続ける。
目的地なんて無い。ただただ列車から1ミリでも離れたくて、もう誰の顔も見たくなくて。でも脳裏に浮かぶのは懐古の情に花を咲かせる彼の顔ばかりで。
「何これ、意味わかんないよ」
人の感情は複雑だ。複雑すぎて、産まれたばかりの俺では理解することも出来ない。
胸の内の蟠りを掻きむしるように服を掴めど、熱は消え去るばかりか服に皺を残していくだけ。
気付けば綏園まで歩いていた足と自分の感情一つわからない脳髄が恨めしい。
結局、全速力で走った足はこれ以上足跡を残すことも出来ず、穹は朽ちかけの柱に身を預けて座り込む。
涙は溢れない。悲しくは無いからだ。
振り上げた拳は終ぞ地面には叩きつけられない。怒りと呼ぶにはあまりに稚拙だから。
アンカーを辿って列車に戻る気力もない。だってそれをするには自分はあまりに走り過ぎたから。
「ばかみたい」
肩で息をする呼吸で呂律も回らなくなった罵倒は、広大な自然に溶けていく。
はずだった。
「小僧、自己嫌悪なら他所でやれ」
現れるには突拍子が無く、無視するにはとても甘美だった声掛けに穹は弾かれるように顔を上げる。
「じ、んちゃん」
その呼び方をして咄嗟にマズったなんて思ったけど、あのボロボロの剣が振り下ろされることはなかった。
刃は最初の言葉以降、何も言わない。
その沈黙が今の俺には何とも都合が良くて。
「ねぇ、刃ちゃん。
─────少しで良いから、俺を攫って」
「三月」
「穹の場所なら知らないよー」
「…まだ何も言ってないが」
「だって丹恒ってば、穹がいなくて私に声をかける時っていつもそれ聞くんだもん。いい加減覚えるって」
「そ、うだったか」
「うそ、自覚なかったの!?丹恒先生意外ににぶちん?まぁいっか、穹なら夜には帰ってくるんじゃない?」
夜には帰ってくる。その言葉を信じて丹恒は資料室に戻る。景元将軍との話で広めた知見をアーカイブに残しておきたかったからだ。穹が帰ってきたら他愛も無い話に付き合えるように、以前は考えもしなかったお茶とお菓子を棚に置いて。
けれど、穹が帰ってくることはなかった。
攫って、と言ったものの連れてこられた場所は何の変哲もない星にある少し良いホテルの一室だった。秘密の隠れ家のようなものを想像していた穹は星核ハンターは思ったよりも小綺麗な生活をしていたのだと面を食らう。
「あれ?穹だ。なになに?星核ハンターに勧誘したの?」
ツインのベッドに寝転ぶ見知った小柄な少女、銀狼は突然現れた穹にゲームを中断して近付いてくる。彼女にゲームを中断させるくらい穹の来訪は驚きのものだったようだ。
「えーっ、と…」
どう説明したものか刃の方をチラリと見るも一瞥もくれてくれない辺り、自分で説明しろということらしい。
「列車にちょっと帰りたくなくて…、刃ちゃんに頼んで連れてきてもらったんだ」
「へー!刃ってそんなことしてくれるんだ。…てかよくちゃん付けで怒られないね」
「なんか今日は怒られないや」
波長が似てるからだろうか、それともゲームをやる者同士だからか銀狼がいると話がしやすい。ここに来るまでの刃との沈黙も悪くはなかったが、こうして話せるのはやはり楽しいものだった。
「ねぇ穹、ゲームしようよゲーム」
「いいけど、脚本は?」
「幕間ってやつだよ。要はきゅーけー」
「ふーん」
脚本についてはよくわからないが、要は今すぐにやるべき任務は無いということだろう。脚本に休みがあることは初知りだが、銀狼が脚本のために毎日あくせく働いている姿は想像出来ないので残当である。
「そういえば穹が来てること、カフカとサムは知ってるの?」
「え、どうだろ、カフカに聞いてみるか。繋がるかわかんないけど」
「呆れた、カフカのメッセ知ってるんだ」
「前にあっちから来たことあるんだよね」
メッセージの内容を考えてみて、星核ハンターに戻ります!みたいなものにしようとして結局素直に来た旨を懇切丁寧に説明することにした。
“列車に帰りたくなくって歩いてたら刃ちゃんに会ったから、ちょっと一緒のホテルに置いてもらってる。銀狼もいる”
シュポっという小気味良い音がした後、メッセージの横にすぐ様既読の文字が付く。画面を横から覗いてた銀狼と顔を見合わせる。考えてることは一緒のようだ。
“ホテルにいるのね、貴方の気が済むまで居るといいわ。私とサムも用事が終わったら合流するから”
適当なスタンプを返してスマホを置こうとすると、突如狂ったかのようにスマホが大音量の通知を掻き鳴らす。液晶に映るのは丹恒の文字と電話の応答と拒否の文字。
まさかと思ってメッセージを開くと丹恒から鬼のような通知で溜まっている。
「やば」
茶化すように笑う銀狼から隠すようにスマホの電源を切る。丹恒に会いたく無くてここに来たのに今電話に出ては意味がない。
「据え置きのやつやろう銀狼。俺のスマホは死んだ」
「列車の護衛役くんって乙女ゲーのフラグ建てるのは凄い大変なのに建ったら束縛してくるタイプだよね」
答えは返さない。ちょっと身に覚えがあるからだ。
「なに、彼氏?」
「ちがっ…!違います勘弁してください銀狼さん。この部屋には地雷原が2人もいるんですよ」
大声で否定しようとしてそういえばこの部屋には刃が居ることを思い出す。詳しいことは知らないが丹恒と刃がただならぬ仲なのは百も承知だ。折角の家出先が来て早々血塗れ部屋になるのは御免被る。
「ふーん、まいいけど。何やる?格ゲー?それともボドゲ系?」
「全部やろう」
「そうこなくっちゃ」
正直に言おう。めちゃくちゃ楽しかった。銀河伝説100年やった時とか脳汁が出た。後半はカフカとホタルも合流してみんなでパジャマパーティして雑魚寝したし、なんならみんなで写真撮ったしテンションが上がって隣で寝てる刃ちゃんとツーショットも撮った(勿論盗撮だ)。刃ちゃんは溜め息吐きながら雑魚寝に付き合ってくれたし、夜更かしは美容の大敵って言いそうなカフカが雑魚寝を提案した時は思わず本物かを疑ったくらいだ。一夜を明かしてからはホタルとカフカとショッピングに行って、刃ちゃんと裂界生物を丸めて、銀狼とはゲーセンで散財した。
「穹さー、列車に戻るの嫌ならこのまま星核ハンターになっちゃえば?」
耳を覆いたくなるほどの電子音の群れの中でポツリと溢れた銀狼の声に、クレーンゲームのレバーを動かす腕が止まる。銀狼はディスプレイを見たままだが、その言葉にいつもの揶揄うような軽さはない。銀狼の横顔と着実に減っていくクレーンゲームの制限時間。レバーを動かしてボタンを押す。
「でも、やっぱり列車に戻るよ」
アームが軽快な音共に降りてぬいぐるみを掴む。
「そ」
少しずつ持ち上がって、でも結局はぼとりとアームから離れて地面に跳ねて落ちた。
「やっぱ確率機はダメだね」
軍資金も尽きたし帰るか、なんて言いながら自動ドアを潜って、穹と星核ハンターは別々の道に別れていく。
「楽しかった、ありがとう」
なんて振り返って手を振ればカフカは微笑みながら手を振り返してくれて、ホタルはまたねって笑いながら大きく手を振ってくれる。銀狼は…少し機嫌が悪そうに振り返らずにスマホだけを軽く振ってくれる。刃ちゃんはそんなもの特に無く歩き去って行く。
「…帰るか!」
大きく伸びをして列車に紐付けられたアンカーを起動する。
(丹恒、怒ってるかな。怒ってるよな)
エーテルが俺の体を分解し、列車内のアンカーが再構築して行く。
(でも俺も寂しかったしお互い様だよね?)
「…あ」
そっと閉じかけた瞼を開ける。
漸くわかった胸を燻る熱の名前。
「そっか、俺」
寂しかったのか。なんて。
見慣れた列車に降り立ち、穹がすぐにやったことと言えば周囲を見渡してこっそり自室に戻ることだった。穹が列車を出て約32システム時間。スマホはまだ電源を入れてない。
ロビーを抜けて客室車両に足を踏み入れる。穹の自室は一番奥。そこまで行くには列車メンバーの客室の前を通る必要がある。
客室車両は閑散としている。ロビーと違って廊下には音楽の一つ流れていないし、人が生きている気配すら薄く暗い。
「よかった、全員寝て、そ、」
瞬間聞こえてきたのは扉を開ける音と折れそうなくらいに強く握られた腕、一瞬の浮遊感と耳の奥で木霊する古海の潮騒。
(あー…)
逃げられなかったなぁ