88.
雨の匂いがする──。
海の底にあるオクタヴィネル寮に居ても、地上に雨が降っているのは分かる。これは勘に近いのかも知れないが、この予想がハズレる事はまずない。
フロイドはのっそりと起き上がった。今日は自分のベッドの上で、一人きり。対面の片割れのベッドはもぬけの殻だ。フロイドを起こさぬよう、そっと部屋を出て行ったのだろう。まだ薄暗い時間帯に。
ここ数日、ジェイドは多忙を極めていた。モストロラウンジの繁忙期。決算。加えて副寮長の仕事。勿論ジェイドだけじゃない。ジェイドと同じくらい、もしくはそれ以上に、アズールはもっと忙しい。フロイドも二人を手伝ってはいるものの、寮長や副寮長の仕事は手助けする事は出来ない。せいぜいモストロラウンジの方を助けるくらいである。
なので最近のフロイドとジェイドは、殆ど一緒に居ない。日中の授業は別々であるし、ジェイドは昼休みも忙しく動き回っている。放課後は副寮長の仕事をこなし、その後はVIPルームでラウンジの書類整理だ。そうして部屋に戻って来るのは夜遅く。シャワーをして、課題を終わらせ、日付が変わってからジェイドは眠りに就く。フロイドとはあまり話さぬまま。
それを寂しいとは思うが、いちいち口にしたりはしない。片割れは過労気味ではあるが、こういう仕事を好きでやっているのである。なら、フロイドは何も言わず、見守るだけだ。少し体が心配ではあるけれど。
顔を洗い、寝癖を整えて、フロイドは制服に着替える。鏡に映る自分は、瞳も髪型もまるでジェイドのようだ。鏡の中のフロイドは、自分の手で耳にピアスを差し込んでいる。とても不機嫌な顔で。
あなたを他の人間に取られたくない──。
あの時。そう口にした片割れを、フロイドは一生忘れないだろう。
いつも笑みを浮かべている片割れが、あんな風に素直に自身の気持ちを吐露するのは珍しい。ジェイドは自分の内面を、他者に隠そうとするきらいがあるからだ。それは幼い頃からの、一種の処世術なのだろうとフロイドは思っている。
ジェイドでも嫉妬なんてするのだな──と言うのが、フロイドの正直な感想だった。
ジェイドはずっと、フロイドを自由にさせてくれている。サポートをし、煽る事はあっても、基本的にフロイドの行動を止める事はない。それはフロイドがする行動がジェイドにとって、「面白そう」だからである。
だが、ああして自身の嫉妬を認めたジェイドは、今後フロイドの行動を制限をしてくるだろう。フロイドが他者と居るのが「面白くない」のなら、邪魔や束縛をしてくる事もあるかも知れない。
「ま、別にいーけど」
鏡に映る片割れのような自分の姿に、フロイドは目を細める。我が強く、執拗な性格のジェイドの事だ、束縛はきっとえげつない物になるだろう。恐らくそれは、フロイドを雁字搦めにして苦しめる。
しかし、ジェイドに嫉妬されるのは悪くない、と言ったのは、紛れもなくフロイドの本心である。これが他の誰かだったなら、絶対に従わないし、絞めるだけでは済まされない筈だ。
どうしてジェイドだけは特別なのか。
兄弟だからなのか。相棒だからなのか。
その理由を、フロイドはまだ良く分かってはいなかった。
「フロイド!」
その一報がリドルから齎されたのは、三時間目の授業が終わった直後だった。まだ教室には授業を終えたばかりの教師が居たし、フロイドも教科書を広げたままだった。
自分を嫌っているリドルがフロイドを呼ぶ事。その顔が慌てたようなものだった事。リドルは片割れと同じクラスな事。直ぐに片割れの身に何か起こったのだと理解したフロイドは、リドルから説明された途端に教室から飛び出した。
後ろからリドルの制止する声が聞こえるが、飛ぶような勢いで階段を駆け下りる。途中、何人かの生徒とぶつかりそうになったが、そんな事は気にしていられない。
フロイドが保健室に飛び込むと、片割れは真っ白なベッドの上に横たわっていた。瞼を閉じ、胸は呼吸に合わせて緩やかに上下している。飛行術の授業の際、箒から落ちて頭を打ったのだとリドルから聞いたのだが、今は眠っているだけのようだ。
打った頭に外傷はなし。箒から落ちたのも、睡眠不足でぼうっとしていたのではないか、と養護教諭は苦笑する。
「……良かった」
安堵の息を吐き、フロイドはパイプ椅子に力なく腰掛けた。全速力で走って来たせいで、胸や肺が苦しい。額には汗が滲み、こめかみからは汗が流れ落ちる。フロイドは息を整えながら、手の甲で流れる汗を拭う。
ベッドの上で眠るジェイドは、小さな寝息を立てていた。目の下には薄らと隈。艶の失った髪の毛。こんな風に片割れの顔を眺めるのは、随分と久し振りだ。
兄弟であるフロイドに気を使ったのか、君も少し休んで行くといい、と言って、養護教諭は踵を返した。その後出て行ったのか、扉が閉まる音と共に、保健室の中には静寂が訪れる。
残されたフロイドは、暫くぼんやりとジェイドの顔をじっと見下ろしていた。時折、ジェイドの睫毛が小さく震え、瞼がピクピクと動く。中で眼球が動いているのは、熟睡出来ていないからだ。
フロイドはベッドの上に投げ出されたジェイドの手を取って、ぎゅっと優しく握ってやる。温かい、大きな手。ああ、爪も伸びている。ジェイドの爪も、フロイドの爪も。ジェイドは自身の爪さえ、切る余裕もないのだ。
「ジェイド」
ジェイドは動かない。真っ白な顔は、まるで死体みたいでゾッとする。
「疲れてんなら、ちょっとは休まなきゃ」
もう片方の手で額に触れ、前髪を掻き上げてやる。手に触れる温かな熱だけが、片割れが生きている事を実感させた。
「もう少し、オレにジェイドの負担を分けてもいーよ」
ジェイドの手を持って、自身の頬にそっと添えさせる。長い指先は乾いていて、ささくれだっていた。
「なんなら、オレがジェイドの振りして副寮長の仕事してもいーし」
アズールは怒るかも知んないけどねぇ、とフロイドは小さな笑い声を漏らす。
「溜まってる課題も手伝ってあげんね。オレの時は手伝ってくんなかったのは、許してやっから」
チクリと嫌味を混ぜながら、フロイドはジェイドの手を握り締める。頬から伝わる、ジェイドの熱。ジェイドの匂い。この熱を感じるのも、数日振りだ。
「あんまり頑張り過ぎないでねぇ」
小さな声でそう言って、ジェイドの指先に軽く唇を落とす。王子様のキスで起きるのは、白雪姫か、眠り姫か。どちらにしろ、唇ではないのだから魔法は解けやしない。
そんなどうでも良い事を考えながら、フロイドはそっとジェイドの手を離した。が、それよりも早く、逆に手首を掴まれ、体が前に倒れ込む。
「は、」
倒れてきたフロイドを腹の上で抱えると、ジェイドはのっそりと起き上がった。髪は僅かに乱れ、体の動きも鈍い。なのに、充血したオッドアイは、爛々としてフロイドを見下ろしている。
「……起きたの?」
「寝てた、という感覚ではないですね」
語尾は掠れているものの、その声は思いの外しっかりとしていた。フロイドの手首を掴む手も、力強い。
「夢現で、フロイドの声は聞いていたのですが、」
ジェイドはフロイドの肩に手を回すと、更に体を引き寄せた。二人分の体重を受け、保健室のベッドが微かに悲鳴を上げる。
「とても可愛らしいことをされたので、目が覚めたようです」
フロイドの目を見つめたまま、ジェイドは自身の指先に唇を落とす。そこは、フロイドが先程キスをした箇所だ。
「あー……えっと、起こしてごめんねぇ」
悪戯がバレた稚魚のように、フロイドは思わず目を伏せる。羞恥から耳が熱くなっているのは、自分でも分かっていた。
「謝ることはありませんよ。心配をお掛けして申し訳ありません」
「ウン」
ジェイドの手が、優しくフロイドの頬を撫でる。まるで猫に触れるみたいに顎の下も撫でられて、フロイドは思わず肩を竦めた。
「でももう少し、フロイドを充電させてくれると助かります」
「充電……?」
問い返すや否や、フロイドはジェイドの腕の中に閉じ込められた。肩口に額を押し付けられ、首筋に片割れの吐息が触れる。
「さすがにもうフロイド切れです。僕は燃費があまり良くないので」
耳許で囁かれるその声は酷く甘やかで、フロイドの背筋はぞくりと震えた。僅かに身を捩って抵抗してみるものの、片割れの腕は離してくれない。
結局フロイドは諦めて、強張らせていた体の力を抜く。すると、ジェイドの拘束はますます強くなる。
──こう言うのも、束縛って言うんかなぁ。
フロイドは小さな溜息を吐くと、自分にしがみ付く片割れの背中におずおずと腕を回した。すると、ビクッとジェイドの肩が、怯えたように震えるのが可笑しい。
片割れの体から香る、ムスクの香り。馴染み深い体温。甘い声。
──充電してるのは、オレの方かも。
いつもより少しだけ速い鼓動を感じながら、フロイドはそっと目を閉じた。