9.9.
また雨が降っているな、と思った。
深い海の底にいても、何故か天候は察する事が出来る。海面にも雷は落ちるし、嵐が来れば波が荒くなって海は危険だ。雨も太陽の光も届かないような海底で育っていても、天候の変化には本能的に敏感だった。
ジェイドはゆっくりと瞼を開けて、暗い天井を見上げる。何か嫌な夢を見ていた気がするが、気のせいだったかも知れない。薄暗い部屋。外の風景を遮断するカーテンと、隙間から見える暗い海。
「ん……」
隣で身動ぐ気配に、ハッとして目を向ける。ベッドの壁際に、こちらに背を向け、丸くなったフロイドが眠っていた。ジェイドが動いたせいで、寝返りを打ち、むずがるような声を上げる。起こすのはまずいな──ジェイドは慎重に上体を起こし、机の上に置いてあるスマートフォンを手に取って、時刻を確認した。まだ起床するには随分と早い時間である。
最近色々と多忙だったのだが、漸く落ち着き、フロイドとこうして眠る事が出来ている。忙しかった時はフロイドと殆ど話す事も出来ず、溜まった鬱積と疲労がピークに達して、先日は不得意な飛行術の授業で落ちてしまった。幸い、そんなに高く飛んでいたわけではなかったので怪我もなかったし(不本意ながら、不得意なのが功を奏したのだろう)、直接の原因は睡眠不足であった。情けない事であるが。
心配し、真っ先に駆け付けてくれたフロイドには、申し訳ない事をしたと思う。もし、ジェイドがただ箒から落ちただけなら、この兄弟は大笑いをするだけだったろう。だが、ジェイドの多忙を間近で見ていたフロイドは、それなりに心配してくれていたのだ。もしくは、そういう気分だったのか。それとも、最近のジェイドに対しての、なんらかの心境の変化か。
肩が出て寒そうに寝ているフロイドに、ジェイドは上掛けを引っ張って掛けてやる。「んぅ」と、またフロイドが掠れた声を上げるのに、ジェイドの心臓はどくりと跳ね、そんな自分に動揺した。最近はこんな風に、フロイドの何気ない声や仕草に、直ぐに反応してしまう。
いつもベタベタとくっ付いている双子──そう他の者達から言われているのは知っているが、最近はどうにも歯止めが効かない。アズールに苦言を呈される程に、無意識にフロイドに触れてしまっているのは分かっていた。
傍にいて欲しい。声が聞きたい。話をしたい。触れたい。この感情の行き着く先は禁忌でしかなく、それに怯えるどころか背徳と昏い愉悦を覚えているのだから、自分も大概である。
爪を切ってあげようかと思い付いたあの時。あの教室で無防備に眠るフロイドを見た時。ジェイドの中には既にこの感情が芽生えていた気がする。フロイドの美しいオッドアイに自分を映して欲しいという願望は、ずっと昔から心の奥底で眠っていたのだろう。
「……じぇーど?」
いつの間にか考えに沈んでいたらしい。掠れた小さな声に名を呼ばれ、我に返る。上掛けに包まり、ぼんやりとした表情でフロイドがこちらを見上げていた。その目はとろんとした寝惚け眼で、まだ意識が覚醒し切れてはいないようだ。
「フロイド」
ジェイドはフロイドの頭を優しく撫でてやる。宥めるように、慈しむように。ふわふわでツヤツヤな髪の毛は、ジェイドが寝る前に綺麗に洗ってやったものだ。
「すいません、起こしてしまいましたね。まだ朝ではないので、寝てていいですよ」
頭を撫で続けていると、やがて力が抜けたフロイドの手が、何かを探すように宙を彷徨う。その手を掴んで繋いでやれば、フロイドは安心したかのように瞼を閉じた。聞こえ始める小さな寝息。繋がれたフロイドの手は、ジェイドよりも温かかった。
眠りの合間にジェイドの姿を見たフロイドは、このままジェイドの夢を見たりするのだろうか。もしもそうなら嬉しいと思う反面、複雑な思いも抱く。
フロイドの目に映るのは現実のジェイドが望ましい。夢の中の自身にさえ、ジェイドは嫉妬をするのだ。そもそもフロイドが夢を見ているかどうかも不確かなのに。
ジェイドは自身のそんな考えに苦笑しながら、フロイドの隣に潜り込む。フロイドの体を胸に抱き寄せると、ゆっくりと瞼を閉じた。フロイドの吐息や熱が、ジェイドの心を安らかにしてゆく。
眠りに落ちても、繋がれた手は離される事はなかった。
フロイドが目を覚ますと、直ぐ目の前に片割れの顔があって驚いた。長い睫毛と、ほんの少し開いた唇。顔を隠す一房の髪。
慌てて体を起こそうとするが、がっちりと肩を抱かれている。右手は繋がれたままで、動かせない右腕は少しだけ痺れている。
両足も足が絡まって拘束されており、まるで抱き枕のような扱いだ。困惑するフロイドとは対照的に、ジェイドはすやすやと眠っている。
「……動けねーんだけど」
小声で文句を口にしても、片割れは目を覚まさない。起こしたくはないが、この体勢のままいるのはまずい。何がまずいのか、自分でも良く分からないまま。
繋がれたジェイドの手を、フロイドは慎重に離した。いつの間に手を繋いだのだろう。寝る前は繋いだりしていなかった筈だから、寝ながら手を握った事になる。
微睡の中、夢にジェイドが出て来たような気がするから、自分が無意識に掴んだのかも知れない。それとも片割れが掴んだのか。どちらにしろ、気恥ずかしい事に変わりはなかった。
なるべくゆっくりと上半身だけを起こし、フロイドは窓の方へ顔を向ける。
雨が降っている気配がした。ここは海の底だから、窓の明るさだけでは今の時刻は判断出来ない。だがアラームは鳴っていなそうなので、起きる時間ではないのだけは分かる。
ふぅ。
フロイドは溜息を吐くと、これ以上体を起こすのはやめて枕へ頭を戻した。隣で眠るジェイドは穏やかな寝顔で、見てるこちらも安心する。
──ずっと忙しかったもんねぇ。
やっと業務も落ち着いて、フロイドとこうしてゆっくりしている時間も出来たのだ。飛行術の授業で倒れたと聞いた時は驚いたが、怪我が無かったのは本当に幸いだった。その後、落ちたのは3フィートくらいの高さだったと聞いて、片割れに呆れたのは秘密である。
そっと右手を伸ばし、ジェイドの髪の毛に触れた。疲れていた時と違って、艶は元に戻ってきている。閉じた目の下には隈もない。顔色も悪くはなく、肌も荒れてはいない。唇だけが、ほんの少し乾き、カサついていた。
夜明けと朝の狭間、僅かな時間。地上に降り注ぐ雨のせいか、深い海の底にいるせいか、部屋の中はまるで時が止まっているかのように静かだ。海に沈んだ狭い檻に、二人で閉じ込められているような。
ずっとこうしていたいような気もするし、つまらないような気もする。ジェイドと二人ならば、退屈な事はないだろうが。
「……ん、」
髪に触れる手に反応したのか、ジェイドが小さく声を上げた。フロイドはハッとして、慌てて手を引っ込める。片割れは寝返りを打ち、そのまままた静かになった。どうやら声が漏れただけのようだ。
それにホッと安堵の息を吐き、フロイドは自身の右手に視線を落とす。ジェイドの髪に触れていた手。ジェイドと手を繋いでいた手。フロイドは無意識に、片割れに触れてしまう自分に気付いていた。
その体に触れたくて、自分のものにしたいという欲求がある。だが、どこまで触れてもいいのか分からない。
手を繋ぎ、頭を撫で、抱き付くのはいいのか。では、指先へのキスや、一緒に眠るのは? フロイドの目から見て、それらをジェイドが嫌がっている様子はない。つまり、許容範囲という事だ。
恐らくそれらは、一般的な兄弟はあまりしない行為なのだろう。こうやって同衾しているだけで、アズールは苦虫を噛み潰したような顔をし、他人には話すなと釘を刺す。だがフロイドにとって、他人がどう思おうがどうでも良いのだ。ジェイドさえ、嫌がらなければ。
この気持ちが何なのか、フロイドも少しずつ分かり始めてはいる。家族や友人に向ける感情ではない事も。普通は兄弟に抱かない感情である事も。
その時、机の上に置いていたジェイドのスマートフォンが、起床時間を知らせて喧しい音を立てた。フロイドがぼんやりと考え事をしているうちに、いつの間にか朝が来たらしい。フロイドは慌てて腕を伸ばしてアラームを止め、隣で眠るジェイドを見下ろす。
「ジェイド」
ジェイドはピクリとも動かず、瞼が開く事もない。珍しい事もあるものだ。いつもフロイドより先に起きているのに。
「もう朝だよぉ」
起きて、と言いながら、肩を掴んで優しく揺すってやる。何度呼び掛けても、その目は開かない。眠るジェイドの顔は穏やかで、何か良い夢でも見ているのだろうか。
楽しい夢を見ているのなら、起こすのは忍びない。こないだまで多忙だったのだから、休ませてあげたい気持ちもある。だが同時に、早く目を開けて自分を見て欲しいという想いもある。早くジェイドに会いたいという欲求がある。
「……ふろいど?」
小さな声と共に、ジェイドの長い睫毛がピクリと震えた。ゆるりと持ち上がる瞼の下から、色彩の異なる瞳が現れる。美しい瞳。その目がフロイドを捉え、一度だけ瞬きをした。
「やっと起きたぁ。おはよー、ジェイド」
「……おはようございます、フロイド」
ジェイドはぼんやりとした寝惚け眼のまま、緩慢に体を起こした。
「フロイドの夢を見てました……」
「……へえ」
「夢でもフロイドに会えるなんて、贅沢ですねえ」
そう言ってジェイドは、目を細めて笑う。それが本当に嬉しそうに笑うものだから、フロイドは逆に機嫌が下降した。
だってそうだろう。
自分は早くジェイドと会いたいと思っていたのに、片割れは夢で自分と会っていたなどと言うのだから。胸に、腹の中に、嫌な感情が湧き出てくる。
夢の中の自分にも、フロイドは嫉妬するのだ──。
「夢より現実のオレの方がずっといーと思うけど」
フロイドは素気なくそう吐き捨て、ベッドから降りようとした。
が、背後から伸びて来た手に腕を取られ、そのまま背中から抱き締められる。拘束するかのように腹に手を回され、フロイドは驚きで目を瞠った。
「嫉妬ですか?」
「は?」
その言葉に腹が立ち、言い返そうと振り返った先で、ジェイドは愉しげに笑みを浮かべている。何がそんなに嬉しいのだろう。フロイドには全く理解が出来ないのに。
「僕たちはやはり似てますねえ」
「何が? 意味分かんねーんだけど」
「いいんですよ、僕は分かっていますから」
「はぁ?」
ジェイドはくすくすと笑い、フロイドの頸に頬を寄せる。吐息が首に触れるのが擽ったくて、抵抗するように身を捩るが、片割れの腕は離れない。
それどころか更に強く抱き締められ、心臓の音が聞かれるんじゃないかと思った。
「フロイドは、僕の夢は見ましたか?」
そう問われても、フロイドは答えない。答えない事が、回答になってしまっているのだろう。
するとジェイドはまた、嬉しそうに笑うのだった。
.