5-25-2.
夕飯は自分達で作るらしい。
たくさんの野菜と大きな鍋を目の前にして、エースはうんざりとした顔になる。
「フツーは、マネージャーとか食堂のおばさんとかが作るもんじゃないんすか……」
ぐちぐちと文句を言いながら野菜を洗うエースを尻目に、フロイドとジャミルは具材の皮を手早く剥き、手頃な大きさに刻んでゆく。ジャミルはいつもカリムの料理を作っているし、フロイドはモストロラウンジで働いている。二人共、調理はお手のものだった。
皆で食べる食事は楽しい。そもそも学園の生徒達は寮生活で大勢での食事は慣れてはいるが、それとこれとはまた違う。定番のカレーは美味しく、食べ終わったら皆で皿を洗って片付ける。ずっと機嫌が悪そうだったフロイドも、この頃にはまた機嫌が戻っていた。
皆で入る大浴場はフロイドには初めての経験だ。それはエースも同じだったらしく、
「俺、大浴場って初めてで……」
と、裸の付き合いを気恥ずかしそうにしている。部員達の中にはシャワーで済ませる者も多く、国によって入浴の文化が違う事を窺わせる。人魚のフロイドにとって、裸体は抵抗がないのだが。
「人魚って、熱いお湯とか大丈夫なんすか?」
フロイドの背中を洗ってやりながら、エースが首を傾げる。エースもジャミルも人魚姿のフロイドの事は知っているが、その生態まで知っているわけじゃない。
「最初は熱いお湯にびっくりしたけど、今はヘーキかなぁ」
アズールなんて、今では風呂を気に入っているのではないだろうか。
「煮魚になっちゃわないんですね」
「……それってじょーだんのつもりなの? それとも喧嘩売ってんの?」
ニタリと笑いながら凄むフロイドに、エースは「ひえっ」と悲鳴を上げて湯船の方へと逃げてゆく。その背中に、「おい、浴槽には泡を流してから入れ!」とジャミルの叱声が飛ぶ。フロイドは声を上げて笑った。
食事をし、風呂にも入り、大きな広間に布団を敷いて、皆で寝転がる。布団の中で、まだ大人になりきれていない年齢の男達が集まれば、話すのはお決まりの怪談か猥談である。エースは先輩達の話に、顔を青くしたり赤くしたりと忙しい。
トランプをしている者達も居れば、スマートフォンで必死にゲームをしている者もいた。ジャミルは部屋の隅で電話をしている。相手は恐らくカリムだろう。
フロイドも布団に寝転がって、スマートフォンを手に取る。そう言えば片割れに返事をしていない。画面を開けば、アズールが顰めっ面で食事をしている姿や、完成したらしいテラリウムの写真が送られて来ていた。
「……自分の写真はねーの」
はは、とフロイドは小さく笑い声を漏らす。何と返信していいか悩み、結局は『楽しそう』と、ありきたりな反応になってしまった。
直ぐに既読が付き、返信が届く。
『フロイドは今何してるんですか?』
『今から寝るとこ』
カメラを起動して、布団を被って震えているエースの写真を撮った。気付いたエースに「何撮ってんすか!」と抗議の声を上げられたが、無視してジェイドに写真を送る。
『楽しそうです』
また直ぐに返信が届く。そして、『フロイドの写真はないんですか?』と、先程自分が思った事と同じ返事が返ってきた。なるほど、流石は兄弟だ。
フロイドはうーん、と天井を仰ぎ、結局カメラを内側にして、自分の顔を写真に撮った。愛想もへったくれもない顔をした、ただの自撮りである。
それをジェイドへと送ると、やはり直ぐに返事が来る。
『いま電話できそうですか?』
──は。
スマートフォンを手にし、フロイドは暫し固まった。顔を上げ、周囲をチラリと見回す。皆、自分達の事に夢中で、フロイドの事は誰も見ていない。少しくらい抜け出しても構わないだろう。
フロイドは「トイレぇ」と誰にでもなくそう言って、部屋を出た。
部屋の中は騒がしいのに、廊下はシンとしていて、少し肌寒い。薄暗く、冷たい空間。廊下の床に敷き詰められたえんじ色の絨毯は、まるで血の色のようにも見える。
フロイドは非常口マークが灯る階段へと歩き、片割れへ電話を掛けた。コール音は一度だけ鳴って、直ぐに相手が出る。
『フロイド』
「はぁい。どうかした?」
スマートフォンを片手で持ちながら、もう片方の手に視線を落とす。また、爪が伸びてきている。人間の体は成長が早い。
『不機嫌のようですね』
「そー?」
『ええ、写真の表情がそう見えて』
そうだろうか。
フロイドは無意識に自分の頬を撫でるが、よく分からない。
『合宿はどうですか』
「楽しーよ。みんなでカレー作って食べた」
『それは羨ましいですね。僕もフロイドが作ったカレーが食べたいです』
「その後はお風呂に入ったよぉ」
『お風呂?』
「おっきいお風呂があんの。稚魚なら泳げるくらいの」
『……皆さんで入るんですか?』
「ウン。おっきいからねぇ」
電話の向こうでジェイドが黙り込む。その不自然な沈黙に、フロイドは首を傾げた。
「どーかした?」
『──いえ。明日の夕方には帰って来るんですよね』
「予定ではねぇ」
魔法学校の生徒は鏡を使えば直ぐに寮に帰れる。陸では学校の遠征はバスを使ったりすると聞いていたから、その点だけは少し残念だった。
『それまで寂しいですね』
「え〜? オレが居なくてもジェイドは十分楽しそーじゃん」
そう口にしてから、拗ねたように聞こえただろうかと少し焦る。フロイドは別に、片割れが自由に過ごしているのを否定するつもりはないのだ。ただ少し、ほんの少しだけ、面白くなかっただけで。
「あー……」
今の言葉を誤魔化すように、フロイドは口を開く。
「送られてきたキノコの写真見たよ。あれって食えるやつなの?」
と、早口で言葉を続ける。
『フロイド』
「オレが帰っても、キノコ食べさせんのはやめてねぇ」
『僕は、』
「キノコの味、あんま好きじゃねーし、あの土臭いのも──」
『あなたが居ないと、とても寂しい』
凛としたジェイドの声。
その言葉にフロイドは目を見開き、ピタリと口を噤んだ。何言ってんの──と、茶化す気にもなれない。ジェイドの声が、響きが、それが真実だと告げていたから。
「──…明日には会えるじゃん」
『そうですね。でも、それまであなたが隣にいないのは寂しいです』
スマートフォンを握る手に、力が入る。心臓のリズムが、少しだけ早い。胸の奥のどこかに火が灯ったような気がした。
『フロイドは、寂しくないですか?』
くす、と電話越しに片割れが笑った気配がする。問うその声は柔らかくて、まるで幼子に話し掛けているかのように、優しい。
フロイドは小さく息を吐くと、ふっと体の力を抜いた。
「……オレも、さみしーよ。……ちょっとだけ」
『ちょっと、ですか?』
「ちょっと、だよ」
ふふ、と二人の愉しげな笑い声が重なった。
姿は見えないが、片割れはきっと目を細めていつものように笑っているのだろう。机の前に座り、その机の上にはテラリウムの材料が広げられている。傍らには紅茶と、今日採ってきたキノコ。
その姿を思い浮かべるだけで、フロイドの胸はじんわりと熱くなる。なんだか心が擽ったくて、感情はそわそわと落ち着かない。
この気持ちをなんと呼ぶのか、フロイドには分からない。
だが、悪くはない。
──少しだけ、怖いだけで。
それからしばらく他愛のない話をして、二人はどちらともなくおやすみと言って、通話を終える。
もう何も映さないスマートフォンの画面を見ながら、フロイドは小さな溜息を吐いた。