3.3.
「フロイド」
名前を呼ばれ、フロイドは顔を上げる。ベッドの上でうつ伏せになっていたフロイドは、そろそろ寝ようかな、と読んでいた雑誌を閉じたところだった。今日はすっかり教室で眠りこけてしまったせいで、肩と首の筋肉が少し痛む。
「なぁに~?」
「ちょっとこちらへ」
片割れに手招きされ、ベッドから降りる。ジェイドは自身のベッドに腰掛けて、何やら小さな物を手にしてフロイドを待っていた。
「……爪切り?」
「ええ」
こてん、と首を横に傾けるフロイドに、ジェイドの唇は弧を描く。
「爪が伸びてきたでしょう。切って差し上げます」
「えー?」
フロイドは爪を切る行為があまり好きではない。切るのも嫌だし、削って磨くのも嫌だ。人間の体は直ぐに爪が伸びるのが煩わしい。
「伸びたままにしておくと、欠けたりしますよ」
ジェイドはそう言って、フロイドを自身の横に座るように促した。あまり気乗りはしないが、フロイドは素直にジェイドのベッドに腰を掛ける。
ジェイドはシーツの上に投げ出されているフロイドの手を掴み、体が互いに向かい合うように座り直した。そうしてフロイドの長い指を優しく持ち、伸びた爪を切り始める。
パチン、と部屋の中に切る音が響いた。白く小さな爪の欠片が、ジェイドが準備した紙の上に落ちてゆく。
目の前には片割れの顔。長い睫毛が影を作り、いつも自分を見つめるオッドアイは伏せられている。爪を切るだけなのに距離が近い。時折身を屈めるものだから、フロイドの目線にジェイドの旋毛が良く見えた。
当たり前だが、自分の顔をしょっちゅう鏡で見ているわけではない。今目の前にいるジェイドの顔の方が、余程フロイドは普段から見ているわけだ。俯き加減のジェイドの目を、さらりと隠す美しい髪の色。白皙の肌と、通った鼻筋。いつも毒を吐く紅色の薄い唇。この顔が自分とそっくりだと言われるのは、フロイドには不思議な気分だった。
パチン。
ジェイドは丁寧にフロイドの爪を切り揃え、最後にヤスリを掛けてゆく。思っていたよりも時間が掛かる作業だ。いや、ジェイドが丁寧過ぎるのせいなのだろう。「爪の表面は今度磨かせてくださいね」と下を向いたまま言われ、フロイドは抗議の声を上げたが、それはあっさりと無視をされた。
「……少し、切りにくいですね」
指二本分の爪を切ったところで、不意にジェイドの手が止まった。他人の爪など切る機会はなかなか無いのだから、無理もない。
「じゃあもうやめよ」
さっさと終わらせようとするフロイドに対し、ジェイドはその手を掴んで引き寄せる。驚くフロイドの体を反転させて腰を抱くと、背中から抱き締めるようにして再びベッドの上に座り直した。二人分の体重を受けて、マットレスがギシっと揺れる。
「えっ、なに。そんなに切りたいの?」
ジェイドの長い足の間に、フロイドの体はすっぽりと収まっている。背中に感じるのは片割れの温もり。まるで逃がさないとでも言うような体勢に、フロイドは目を丸くして後ろの片割れを見るが、ジェイドはいつもの笑みを浮かべているだけだった。
「手を貸して」
優しい声色で言われ、フロイドは反射的に手を出した。ジェイドの白い手が後ろからフロイドの指を掴み、再び爪を切る作業が再開される。
パチン。
パチン。
二人は無言だった。静かな部屋に、ジェイドがフロイドの爪を切る音だけがする。穏やかな空気。兄弟である二人は、互いに気を使う事もなく、沈黙も苦ではない。二人きりの部屋。二人だけの世界。
完全に力を抜いたフロイドは、ジェイドの体に背中を預けて目を閉じる。「重いですよ」と片割れからは苦情の声が上がるが、その吐息が耳に触れるのが擽ったい。
「……眠くなってきたぁ」
「論文、頑張りましたからね」
ジェイドが喋るたび、フロイドの背中には小さな振動が伝わる。耳に心地好い片割れの声と、自分と同じ体温。少し前にシャワーも浴びたので、今はお互いに同じ石鹸の匂いがしていた。
──ほんとに寝ちゃいそ……。
ウトウトと船を漕ぎ始めるフロイドに気付いたのか、ジェイドは吐息だけで小さく笑った。それはやっぱり擽ったくて、フロイドはむずかるように身を捩る。
最後の爪を切り終えると、ジェイドはフロイドの体を倒さないようにしながら、机の上からハンドクリームを手に取った。そうしてフロイドの指のささくれや爪の甘皮に、丁寧にクリームを塗り込んでやる。これを毎日続けてやれば、爪も綺麗になるだろう。
「フロイド」
「んー……」
「足の爪も切っていいですか?」
「やだぁ。も、ねむぅい」
目を擦り、大きな欠伸をしながら、フロイドはジェイドの首筋に懐くように頬を寄せる。片手はまだジェイドに掴まれたままで、まるで手を繋いでるみたいだな、と寝ぼけた頭で思う。
「しょうがないですねぇ……」
頭の上から、片割れの苦笑する気配がする。そう、これはしょうがない事なのだ。だってフロイドは寝不足なのだから。フロイドは昨夜、殆ど明け方まで論文を書いていたのだから。
全く、これっぽっちも手伝ってくれなかった片割れを恨む事はないが、今は爪を切るよりも眠らせて欲しい。放課後、少し教室で眠ったからと言って、睡眠不足が完璧に解消されるわけはないのである。
「自分のベッドに戻れます?」
「んー」
体はもう動かない。きっとこんなに眠いのは、ジェイドの温もりのせいだ。背中を包む温もりが、あまりにも優し過ぎるせいだ。「ジェイドのせいだかんね」、と言う文句は、残念ながら口からは発する事は出来ない。フロイドはもう眠りの淵にいる。
ジェイドは何かを逡巡したのか、暫し黙り込んだ。やがて肩を掴んでフロイドの体を離すと、自身のベッドの上にそっと横たえてやる。
横になったフロイドはジェイドの枕に頬を押し付けて、人間の子供のように体を小さく丸めた。ジェイドの枕も上掛けも、ジェイド本人の匂いがして心地好い。安心する匂い。
「おやすみなさい、フロイド」
大きな手で優しく頭を撫でられるのを感じながら、フロイドはそのまま意識を手放した。