10.10.
昼休み。
教師にプリントを教室に持って行くように頼まれたエース、デュース、監督生の三人は、山のようなプリントをきっちり三等分して運んでいた。因みにグリムはさっさと逃亡している。居ても殆ど戦力にはならないだろうが。
「デュースが優等生ぶって、僕にやらせてください! とか言うからだろ~。昼メシ遅れるじゃん」
「先生の役に立つんだから良いだろ!」
「まあまあ、二人とも……」
三人はいつものように和気藹々としながら、校舎の外廊下を歩く。今日は朝から晴れていて、冬の澄んだ青い空が広がっていた。昨日まではずっと雨が続いていたので、久し振りの晴天である。
「あ、リーチ先輩だ」
デュースの言葉に、後の二人も視線をそちらに向ける。廊下からちょうど見える中庭のベンチに、フロイドが寝転んでいた。大方、四時間目の授業はサボっていたのだろう。寝ているせいで、昼休みになったのを気付いていないのかも知れない。
「起こした方がいいんじゃないかな」
「いや、ダメだろ」
お人好しを発動させる監督生に、エースは即座に制止をする。寝起きのフロイドなんて、考えただけで恐ろしい。もし機嫌が悪いなら関わるのは最悪だし、機嫌が良いなら良いでこれから機嫌は下降する可能性があるわけだ。なら、最初から関わらない方が無難である。
「!」
三人が中庭から視線を戻したその時。突如、突風が吹いたかと思うと、廊下を凄い勢いで通り抜けた。頬を突き刺すような冷たい空気。手にしていたプリントは、次々と舞い上がって吹き飛んでゆく。
「あーっ!」
「プリントが!」
「ちょっ、」
真っ白な紙は、風に乗って中庭へと飛ばされる。慌てて追いかける三人だったが、強風に煽られ、プリントはあっという間に見えなくなってしまう。
「やべー、早く探さないと」
「運が悪すぎだろ……」
「取り敢えずここにあるのだけでも先に拾おう」
なんとか廊下に散らばったプリントを拾い集め、三人は急いで中庭へと出る。幸い、風はもう止んで静寂を取り戻しており、真っ白なプリントは芝生や木々の上にバラバラに落ちていた。
「最悪だ……」
「拾うの、めんどくさいなぁ」
「早く拾わなきゃ」
次にまた突風が吹いたら、プリントは更に遠くまで飛んでいってしまう。学園の外に飛ばされでもしたら、もう回収は不可能である。三人は手分けをして、落ちたプリントを一枚ずつ拾う事にした。
「何してんのぉ?」
そこへ、間延びした柔らかい声が掛けられた。ゆら、と芝生に伸びた長い影が左右に揺れている。振り向くまでもなく、エースにはそれが誰か分かってしまった。
「ヒィっ」
「り、リーチ先輩……」
プリントを大事そうに抱えるエースとデュースを見下ろし、フロイドが目を細めて立っていた。緩く掴み所のないいつもの笑みを浮かべ、両手を制服のポケットに入れて。その顔と口調から見るに、どうやら機嫌は悪くはないらしい。
「先生に頼まれていたプリントが、風で飛ばされちゃって」
「へぇ~」
監督生の説明に、フロイドは感情のない相槌を打つ。問うたものの、明らかにこちらには興味がない様子で、足元に散らかったプリントを眺めている。拾ってくれる気もないらしい。
「いや、手伝ってくれるとかないんすか」
「なんで」
「可愛い後輩たちが困ってるんすよ!」
フロイドに関わりたくないと思いつつも、余計な事を言ってしまうのがエースらしい。後ろではデュースと監督生が顔色を青くして首をブンブン振っていたが、エースはそれに気付いていない。
しかし意外にもフロイドは機嫌を損ねる事はなく、「しゃーねぇなぁ」と屈んでプリントを一枚拾ってやると、エースの方へと手渡した。
「はい、どーぞ」
「一枚だけ?!」
「はぁ? カニちゃんは文句が多いなぁ~。ほら」
フロイドは胸ポケットからマジカルペンを取り出すと、空に向かって一度だけ回してみせた。すると、四方八方に散らばっていた紙がどこからともなく集まり、前に差し出したフロイドの手の上にパサパサと音を立てて重なってゆく。そうしてものの数秒で、あちこちに落ちたプリントを回収してしまった。
「そっか、魔法使えば良かったんだ。フロイド先輩、今日は機嫌いいんすね」
「お前は! そういうことを言う前にリーチ先輩にお礼言えよ!」
「フロイド先輩、ありがとうございます」
口が悪いエースに呆れるデュースの横で、監督生がぺこっとフロイドに頭を下げた。
「だってフロイド先輩がこんなに親切なんて……」
「カニちゃん、これいらねーの?」
「いります! あざっす!」
プリントの束を持ってヒラヒラとさせるフロイドに、エースは平伏す勢いで頭を下げる。フロイドの機嫌を損ね、そこら辺に紙を放り投げられたら堪らない。
それを面白そうに見下ろしていたフロイドは、エースにプリントの束を差し出すと、急に「いてっ」と眉根を寄せた。
「あっ、フロイド先輩。血が……」
プリントを渡したフロイドの人差し指に、一直線に赤い傷が出来ていた。恐らく今、紙で切ってしまったのだろう。
「絆創膏持ってますよ」
「女子かよ」
すかさずポケットから絆創膏を取り出した監督生に、エースがうげえと舌を出して見せる。
フロイドは一瞬キョトンとした顔になるが、直ぐに嫌そうに顔を顰めた。
「いいよぉ、別に。こんなん舐めとけば治るし、大袈裟ぁ」
「ダメですって」
真顔になった監督生はフロイドとの距離を詰め、血が僅かに滲む人差し指をそっと掴んだ。そして傷口を塞ぐように絆創膏を手早く巻き、これでいいですよ、とフロイドの手を離す。
「別にいーのに。……ま、あんがと」
貼られた絆創膏には既にじわりと血が滲んでいる。久し振りに自身の血を見たかも知れないな、とフロイドはぼんやりと思った。
「フロイド先輩、ジェイド先輩と同じ香水を付けてるんですね」
「は?」
唐突に言われた言葉に、フロイドは目を丸くする。同時に、片割れの名前が出た事に心臓が反応した。
「ジェイド先輩と同じ香りがしたような気がしたんですけど」
「……なんで知ってんの?」
監督生が言う香りとは、恐らく最近自分達が使ってるシャンプーの事だろう。絆創膏を貼る為にフロイドに近付いて、気付いたに違いない。だが、どうして監督生が、ジェイドの香りを知っているのか。
片割れは髪が長いわけではなく、上背もある。それなりに至近距離にならないとシャンプーの香りなんて分からない。ましてこのシャンプーはそんなに香りが強いわけでもないのだ。
「え、いや……あの……」
急に剣呑な雰囲気に変わったフロイドに、監督生は混乱し、しどろもどろになった。何かまずい事を言ったのだろうか──。身に纏った香りに言及するのは、失礼だったかも知れない。
「最近、ジェイドとどっか行った?」
「い、いえ。そういうわけじゃ……」
「じゃあどっかで会った?」
「えっと、雨の日に──」
「先輩、オレたちもう行かないと!」
監督生に詰め寄るような勢いのフロイドを見て、慌ててエースが割り込んでくる。
「昼飯もまだ食ってないんすよ。プリント早く届けて、飯食わないと」
エースはそう言って強引に監督生の腕を引き、その体を庇うようにしてフロイドの前に立ち塞がった。その隣では、困惑顔のデュースも監督生の体を隠すように一歩前に出る。
一瞬の沈黙。
「──ふうん。まあいーよ、ジェイド本人に聞くから」
すぅっとオッドアイを細め、フロイドは三人を冷たく見下ろした。機嫌が下降し、どうやら怒っているらしいのに、そこに怒りの炎は感じられない。フロイドが纏っているのは、凍てつくような冷たい怒りだ。その冷たい怒りを受けて、三人の血の気は引いてゆく。
フロイドはそれ以上は何も言わず、無言で三人に背を向けた。
校舎へと去ってゆくその後ろ姿を見送り、残された三人は真っ青になった顔を見合わせる。
「な、なんか変なこと言っちゃったのかも。二人ともごめん」
「いや、先輩は直ぐ気分のスイッチ変わるからな」
「匂いを嗅がれたのが嫌だったんじゃないのか」
ヒソヒソと話しながら、三人はプリントを持って歩き出す。途中、また強い風が吹き始め、大慌てで校舎の中へと入った。
毎度毎度の事ながら、ジェイドの食事量にはうんざりする。
アズールは目の前で大盛りのきのこパスタを食べる男からそっと目を逸らした。普段の日ならまだ知らず、昨日うっかり食べ過ぎてしまったアズールは今日は摂生の日である。人がサラダで我慢しているというのに、目の前で大食いをされては腹も立つ。自分の勝手な都合だとはアズールも分かっているので、文句を口にしたりはしなかったが。
殆ど冷めてしまった紅茶を飲みながら、アズールはぐるりと食堂の中を見回した。昼休みになってから、まだ一度もフロイドの姿を見掛けていない。ここ最近は常に片割れと食事をしていたようだったので、ジェイドの隣にその姿がないのは些か違和感を覚える。また中庭でサボっているか、居残りで説教でもされているのかも知れない。
「ジェイド」
そこへ、ちょうどフロイドがふらりとやって来た。制服のポケットに片手を突っ込んで、トレーも何も持っていない。皺の寄った眉間に、への字に結ばれた口。一目で機嫌が悪いのが分かる。
「機嫌が悪そうですね」
アズールにでも分かるくらいだ。当然片割れであるジェイドには直ぐに分かっただろう。ジェイドはパスタの皿から顔を上げると、隣の席の椅子を片割れの為に引いてやる。フロイドは存外素直にそこに座った。但し、ジェイドから少し距離を開けて。
フロイドはテーブルに左肘を付き、体を横にしてジェイドの方を向く。長い両足を気怠げに組んで、浮いた片足はブラブラと揺らしている。テーブルに置いた右手の人差し指には絆創膏が貼られており、赤く血が滲んでいるのがアズールの目にも分かった。
「その指はどうかしたのですか?」
眉根を寄せ、口を開いたのはアズールだ。ジェイドはもうパスタを頬張るのはやめて、じっとフロイドを見ている。正確には、フロイドの怪我した指を。丁寧に巻かれた絆創膏を。
「紙で切った」
「その手当はどちらが?」
「小エビちゃん」
ジェイドの問いにフロイドがこう答えた途端、この場の温度が急激に下がったような気がした。
「……怪我をしたから、そんなに不機嫌なんですか?」
ジェイドの視線は指から離れない。フロイドはそんな片割れに顔を寄せると、ニィと口端を吊り上げて嗤った。
「そん時に小エビちゃんから言われたんだけど、オレってジェイドと同じ匂いがするんだってぇ」
「……それは、なかなか面白い発言ですねえ」
漸く絆創膏から視線を外し、ジェイドはフロイドの顔に目を向ける。お互いのオッドアイに、お互いの顔が映っている。不機嫌な、相手の顔が。
「なんで小エビちゃんが、ジェイドの匂い知ってんのぉ?」
「僕としては、何故監督生さんがフロイドの匂いを気付いたのかが気になるのですが」
二人の視線がぶつかり合い、火花が散ったような気がした。
「そんなん、手当してくれた時に分かったんでしょ」
「おや。監督生さんと、そんなに至近距離で手当てを?」
「はあ? ジェイドだってくっ付いてたんじゃねーの?」
「僕は、傘に入れてあげただけですよ」
「傘?」
昨日まで、賢者の島にはほぼ雨が降り続いていたのだ。毎日忙しくしていたジェイドはある日、豪雨で立ち往生している監督生を見つけた。どうしてここに居るのかと理由を聞けば、傘を忘れたのだと言う。
他の生徒なら、魔法を使えば多少の雨は避ける事が出来ただろう。だが、監督生は魔法を使えない。傘を忘れては雨を防ぐ事が出来ない。なのでジェイドは、その時に差していた傘に監督生を入れてやったのである。校舎からオンボロ寮までの、少しの間だけ。
「……オレよりずっと長い時間じゃん」
「僕はあなたと違って触れ合ってはいませんが」
「触れ合うって言い方キモ。オレのはただの手当てだし」
「僕も傘に入れて送っただけです」
険悪な空気である。
昼休みで混んでいる大食堂で、この席の周囲だけ人が避けて通る。だが皆一様に意識はこちらに向いていて、双子が言い争う様を興味津々に観察していた。この分では午後の授業が終わる頃には、学園中の噂になっているだろう。
目の前で交わされる二人の会話に、向かいの席に座るアズールは呆れるしかない。こいつらは、何をくだらぬことを言い争ってるのだろう。周りから避けられているお陰で、内容が漏れていないのがせめてもの救いである。
「つまり、お前たちが同じ香りの物を共有しているのを監督生さんが気付いた、と言うだけの話なんですよね? ……何をそんなに不機嫌になる必要があるのです」
「別に不機嫌になってねーし」
「僕は平常心のつもりですが」
二人は同時にアズールに言い返してくる。視線はお互いを睨んだままで。
どう見ても不機嫌だろ、と内心でアズールは悪態をつくが、口には出さなかった。この二人には何を言っても無駄である。
「だる」
小さく舌打ちをし、フロイドは片割れから視線を逸らす。気怠げに席を立ったかと思うと、そのままふらりと大食堂を出て行ってしまった。結局、昼食を取る事もなく。
「……追い掛けないんですか?」
「必要を感じません」
アズールの問い掛けにジェイドは冷ややかにそう答え、再びパスタを食べ始めた。既に皿の上のパスタは冷め切っており、お世辞にも美味そうには見えない。
「全く……」
面倒臭い双子である。ベタベタと仲が良すぎるほどくっついていたかと思ば、こうしてくだらない事で喧嘩をしている。本人達は大真面目なのだろうが、聞いていたアズールとしては何故お互い不機嫌になるのかがさっぱり分からない。
黙々と食事をする男を見つめながら、アズールは溜息を落とした。
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