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    ゆん。

    @yun420

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    ゆん。

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    ふるしんとあむこ。
    支部で消してしまったまとめの半分くらいです。

    #降新
    dropNew
    #安コ
    cheapChild

    降新安コふるしん
     


     目の前で無惨にも倒れた扉に平次はドン引きであった。
     扉というものは開く方向から蹴破るのは殆ど不可能なのだ。大抵の玄関の扉は通路側に開く。つまり、外側からは蹴破れない。そして勿論、この玄関扉にはシリンダー錠もチェーンも掛けてある。それらの施錠手段を全て無視して足だけで扉を蹴破った目の前の美丈夫に、平次は畏怖を抱くのと同時に呆れていた。
    「……っ、」
     平次の横で同じく顔を真っ青にした新一は言葉を失って口をパクパクさせていた。無理もない、怯えているのだろう。普段は生意気な男だが流石にこれは普通に引く。
    「な、何してるんだよ!」
     真っ青だった男は直ぐに真っ赤に変貌した。「人んちを訪ねる時はインターホンくらい押せよ!」
     いや怒るとこはそこやないで、工藤。
    「どうせ居留守を使うだろうと思って」
     新一の怒りなどどこ吹く風と聞き流し、スーツ姿の美丈夫は室内へと入ってきた。当然土足である。
     蹴破られた扉は凹み、壁にはヒビが入っていた。脱ぎ散らかされた靴は潰れているし、ひょっとしたら床のタイルも割れているかも知れない。そんなにボロいアパートではないのだが、この惨状を見るに大家からは雷が落ちるだろう。ご近所さんの目も辛い。大学生になって一人暮らしを満喫していた平次だったが、これは一度実家に帰るはめになりそうである。
    「服部平次くん?」
    「は、はいっ!」
     優しく穏やかな声で名前を呼ばれ、思わず背筋を伸ばした。目の前のイケメンはそれはそれは美しく微笑んでいる。なのにこちらを見据えるその青い目はひとつも笑っておらず、平次はこめかみに冷や汗が流れるのを感じた。
    「申し訳ないけど彼と二人きりにしてくれないか。勿論これは弁償する」
    「はい!」
     そそくさと腰を上げた平次の腕を、新一が逃すまいと強い力で掴んだ。
    「俺を置いて行く気かよ!」
    「え、いやぁ……」
     そんな縋るような目を向けられても、平次は目の前にいるこのお兄さんが怖いのである。今も腕を掴まれた瞬間に殺気のようなものがビリビリと肌を刺している。
    「新一くん」
     殺気を纏ったままの降谷が一歩こちらへ近付いた。靴裏の下で何かがパキッと割れた音がする。あー、出しっぱなしだったCDだったらどうしよう。和葉からの借り物なのに。
    「俺がいない間に他の男と浮気とは、いい度胸だな」
    「そんな事してねーよ!」
     男同士の痴話喧嘩。
     そんなものを目の前で見せ付けられている平次は目が回りそうであった。それもどっちもイケメンだ。和葉なら案外、目の保養だとか言って喜びそうである。
    「取り敢えずその手を離せ。不愉快だ」
     平次の腕を掴んだままの新一に、降谷の怒りの声が降ってくる。慌てて平次は離れようとするが、新一も必死にしがみ付いてくる。このままでは命が危ない。平次はまだ死にたくないのだ。
    「せっかく降谷さんが来てくれたんやから、話し合ったらどうや」
    「嫌だ。俺には話すことなんてない」
     新一は頑なだ。降谷の方を見もしない。そして平次も怖くて降谷を見れない。
    「君にはなくても、俺には話すことがたくさんある」
    「俺にはない!」
     降谷が新一の細い手首を掴んだ。強引に自分の方を向かせ、顎を掴んで顔を上げさせる。
    「あんな書き置き一つで恋人から逃げ出して、許されるとでも?」
    「もう恋人じゃありません! 別れるって書いたでしょ!」
     うわあ。
     平次のライフがどんどん削られてゆく。出来る事なら、男同士の色恋沙汰など知りたくはなかった。
    「俺は別れるつもりはない」
    「俺なんかより、あの口紅の女にでも相手して貰ったらどうですか!」
     うわあうわあ。
     平次はそっと新一の腕から逃れようとするが、やっぱりその手は外れない。せめて耳を塞ぎたいのに、片腕を掴まれていたらそれも出来ないのだ。
    「シャツに付いた口紅のことは誤解だって言っただろう?」
    「そもそも口紅なんか付けてくる方が悪いだろ。情報を聞き出す為ならどんなことでもすんのかよ!」
    「キスもしてないし、抱いてもいないのに?」
    「ハニートラップもどきだったことは認めんの?」
     成る程、大体の喧嘩の理由は分かってしまった。新一の方は心が狭いし、降谷の方は迂闊である。あー、もう早くここから立ち去りたい。
    「君がいるのにそんなことはしない。あれは相手が倒れ込んできたのがぶつかっただけだ」
    「じゃあお見合いを勧められた件は?」
     まだ他にも原因があるんかい。そうツッコミたいが、ここで口を出して巻き込まれたくはない。平次は貝のように口を閉ざす。
    「見合いなんてするわけないだろう。俺は君が最後だと決めている」
    「最後って、」
    「誰かを好きになるのは君で最後」
     降谷が新一の傍らに膝を付く。まるでお姫様に忠誠を誓う騎士のようだ。
    「だから君を逃してあげるつもりはない。どんなに逃げても追い掛けて掴まえる」
     平次にはストーカー宣言に聞こえるが、新一には違うらしい。目を丸くして降谷を見つめ、その目には薄らと涙が滲んでいた。これはどう見ても感激している。目の前の男に丸め込まれている。
    「降谷さん……」
    「一緒に帰ろう」
     降谷の腕が新一の痩身を掻き抱く。新一は涙目のまま頷くと、身を乗り出して降谷の背中に腕を回した。ひしっと抱き合う恋人たちの、仲直りの瞬間である。
     同時に新一の腕から解放された平次は、これ幸いと家を飛び出した。マンションの通路に何事かとご近所さんが集まっているのに謝罪して歩き、逃げるようにエレベーターへと乗り込んで息を吐く。
     あの二人、まさかあのままラブシーンに突入せんやろうな。
     壊されたもののあそこは自分の家である。そして扉も全開だ。せめてそれくらいは分別がある事を祈るしかない。どちらにしろ平次はもうあそこには住めない。自分はあの二人より繊細なのだ。世間の目は気になるのである。
    「あーあ……」
     なんだか虚しくなってしまった。胸焼けしそうな甘い物を食べさせられた気分なのに、人恋しくて寂しい。
     ──俺も、和葉に会いに行くかぁ。
     平次は大きな溜息を吐くと、エレベーターを降りてエントランスを出る。そうしてあとは和葉の事を考え、あの傍迷惑なバカップルの事は忘れる事にしたのであった。




    リハビリに書いたやつ
    ふるしん


     何か夢を見ていた気がする。なんだったろう。
     ホテルのように糊がきいたシーツと、柔らかな上掛けの手触り。うとうととまだ意識がはっきりとしないのに、手は勝手に隣にあるはずの温もりを探して彷徨った。
     だが指先に触れるのは皺の寄ったシーツだけだ。そこには既に体温は無い。その情報が脳に到達すると新一はハッとして身を起こした。その拍子に肩から毛布が落ちて、自身が裸なのを思い出す。慌てをそれを体に巻きつけると、広い室内を見回した。
     カーテンは固く閉ざされているが、また窓の外は薄暗いのが分かる。サイドテーブルに置かれたデジタル時計が表示している時間は夜明け前。
    「……降谷さん?」
     発した声は掠れている。ベッドから降りると、体のあちこちが痛んだ。昨夜は随分と好き勝手されたらしい。新一の心に僅かに怒りが湧き上がったが、今はそれよりも。
     裸足のまま、ぎこちない動きで寝室を出る。廊下の向こうに見えるリビングには小さな灯りがついていた。

    「起きた?」
     それとも起こしたかな。
     リビングへ入ってきた新一を見ると、着替えていた降谷は申し訳なさそうに笑った。ワイシャツにネクタイ姿だ。
    「……招集?」
    「そう。すまないね」
     降谷は苦笑いを浮かべ、スーツの上着に袖を通す。今日は久し振りの休みだと言っていたのに。新一の機嫌は更に下降した。
    「大丈夫かよ」
     先程まで熱を分け合っていたのだ、降谷は碌に寝ていないだろう。
    「なるべく早く戻って来るよ」
     入り口に立ったままの新一に近付いてきた降谷は、晒されていた薄い肩に手を触れる。その手の冷たさに、新一の体は僅かに震えた。
    「風邪を引くよ」
     右手はずり落ちていた毛布を引っ張り上げてくれるのに、左手は隙間を縫って新一の内腿を撫でる。
    「……っ、」
     思わず体を離して睨み付ければ、降谷は喉の奥で薄く笑った。まだ奥に熱が篭っている気がするのに、こういう悪戯は心臓に悪い。
    「ねえ、降谷さん」
    「うん」
     今度こそ新一の体を守るように毛布を巻きつけてやりながら、降谷はまるで眩しいものを見るかのように目を眇めた。毛布で隠された新一の肌には、幾つもの赤い鬱血がある。

    「俺と仕事とどっちが大事?」

     新一のこの言葉に、目の前の男は分かりやすく固まった。余程の事がなければ狼狽も動揺もしない男が、時間が止まったかのようにフリーズしている。
    「……降谷さん?」
     恐る恐る名前を呼んでも微動だにしない。頬に触れようと手を伸ばすと、その手を痛いぐらいの強い力で掴まれた。
    「……いっ! ちょっと、降谷さん」
    「驚いた。君にもそんな感情があったとは」
    「は? 何言って……」
    「可愛いのはベッドの中だけで、普段は小生意気なクソガキなのに」
     これは貶められているのか。
     そもそも新一は本気で言ったわけではない。この国を守るという降谷の仕事に対する姿勢は尊敬しているのだ。デートが仕事で潰れるとか、甘い雰囲気の最中に呼び出しが掛かるとか、日常茶飯事過ぎていちいち怒っていられない。……たぶん。
    「君なら付いて行く、くらい言いそうなのに」
    「付いて行っていいんですか」
    「駄目に決まっているだろう」
     即答。
     新一は唇を尖らせた。その唇に、キスがひとつ落ちて来る。
    「直ぐ帰って来るから」
     囁くように甘く言われ、コナンの時のように頭を撫でられる。あの頃と同じ、優しい大人の手。
     狡い。狡い大人。
     こんな緊急性の高い呼び出しだ。きっと簡単には帰って来れない。もしかしたら、命の危険だってあるだろう。
     分かっているのに、新一は従順に頷くしかない。頬も優しく撫でられるのが心地良くて、思わずその手に頬擦りしてしまう。
    「じゃあ行ってくるね」
    「はい」
     新一はそのまま降谷を見送った。結局質問の答えは貰えていないが、答えは聞かなくても知っている。
     ── いつか「俺」って即答させてやるし。
     扉の閉まる音を聞きながら、新一は大きな欠伸を噛み殺した。体を包む毛布を抱き締めながら、のろのろと寝室へと戻る。休みを潰された降谷は気の毒だが、自分は午後まで睡眠を貪る予定だった。すっかり冷えたベッドに再び潜り込み、胎児のように体を丸くする。降谷の匂いがするなと思いながら、直ぐにまた眠りが訪れた。


     難しい案件を史上最速の速さで解決させて戻って来た大人に起こされるのは、それから数時間後のこと。




    ふるしん


    「こんにちは」
     ドアベルの音を響かせて、店内に小さな子供が入ってくる。テーブルを拭いていた手を止め、安室は顔を上げた。
    「コナンくん」
    「今、大丈夫?」
     子供には大きめのバッグを手にし、コナンは遠慮がちに安室の側へやって来る。大丈夫だよ、と優しく返事をし、カウンターへ座るように促した。寒い外から温かな店内へ入ったせいか、コナンの眼鏡がうっすらと曇っている。頬もほんのりと赤みを帯びていて、外の寒さを感じさせた。
     平日の午前中。客は他に誰もいない。本来なら登校している時間帯にコナンがここにいる理由を、安室は当然知っていた。
    「もう行くの?」
    「うん、これから空港に。お父さんとお母さんが迎えに来てくれるから」
     ニコッと子供らしい笑顔を浮かべる彼を、安室は複雑な想いで見つめる。コナンが海外にいるという両親の元へ行くと聞いたのは、色々な事件が解決して直ぐの事だった。
    「蘭さんや友達たちとはお別れは済んだのかい」
    「うん。泣かれちゃって大変だった」
     そう言って苦笑する姿はほんのりと寂寥感を感じさせる。その顔は子供らしくはないな、と思いながら、安室はコナンの為にカフェオレを淹れてやった。店内に香ばしいコーヒーの匂いが漂う。
    「最後に僕に会いに来てくれたの?」
     コナンの前にカップを差し出し、安室は口角を釣り上げた。揶揄する口調の中に、嬉しさが滲むのが自分でも分かる。この子供に執心している自覚があった。
    「安室さんにはたくさんお世話になったから」
     こんな風にコナンが『戻れる』事になったのも、安室や赤井の協力があったからだ。温かなカップを手にし、砂糖が入っていないそれを一口飲む。湯気でコナンの眼鏡がまた白く曇った。
    「色々ありがとう、安室さん。もう会うことがないと思うけど、安室さんがいてくれて良かった」
     青い宝石のような瞳が真っ直ぐにこちらを見つめてくる。そんなコナンの真摯な眼差しを受け、安室は眩しそうに目を細めた。この目もこの顔もこの仕草も、もう見る事ができないのかと思うと残念に思う。
    「こちらこそ。君にはいろいろ協力してもらった。『あれ』が壊滅出来たのも、君のお陰だよ」
     安室は手を伸ばすと、コナンの頭を優しく撫でる。柔らかな髪と温かな体温。そのまま頬を撫でてやれば、コナンの頬に朱が差した。
    「こ、子供扱いしないで」
    「おや、君はまだ子供だろう?」
    「そうだけどっ」
     ぷうっと頬を膨らませるその姿は本当に子供だ。当然だ。元に戻ったとしても、彼はまだ十代の子供なのだ。
    「コナンくんにプレゼントがあるんだ」
    「え?」
     目を瞬かせるコナンを尻目に、一度バックヤードへと引っ込む。暫くすると大きな紙袋を持ち、安室が戻ってきた。
    「……ぬいぐるみ?」
     手渡された袋には、大きなテディベア。コナンより少し小さいくらいのサイズに、目を丸くする。
    「クリスマスにはまだ早いけど、プレゼント」
     盗聴器もカメラも付けてないから安心して、と悪戯っぽく安室は笑う。
    「……僕、子供じゃ……」
     ないんだけど、と言おうとしてコナンは口を噤んだ。色々葛藤しているであろうコナンの内心を思い、安室は僅かに苦笑を浮かべる。子供の正体をはっきりと打ち明けられたわけではないが、お互いに察している筈だ。
     カフェオレを飲みながらの緩やかな時間は過ぎ、やがて時間を確認したコナンは立ち上がった。
    「そろそろ行かなきゃ。安室さん、これありがとう」
     ぎゅうっと胸にぬいぐるみを抱いた子供は、随分と愛らしい。扉の前に立つコナンの背に合わせ、安室は身を屈めた。
    「元気でね、コナンくん」
    「安室さんも。……ポアロも辞めるんでしょう?」
     もう『安室透』を演じる必要はないのだから。
     コナンの問いに、安室は笑みを浮かべただけで答えなかった。ぽん、と頭を撫でてやれば、コナンは不満げな表情を浮かべる。それが子供扱いのせいか、それとも明言を避けたせいかは、安室には分からなかった。
    「また、いつか会えるかな?」
    「……安室さんが望むなら」
     ぬいぐるみの後ろから覗く青い目が潤んでるように見える。丸みを帯びた頬も、柔らかそうな耳朶も、いつもより赤い。
    「今度はお互い、本当の姿で会おうね」
     耳元に唇を寄せ、そう囁いてやれば、目の前の子供の肩はピクっと跳ねた。逡巡したのか数秒ほど沈黙し、やがて素直に頷いた。
    「さよなら、『安室』さん」
     それが最後の言葉だった。
     子供はぬいぐるみを抱え、ポアロの扉をゆっくりと出てゆく。安室はその様を、無言で見送った。


     クリスマスが近づき、街はいつもより浮き足立っているように見える。ポアロの方もケーキの予約が何件か入り、安室はここのところ大忙しであった。そんな生活もあと少しで終わりかと思えば、寂しさもあるのだが。
    「安室さん、ポアロ辞めちゃうんですってね。寂しくなるなぁ」
     学校帰り、ポアロに寄った園子と蘭は、カウンターに座ってお喋りに花を咲かせている。冬休みの計画を話していた彼女たちは、ケーキを運んできた安室へと話題を振った。
    「そうなんですよ。ちょうどクリスマスで辞めるつもりなので、最後にお二人に会えて良かったです」
    「コナンくんも両親の所へ帰っちゃったし、安室さんも居なくなるなんて……ほんと最近寂しいことが続くなぁ」
     眉尻を下げ、小さく溜息を吐いた蘭に、
    「でも工藤くんが戻って来たから、蘭は嬉しいでしょー?」
    と、園子は優しく肩を叩く。その言葉は揶揄と共に、親友を元気付けようという優しさで満ちていた。
    「高校生探偵の工藤新一くん、戻って来たんですか」
    「ええ。今までもちょくちょく帰っては来てたんですけど、やっと本格的に。長かった事件が片付いたんですって」
     そう話す蘭の顔は嬉しそうにはにかんでいる。それを微笑ましく思うと同時に、胸に微かな痛みが走った。
    「それは良かったですね。蘭さんもこれで安心でしょう」
     傷む心をおくびにも出さず、安室は鉄壁の笑みを浮かべてみせた。笑顔を装うのは得意だ。例えどんなに辛い事があったとしても。
    「でもあいつ、サイテーなんですよ。帰って来たら蘭のこと振っちゃうんだから」
    「え……」
    「ちょっと、園子」
     園子の言葉に安室は目を瞠った。驚いて固まる安室を前に、蘭は困ったように苦笑する。
    「そうだったんですか……申し訳ありません」
    「いいんですよ、薄々こうなるのは分かってましたから」
     謝罪する安室に対し、蘭の方は明るく笑ってみせた。それは強がりではなく、吹っ切れたような明るさだ。
     安室は内心、酷く動揺していた。あの子供が、幼馴染みの彼女をとても大切にしていたのを知っていたからだ。元の体に戻ったのなら、今度こそ彼女と幸せになるのだろうと思っていたのに。
    「そういえばあいつ、部屋にぬいぐるみなんて置いてたよね」
    「ああ、あのテディベア?」
     二人の会話に鼓動が跳ねる。安室は何気ない顔をしながらカウンター奥に戻ると、洗ったばかりのグラスを拭き始めた。
    「どうせ浮気相手の女から貰ったんじゃないのー?」
    「浮気って、園子ったら……。きっと依頼主の子供から貰ったとかじゃない?」
    「だってなんか凄く大事にしてる感じだった。あれは怪しいわよ」
    「でも高校生の男の子にテディベアはあげないと思うよ」
     きゃあきゃあと騒ぎながら、彼女たちはまた違う話題へと移ってゆく。安室はそれをぼんやりと聞きながら、あの時の子供の様子を思い出していた。


     クリスマス当日、いつもより忙しいシフトを終え、安室は家路についた。これまでのポアロでの仕事は楽しく、店長や梓には随分と良くしてもらった。色々な人物を演じて来たが、『安室透』はだいぶ恵まれている人間関係だったろう。そして色んな思い出がある。
     あとは今のアパートを引き払うだけだ。そうすればもう、明日から『安室透』はいない。
     はぁ、と真っ白な息を吐いて、枯葉が落ちる歩道を歩く。周囲に目立った店もない道は真っ暗で、街灯や月明かりだけでは心許ない。クリスマスだとて普段から何もする予定はないが、今日は一人で帰るこの道がやけに物悲しく感じた。
     マフラーに顔を埋め、もう一度深く息を吐いたところで安室は足を止めた。誰かがアパートの前に立っている。薄暗い影が街灯の下に見えていた。警戒心を抱きながら足を進め、やがてその姿がはっきり分かると、安室は驚きで目を見開いた。
    「あ……」
     相手は安室の姿に気付くと、その大きな目を何度も瞬かせる。そして驚きで立ち止まってしまった安室に、はにかんだような笑みを浮かべた。
    「安室、さん……」
     で、まだいいのかな。と、声変わりをした声でそう呟いた。
    「コナ……、──…新一くん」
     コナンの名前を呼び掛け、今の彼は違うのだと慌てて呼び直す。安室は初めてこの名前で彼を呼んだ。
     新一は真っ白な息を吐きながら安室の方へ近づいて来る。一体いつからここにいたのだろう。その頬はあの時のコナンのように赤かった。
    「……びっくりした?」
    「思っていたより早く会いに来たから驚いた」
     安室の口からは素直な感想が漏れる。実のところまだ信じられず、幻なんじゃないかと疑いを抱いてしまう。
    「うん。ほら、まあ……」
     新一は頬を染め、照れ臭そうに肩を竦めた。
    「今日はクリスマスだからね」
     まるで理由になっていない事を言って、新一はうっそりと笑った。青い海のような瞳が真っ直ぐに安室を見つめてくる。それはコナンと同じ色と光を宿していた。安室が惹かれた、青い宝石のような色。それはまだ、ここにある。
     じわり、と胸が熱くなるのを感じた。コナンと別れたあの時、自分は本当は引き止めたかったのだ。だがこの子には待っていてくれる人がいて、自分の時間を取り戻さなければならない。ほんの少し関わっただけの自分が何も言える権利はなかった。
     コナンにまた会えるかと聞いたのは自分の甘さだ。本来なら二度と会う事もない、会ってはいけない筈だった。それはこの子も分かっていただろう。それなのに、こうして会いに来た。──……安室の為に。
    「……家の中はもう殆ど何も無いのだけれど、コーヒーでも飲んでゆく?」
    「勿論。安室さんのコーヒー好きだったんだ」
     家の方へと促しながら歩き出した。今までは違う肩の位置。見合わせた顔の距離もずっと近い。
    「ああ、ひとつお願いがあるんだけど」
     あと数歩というところで安室は足を止める。新一は不思議に思い、小首を傾げた。
    「名前を呼んでくれないか。……本名の方で」
     安室の言葉に、新一はきょとんと目を丸くした。そして言葉の意味を理解すると顔を赤く染め、困ったように目を泳がせる。
     潤んだ瞳、朱に染まった顔、それらを見れば新一の気持ちは明白で、狡い大人である自分は唇で弧を描く。仕事以外で胸が高鳴るのは久し振りだった。
     今更だとか、改めて言うことでも、とブツブツと文句を言い、やがてほんの少しの沈黙の後、新一は口を開いた。


     

    安コ
    診断メーカー


     ニャア。
     警戒心が強い猫がやっとコナンに慣れて来たようだ。
     近付いて来た猫の喉や首回りを優しく撫でてやれば、猫はコナンの手や足に体を擦り寄せて来た。
     可愛いなぁと和みながらも、素早く体の模様を確認する。聞いていた猫と同じ黒白だが、模様の位置が情報と違う。残念ながら、この子はコナンが探している猫ではないようだ。
    「何してるんだい?」
     急に直ぐ背後から話しかけられ、コナンは驚きで肩を跳ねらせた。
    「あ…安室さん?」
     ポアロの買い出しだろうか。レジ袋を手にしてこちらを見下ろしていた安室は、驚いたコナンの様子に面白そうに口角を吊り上げた。声を掛けられるまで、全く気配に気付かなかった。
    「君が焦った様子でこの路地に入るのが見えたんでね」
     心配で見に来たんだよ、と安室はコナンと同じように地面にしゃがみ込む。コナンが撫でている猫を見て、その青い目を僅かに細めた。
    「僕ってそんなに心配されてるの?」
    「君は無鉄砲だからね。また何か事件に首を突っ込んでいるんじゃないかと」
     笑い交じりな割にはちくりと皮肉めいたことを言う。コナンは内心でムッとしつつもそれには答えなかった。言い返せない、のが正しい。
    「見慣れない猫だね」
     安室が軽く触れると、コナンの手の中で猫がピクリと身動ぎをする。見知らぬ人間に警戒しているようだ。
    「近所のおばあちゃんの猫が行方不明でさ。見掛けたから追いかけて来たんだけど…違う猫だったみたい」
     説明をしてる間に猫はコナンの手をすり抜けて走り去ってゆく。路地裏の奥へと進み、チラリとこちらを振り返る姿は名残惜しそうでもあった。
    「僕が来たから逃げちゃったかな」
    「別にいいよ。目的の猫じゃなかったしね」
     言いながらも猫が去った方向を残念そうに見ていたコナンは、薄暗い路地を直進して来た車に気付くのが少し遅れた。

    「おっと」
    「わっ、」

     狭い道だというのにかなりのスピードを出した車が通り過ぎる。車のテールランプが角を曲がって消える頃、コナンは安室に肩を抱き寄せられ、そのまま腕に抱き抱えられていた。
    「ちょっと安室さん!」
    「今の車、危なかったね」
    「それは、お礼を言うけど…」
     どうして抱き抱えられたままなのだ。
    「君は危なっかしいからな。このまま抱っこして家まで送って行こうか?」
    「嫌だよ、恥ずかしい! それに重いでしょ!」
     コナンは真っ赤になって安室の肩を押しやるが、相手はビクともしない。逞しい二の腕と胸板は、今は子供の姿のコナンでも男の矜持を刺激する。
    「ちっとも重くないよ。コナンくんは軽すぎる」
     愛想の良い笑みを浮かべた悪い大人は、コナンの痩身を更に強い力で抱き締めた。羽交い締めするかのように片手で肩を包み、もう片方の手は背中をぽんぽんと優しく叩く。
    「ちょ、」
     安室の体温、匂い、鼓動を近くで感じて、コナンの顔はますます紅潮した。耳も頰も、首筋までもが熱い。
    「真っ赤だなぁ、コナンくん」
    「安室さんってば!」
     この人は分かっているのだろうか。コナンが大声で騒げば誘拐犯に勘違いされてもおかしくないというのに。いや、この人の事だからそんな事も揉み消してしまえるのだろうけど。
     拘束する力は強いのに、何故か痛くはない。寧ろ大切にそっと抱き締められているような気がする。コナンは諦めたように抵抗をやめ、安室の肩に額をグリグリと押し付けた。せめて真っ赤になった顔を見られたくなかった。
    「コナンくん…太陽の匂いがするね」
     そんな言葉と共に、頭のてっぺんに何かが降りて来る。温かな吐息。柔らかな感触。安室が囁いた言葉は、コナンへというよりは独り言に近い。
    「……今の、何?」
    「可愛くて、ついね」
     顔を上げれば、ウィンクをする大人と目が合う。悪戯が成功したみたいな、子供のような笑顔。
    「唇にじゃなかっただけマシだろう?」
    「は…、」
     その言葉にコナンは瞬時に何をされたか理解した。再度頰が熱くなり、羞恥で目の前の視界が歪む。
    「何してんだよ、もう!」
     今度こそ大きく暴れ、子供の小さな手で安室の背中を何度も叩いてやった。すると目の前の大人はやっとコナンの体を解放してくれる。コナンは持ち前の身軽さで、アスファルトの上に飛び降りた。
    「俺はまだ子供なんだけど?!」
    「それって子供じゃなかったら良かったみたいな言い方だね」
     安室は顎に手を当てて、面白そうにコナンを見下ろす。その顔はやっぱり愉しげで、コナンを揶揄しているのが一目で分かる。
    「では、君が大人になったら次は唇にしようか」
    「そういう冗談はいらねぇっての! バーロー!」
     熟れた林檎のように赤くなったコナンは、そのまま安室に背を向けて走り去った。頰の赤さは怒りの為か、羞恥心の為か。恐らく両方だろう。頭から白い湯気でも見えそうだった。
    「やれやれ…せっかく懐いた猫がまた逃げ出しちゃったな」
     子供が逃げた方向を目で追いながら、安室は僅かに肩を竦める。その青い双眸は優しげに眇められ、唇は笑みの形を作っていた。次はどんな風に警戒心を解いてやろうか──。
     
     ニャア。
     どこからともなく、猫の鳴き声が響いた。



    ふるしん
    おるすばん


     鳴り響くインターフォンに赤井は壁の時計を見上げた。約束の時間に数秒の狂いもない。相変わらず律儀な男だな、と感想を抱く。
     咥えていた煙草の火を灰皿で揉み消すと、ソファから立ち上がる。広いリビングを抜け、長い廊下を抜けて来客を出迎える為に玄関へ向かった。
    「よく来たな」
     扉を開けてそう言うと、チッと盛大な舌打ちが答える。この世の不機嫌を全て集めたような無愛想な顔をして、赤井から目を逸らしたスーツ姿の降谷は、地を這うような低い声で「別にお前の家じゃないだろう」と吐き捨てた。
    「まあ確かに」
     ここは工藤優作の家である。以前からずっと続いてる縁で、こうして来日した時はこの家に滞在させて貰っている。息子である新一が居ない時もこの家の留守は赤井が預かっていた。
    「玄関先で立ち話も何だ。お茶ぐらい淹れよう」
     中へ入るように促せば、降谷は素直に付いてきた。眉間にこれでもかと皺を寄せ、キョロキョロと家の中を見回す。まるで誰かの姿を探しているかのように。
    「そこに座って待っていてくれ」
     赤井はそう言い置いてキッチンの奥へ引っ込んだ。紅茶にするかコーヒーにするかを悩み、結局紅茶にすることにする。砂糖もミルクも要らないだろう、と勝手に判断してトレイにカップを乗せた。
     大人しくソファに座った降谷は、むっすりとした表情のまま視線を彷徨わせている。足も落ち着きがなく揺れ、膝上に置かれた手は苛々と指先が動いていた。
    「どうぞ」
     目の前にティーカップを置いたのと同時に、些か乱暴に茶封筒を差し出される。降谷がここにやって来たのはこれを届けるのが目的だった為、赤井はそれを素直に受け取った。
     赤井が中の書類を確認している間、降谷は粛々と紅茶を飲んでいた。たまに熱過ぎるだの渋いだのブツブツと言っていたが、いちいちそれに相手をしていては仕事の話も進まない。なかなかの厚さの書類を捲りながら、赤井が時折詳細な質問をすればちゃんと的確な答えが返ってきた。仕事は出来る男なのだ。
    「ところで」
     目を通した書類を再び茶封筒に仕舞い込みながら、赤井は何気ない風を装って口を開く。
    「先程から随分と落ち着かないようだが、何か心配事でも?」
     この問いに降谷はまた舌打ちを一つ。
    「……別に」
    「そうか。では何か質問は?」
     勿論今渡された案件についての質問、という意味だったのだが、赤井の言葉に思案するように黙り込んだ降谷は、たっぷりと沈黙した後に、
    「……新一くんは居ないのか……?」
    と、消え入りそうな声で問うた。
    「おや、新一に用事が?」
    「べ、別にそういうわけじゃない」
     しどろもどろである。泣く子も黙る公安のエリートが酷く狼狽している。
    「喧嘩でもしたのか」
     煙草を取り出して口に咥えながら他意なく聞いたのだが、降谷の肩が面白いほど強く跳ねた。
     二人の間に沈黙が落ちる。
     暫く赤井の煙草を吸う音だけが部屋を支配した。真っ白な紫煙がリビングの天井へゆらりと消える。
    「新一は君を好いている。知っているだろう?」
     重い沈黙を破ったのは赤井の方だった。吸い殻が積み重なった灰皿に、短くなった煙草の灰を落とす。
    「いい加減、応えてやったらどうだ?」
     余計なお世話だろうな、と思いつつも口に衝いてしまう。自分も随分とあの坊やだった青年に肩入れするようになったものだ。
     新一が降谷を好きだと公言し始めたのはだいぶ前の事だった。マイノリティな差別など元々持ち得ない赤井は、新一の想いに「そうか」と頷いた。今思えばコナンだった頃から新一は安室に好意を持っていたように思えたからだ。ただ幼馴染みの彼女との事は気に掛かった。
     気遣いつつもそれを問えば、彼女にはとっくに振られていたらしい。案外彼女の方は新一の気持ちに気付き、自ら身を引いたのかもしれない──勿論、赤井の推測に過ぎないが。
     だが新一の想いに、降谷の方は応えなかった。
     同性だから、年齢が違いすぎるから、仕事が忙しいから、今は誰とも付き合う気はない──聞けばどれも尤もな理由だ。恋愛は「好き」という感情だけではどうしようもない事が多々ある。現職の公安警察官と未成年の付き合いは、そもそも世間的には認められないだろう。
     しかしそこで諦めなかったのが新一だ。
     毎日メールや電話をし、事件の合間に捜査協力のふりをして会いにゆく。好きだという感情を臆面もなく相手に伝え、初めは驚いていた周囲もいつの間にか味方に付けている。降谷からしてみれば苦々しい思いだったかもしれない。
     赤井の目には、降谷の方も新一に懸想していたように見える。それこそあの小さな名探偵の子供には、崇拝に似た感情を抱いていたのではないか。なのに好意を示す新一を受け入れないのは、降谷なりの拘りや理由があるのだろう。この男は頑固なので。

    「俺のこと、好きじゃないそうです」
     今にも泣きそうな顔でそう言った新一を思い出す。鼻の先と目の縁を赤くして、今にも溢れ落ちそうな涙を堪えて、好きじゃないと言われちゃいました、と赤井に吐露した新一を。
     ギュッと握り締めた拳は、力を込め過ぎて震えていた。手の平には爪痕が残っているかもしれない。ひょっとしたら傷が付いて血が滲んでいたかもしれない。

    「降谷くんは新一のことをどう思っている?」
     赤井のそれは直球の問いであった。すっかり短くなった煙草を揉み消して、箱からもう一本を取り出す。安物のライターで先端に火をつけ、深く煙を吸った。
     降谷は答えない。赤井の問いにも、新一の想いにも応えない彼を、狡く酷い男だと思った。
    「降谷くんがどうしても嫌だと言うのなら、俺が貰っても良いだろうか」
    「──……は?」
     降谷のこめかみがピクッと引き攣れたのが視界に映る。赤井は薄い唇で煙草を咥え、口の端を釣り上げて笑った。
    「俺は新一を気に入っている。君に振られて傷心中の彼を慰めれば、俺の方に靡くかも知れんだろう?」
    「……ふざけるな」
     怒りに震えた降谷の声。握り締めた拳がぶつかったのか、テーブルのティーカップが嫌な音を立てた。
    「おや、どうしてだ? 君は新一のことを好きではないのだろう」
    「俺は……っ、」
    「一緒に道を踏み外す勇気もない君には、新一の相手は無理だろうしな」
     怒りが頂点に達した降谷が立ち上がった。まだ中身のあるティーカップは今度こそ倒れ、琥珀色の液体がソーサーとテーブルに流れてゆく。今にも此方に掴みかかりそうな降谷を見ながら、それでも赤井は笑みを浮かべたまま。
    「新一の方は君を選んだのに、君は何も選べずにただ突っ立っている。なのに、彼を失うことも許せないのだな」
    「俺なんかを好きになっても碌なことがない」
    「それを決めるのは新一であって、君ではない」
    「彼には幸せになって欲しい」
    「新一にとっての幸せは、降谷くんといることなんだろう」
     赤井の言葉に反論していた降谷の声が、徐々に小さくなってゆく。まるで大人に叱られた小さな子供だな、と赤井は思ったが、勿論それを口に出すほど愚かではない。
    「降谷くん、これは最後の質問だ」
     赤井はまだ長い煙草を灰皿に押し付けて消した。最後の濃い煙がふわりと昇り、やがて霧散した。
    「君は新一のことが好きなのか?」
     大切に思い過ぎて、その手を取るのを躊躇うほど。
    「……ああ」
     顔を伏せ、ゆっくりと目を閉じた降谷は、やがて諦めたように肯定を口にした。


    「──だ、そうだ。聞いていたか、新一」
     ひゅっと息を呑む音がどこからか聞こえた。
     え?
     降谷の目が大きく見開かれる。
    「な、」
     驚いて振り返れば、リビングの扉の前に新一が立っていた。顔を真っ赤にし、可哀想なくらい震えながら。
    「あ、赤井っ、お前……!」
    「俺は新一はいないとは一言も言っていないだろう」
     しれっとそう言って、赤井はソファの背もたれに寄り掛かる。その目が楽しげに細まるのがまた憎らしい。
    「……っ」
     今にも泣き出しそうな顔をした新一は、戸惑ったように降谷を見つめていたが、やがて踵を返すとリビングから出て行ってしまった。
     直ぐに、バタン! と扉を閉める大きな音。どうやら外へと逃げ出してしまったらしい。
    「早く追い掛けたらどうだ? 俺は今『お留守番』中なんで、ここから出られないんでな」
    「覚えてろよ、赤井!」
     怒りからか照れからか、新一と同じくらい顔を赤くした降谷は、慌てたようにリビングを出て行った。途中転びそうになったのか派手な音が聞こえたが、それだけ動転しているかと思えば可笑しくなってくる。いくら公安のエリート捜査官とはいえ、好きな子が絡むと格好悪くなるらしい。
     追う方と逃げる方、あの二人の場合どちらが有利かは難しいところだが、きっと大丈夫だろう。
     赤井はまた新しい煙草に火をつけると、紅茶を片付ける為に立ち上がる。早くテーブルを拭き、食器も洗わなくては。なんといっても今の自分は居候の身なのである。家は綺麗にしておかなくてはならない。
    「新一は今晩帰ってくるのだろうか」
     夕飯はどうするかな、と主婦のような事を考えながら、まあ自分は留守番の使命を全うすることにしようと笑った。


    ふるしん



     旅行に行かないか。

     降谷にそう言われたのは新一が二十歳になったその日だった。
     仕事が忙しくて碌に会えない相手だ。そんな多忙な彼が、自分の誕生日を祝う為に時間を空けてくれたのは嬉しかった。
     普段行かぬようなホテルの最上階レストランでの食事。二十歳になった記念でほんの少しワインをご馳走して貰った。新一は分かりやすく浮かれていたし、アルコールのせいもあって気分も高揚していた。そんな中での旅行へのお誘い。新一は断る理由もなく、二つ返事で了承した。
     そうして短くも楽しかった逢瀬。降谷の愛車で家の前まで送って貰い、新一は助手席のベルトを外してドアを開ける。
    「今日はありがとうございました」
    「どういたしまして」
     いつも別れの時は胸が苦しくなるが、次は一緒に旅行に行けるかと思えば寂しくはない。寧ろ今の新一の心は浮き立っていた。
    「旅行、楽しみにしてますね」
     照れながらも素直にそう口にして、新一は車から降りた。ひんやりとした夜の風が火照った頬に心地良い。
    「新一くん」
     開いた車のウィンドウから声を掛けられ、新一は振り返る。運転席にいる降谷は、安室の時のような優しげな笑みを浮かべていた。
    「次に会った時は、君を抱くよ」
    「えっ」
     息を呑んだ。
     まるで心臓が一瞬動きを止めてしまったかのように。
     今、この大人はなんと言ったのだろう──優秀だと言われる新一の脳は、完全に思考を停止する。
     新一の目が今にも零れ落ちそうなくらい大きくなったのを見て、降谷は片方の口角を吊り上げた。まるで悪戯が成功した子供のように、それはそれは愉しげに。
    「またね」
     驚きで固まった新一をそのままに、降谷の車は緩やかに動き出した。軽快なエンジン音を鳴り響かせて加速し、あっという間に走り去ってしまう。
     後に残された新一は、暫く呆然とその場に立ち尽くしていた。言われた言葉を頭の中で何度も反芻し、やっとその意味を完全に理解すると、頭を抱えて地面に蹲る。その様子を誰かに見られたら、完全に不審者扱いだろう。
    「あの人……俺を殺す気かよ」
     ちくしょう、と文句をぶつける相手はもう目の前にいない。新一は真っ赤になった顔を手で押さえながら立ち上がり、ふらふらと家の中へと入った。幸い家族は海外である。新一がどれだけ挙動不審だろうが、誰にも咎められる事はない。
     どうやって鍵を開け、どうやって自室に入ったのか、新一はこの時のことをよく覚えていない。体がふわふわと空に浮いてるかのように、現実味がなかったのである。
     それから旅行までの間、新一は散々悶々とする日々を過ごす事になるのだった。






     流石に降谷が何日も休みを取るのは難しいらしく、旅行は一泊二日の予定となった。それでも新一には嬉しい。例え国内だろうが都内だろうが近場だろうが、降谷と一緒にいれる事自体が嬉しいのである。
     当日、東京駅で数週間振りに会った降谷はいつも通りであった。仕事はさほど繁忙期ではないのか、目の下に隈はない。いつもよりラフな格好で、小さなバッグを一つ手にして新一を待ってくれていた。
    「降谷さん、お待たせしました」
    「今来たところたよ」
     走り寄った新一に笑顔で応えてくれる。
     サラサラな金髪、晴れた空のような瞳、鼻筋の通った顔、加えてすらりとした長身と手足の長さ。見慣れている新一でさえ見惚れてしまう極上のイケメンである。同じ男として多少は悔しくは思うが、そんな彼が自分の恋人なのだと思えば鼻も高い。
    「天気が良くてよかったですね」
    「そうだね」
     青い空と白い雲。そして微かな潮風の香り。新幹線を降りると、空気が東京とは違っていた。
     見知らぬ土地に新一の気分も昂っていく。事件や依頼絡みではない、純粋な旅行をするのは久し振りだった。
     ホテルのチェックインを済ませると、早速観光スポットを探索する事にする。平日でも観光地には人が多い。二人で緩やかな会話を楽しみ、途中で買ったソフトクリームを食べながら、美しい景色を堪能する。
     普段、血生臭い事件ばかりに遭遇する身としては、太陽の光で輝く海を穏やかな気分で見る事は滅多にない。その上、隣には好きな人がいるのだから、なんて幸せなのだろう。残念ながら人前では手を繋いでは歩けないが、常に腕に触れる距離に温もりがあるのが嬉しかった。
     こうして普通を装ってはいるものの、新一は降谷に言われた言葉がずっと気になっている。そのせいで実は会った時から心臓はずっと早鐘を打っていた。
     今日ここへ来るのだって、肌の手入れをしてみたりとか、下着はどうすればいいのだろうとか、散々悩んでいたのだ。正直に言ってしまえば悩み過ぎて疲労も覚えていた。なのに、降谷の方はいつもと変わらないように見える。あの時の言葉は、新一の夢だったのではないかと思うほど。
    「なんだか機嫌が悪いね」
    「えっ」
     ホテルのラウンジで食事をし、アルコールを少しだけ嗜んだ後。部屋に戻ってシャワーを浴びた新一は、ベッドに腰掛けて水を飲んでいた。
    「さっきから黙り込んでいるし、不機嫌な顔だ」
    「……そんなことないです」
     否定はするものの、降谷はそれを信じてはいない顔だ。困ったように眉尻を下げると、反対側のベッドに座って新一を手招きした。
    「おいで」
     その言葉に新一は魔法に掛かったみたいに立ち上がる。ペットボトルをサイドテーブルに置くと、のろのろと緩慢な仕草で降谷へと近付いた。
    「髪、まだ少し濡れてるね」
     腕を引かれ、降谷の膝の間に座らされる。いつも見上げている降谷の顔が、自分の目線より下にあるのが新鮮だった。自分より体温の低い指先が、新一の濡れた毛先を弄ぶ。
    「今日は楽しくなかった?」
    「そんなことない。凄く楽しかった……けど、」
    「けど?」
     降谷の宝石のような瞳が、じっと新一を見上げている。その目に映る自分は、迷子のような不安な顔をしていた。
    「降谷さん……なんか、普通だから」
    「普通?」
    「いつもと変わらない。……お、俺はっ、すごい緊張してるのに……っ」
     言いながら顔が熱くなってきて、新一は俯いてしまった。きっと今の自分の顔は真っ赤だろうと思うと居た堪れない。
     あの言葉を言われた日から、ずっと新一は緊張しているのだ。心臓もドキドキして、こうしている今も息が苦しい。なのに降谷の方は普段通りなのが面白くなかった。まるで自分だけが意識しているみたいで。
     二人の間に沈黙が落ちる。何も言わない降谷を訝しみ、新一が恐る恐る顔を上げようとした時──突如強い力で抱き締められた。
    「わっ! ちょっと、降谷さ……っ」
    「君は本当に可愛いね」
     耳元に囁かれる、吐息混じりの声。熱を孕んだその声に、新一の体にぞくっと震えが走る。
    「これでも俺も緊張しているんだけどな」
    「う、嘘だろ」
    「嘘じゃない。ほら」
     僅かに身を離した降谷は、新一の手を取ると自身の胸へと触れさせる。真ん中から少し左にずれた温かな箇所。掌に感じる鼓動は通常よりもずっと速い。
    「どう?」
    「すごい、ドキドキしてる……」
     ひょっとしたら自分よりも。
     こんなに落ち着き払って見える降谷からは想像できない。
    「好きな子には格好良く見せたいからね。これでも平常心を保つのに必死なんだ」
     胸に触れていた手を握られて、そっと指を絡められる。もう片方の降谷の手は、新一の左胸へ優しく触れた。
    「新一くんも同じなんだと思うと嬉しい」
     そう言って降谷はふわりと微笑んだ。その綻んだ顔を見ただけで、新一の胸はぎゅっと苦しくなる。以前は色恋沙汰に鈍感だったが、今の新一はこの胸の震えが恋なのだと知っていた。自分はこの人に恋をしている。
     ベッドのスプリングが小さな音を立て、新一は自分がシーツの上に沈められた事に気付く。あ、と驚いて上を見上げれば、少しだけ苦しそうな顔をした降谷と目が合った。
    「なるべく、優しくするけど」
     僅かに上擦った声。
    「苦しかったり、嫌だと思ったら、遠慮なく言ってくれ」
     そう言って新一の頬を撫でる。何度も、何度も。優しく。そんなに大切に扱わなくていいのに。自分は簡単に壊れたりなんかしない。
    「……もし俺が嫌だって言っても、やめないでいいよ」
     新一は頬を染め、涙目になりながらも言葉を紡ぐ。頰に触れる降谷の手に、自分の手を重ねた。
     降谷さんになら、何されたっていいんだから──。
     唇から囁かれた新一の言葉は、最後まで声にはならなかった。自分に覆い被さる大人が、途中でその口を塞いでしまったので。
     これ以上の愛の言葉は二人だけの秘密である。


     次の日、体がボロボロになった新一は旅行どころではなくなるわけだが、甲斐甲斐しく世話を焼く恋人に上機嫌なのだった。



    ふるしん

    愛情をチャージするはなし。


     数日前に送ったメールの返信が、忘れた頃に返ってくる。なんて良くある事だ。
     新一は久しぶりに返ってきたメールの画面を睨み付けた。今夜はもう寝ようとベッドに入ろうと思っていた途端にこれだ。一応謝罪は書かれているものの、短く素っ気ない返答に苛立ちが募る。
     誘った映画のチケットはもう期限切れ。電話を掛けても毎回毎回留守番電話で、折り返してくれる事は稀だ。姿を見るどころか声も聴けず、ここ最近は何日も音信不通が続いていた。
     仕事が忙しいのは分かる。一緒に事件を解決した事もあるのだ、あの仕事の過酷さは分かっているつもりだ。きっと今は何か重要な案件を抱えているのだろう。
     頭では分かっている。だが感情が付いていかない。
     なんなんだよ、ちょっと俺ほっとかれすぎじゃねーの?!
     同性で年齢差が如何にあろうとも曲がりなりにも自分たちは恋人である。世間に公表出来ずとも陰ではラブラブしてもいい筈だ。
     なのにデートどころか全く会えない。
     仕事に忙しい恋人を持つ事がこんなに大変だったとは。これではまだコナンだった時の方が会えていた気がする。あの頃はポアロに行けばその姿を見つける事ができたのに。
    「はぁ」
     画面が消えたスマホを見て溜息を一つ。そういえばいつも連絡はこちらからだ。あちらから電話もメールも殆ど来た事がない。会いたいと言うのも自分だけ。
     会えなくて不満なのは自分があの人より子供だからなのだろうか。あの大人は自分に会いたいと思うことはないのだろうか。
     新一は何度目かの溜息を吐くと、スマホの電源を落とした。自分の幼さにうんざりとする。女々しい。こんな筈じゃなかったのに。
     もうやめようと思った。せめてもう少し自分が大人になるまで、こちらから連絡するのをやめよう。どうせ相手は気にしやしないのだ。寧ろ煩くなくてホッとするかも知れない。
     新一はスマホをそのまま机の引き出しにしまうと、鍵を掛けて放置することにした。友人達には壊れたとでも言っておこう。数日間、スマホが無くたって困りゃしない。
     新一は頭から毛布を被ると、さっさと寝てしまうことに決めた。




     それから二週間。

     新一はそれなりに上手くやっている。事件に巻き込まれ、事件に首を突っ込む。そして事件を解決する。いつも通りであった。
     スマホが手元にないことは不便ではあるが、友人たちには学校で会えるし、情報を調べるのはパソコンで良い。普段は友人と馬鹿騒ぎをしたり、空いた時間は一人で本を読む。何も問題も無い。
     そう思っていたのに。
    「はぁ……」
     溜息ばかり出る。とぼとぼと家へと帰る足取りが重い。手は無意識にスマートフォンを探してポケットに手を置いてしまう。勿論そこには何も無かった。
    「新一、辛気臭い」
     隣で呆れたように言うのは幼馴染の蘭である。咎めるようなその声には心配が滲んでいて、最近の新一の様子が気に掛かるのだろう。
    「溜息を吐くと幸せが逃げるって言うでしょ」
    「俺は十分幸せだけどな」
    「よく言うわよ、一日に何度も溜息吐いてるくせに」
     なんて言われてしまえば、新一は何も言い返せない。気まずげにアスファルトに視線を落とし、散らかった枯葉を踏み潰して歩く。
     時折冷たい風が吹き、新一の頬を容赦なく叩いた。もう冬が近付いているのだ。人恋しい季節。何故寒くなると人は寂しさを覚えるのだろう。
     寂しい。
     そう、自分は寂しいのだ。
     会えない事も、連絡が来ない事も、ずっとずっと寂しくて不満だった。それを振り切る為にスマホを目の前から排除したのに、それでも結局は寂しさからは逃れられない。寧ろ酷くなった気がする。
    「ねえ、新一」
     隣を歩いていた筈の蘭が、いつの間にか新一を追い越して数歩前にいた。目を細め、優しい笑みを浮かべてこちらを振り返る。
    「言葉は言わなきゃ相手に伝わらないよ、知ってた?」
    「……」
    「寂しさに年齢は関係ないしね」
    「蘭」
     どこまで知っているのだろう、この幼馴染は。
     戸惑い、立ち止まってしまった新一に、蘭は笑ってひらひらと手を振る。
    「今日は早く帰った方がいいよ。今夜はもっと寒くなるみたいだから」
     おうちに帰って温まってね。
     そう言い残すと、聡く優しい新一の幼馴染はさっさと行ってしまった。段々と小さくなる背中を見送って、新一はそっと息を吐く。
     ぼんやりと空を見上げれば、東の空から薄暗い闇が迫って来ていた。あと一時間もすれば街には夜の帳が下りるのだろう。そうして夜になればもっと寂しさが増す。
     夜の闇と、青い空と、太陽の赤い光が混ざりあ合う美しい色が好きだった。今の新一はそれを見ても心は動かない。
     ひとりになったことで、新一を包む秋の冷たさが酷くなった気がした。



     時折吹く冷たい風に震えそうになりながら家路を急ぐ。防寒具を何一つ身に付けていないので指先も鼻先も冷たい。
     家に帰ったらまず机の引き出しを開けてみよう。久し振りにスマホを充電し、それから電話を掛けてみよう。それともまだ仕事中だろうから、メールの方が良いだろうか。
     どんなメッセージを入れようか。
     体調を伺って、近況を報告して──いや、違う。今自分が言いたいのはそんな事じゃない。本当に本当に、自分が伝えたいこと。
     寂しい。
     そして、会いたい。
     声が聴きたい。
     それを真っ先に伝えてみようか。子供っぽいと思われるかもしれないが、正直に。
     そう思って俯いていた顔を上げると、家の前に見慣れた車が停まっているのが見えた。見覚えのあるそれに、新一の目が大きく見開く。
     真っ白なRX7。何度も乗ったことのある車。これを乗り回す大人を、新一は一人しか知らない。
    「降谷さん──」
     驚きで立ち竦んだままの新一の前に、スーツ姿の男が車から降りてきた。




     何ヶ月かぶりに見た降谷は少し痩せただろうか。安室透の時のような人懐っこい笑みを浮かべ、「久し振りだね」と優しいテノールで声を掛ける。新一がその声を聴くのも、随分と久し振りだった。
    「こっちへおいで」
     来ないなら、俺が行くけど。
     彼はそう言って、まだ呆然と突っ立ったままの新一の元へ歩み寄る。コツコツと近付いてくる靴音に、ぴくりと新一の肩が震えた。
    「あ、あの……っ」
    「スマホ、壊れたんだって?」
     降谷は新一を見下ろして笑っている。これは何もかも知っている顔だ──新一の背に嫌な汗が伝った。
    「どうりでメールに返事もないし、電話も通じないわけだ」
    「……電話、くれたんですか」
    「ああ」
     久し振りに見る降谷の青い眼。青空のような虹彩に、目を瞠いた新一が映っている。その目の下には薄らと隈があった。よく見ればいつもよりスーツも草臥れている気がする。精彩を欠いたその様子に、新一の胸が痛んだ。
    「忙しいのに、すいません」
    「何が?」
    「わざわざ来てくれたんでしょう?」
     急に連絡が取れなくなったら、心配するのは当たり前だ。
     新一は唇を噛んで俯いた。なんて自分は子供なのだろう。忙しい大人を煩わせるような事をして。
     返事が遅いのも、電話がないのも、この人が仕事が忙しいのだろうという事は知っていた。連絡が途絶えたら心配するだろう、という事も。
     自分はそれが分かっていて、わざとこうしたのだ。計算尽くで、卑怯な手。構って欲しくて駄々を捏ねる子供の方がまだマシだ。
     それでも会いに来てくれた事を嬉しいと思う自分。
    「新一くん」
     降谷の乾いた指先が新一の頬に触れる。そのまま促されて、新一はのろのろと顔を上げる。間近に見る瞳は思いの外穏やかで、体が微かに震えた。
    「あまり会えなくて、君には申し訳ないと思ってる」
    「降谷、さん」
    「こちらからはあまり連絡出来ないけど、君から来るメールはいつも楽しみにしてるんだ」
     指は頬からこめかみを伝い、新一の髪の毛を優しく梳く。まるで壊れ物に触れるかのように、そっと。
    「最近は君からのメールが無くて、寂しかった」
     降谷の言葉に、新一の目が大きく見開く。
    「寂しい……?」
    「俺でも寂しいと思うことはあるよ」
     驚きの表情を浮かべる新一に、降谷は苦笑する。
    「好きな子にずっと会えずにいるのは、死にそうなくらい寂しい」
    「……っ」
    「だから君も、寂しい時は俺にそれを伝えてくれないか」
     直ぐに会えなくても。
     同じ気持ちなのだということが知れたなら。
    「降谷さ……、」
     新一が震える手で降谷の腕を掴む。目にじわりと涙が滲むのを必死に堪えた。俯いて「ごめんなさい」と小声で呟くのに、降谷は小さく笑ったようだ。
    「謝ることはない。でもスマホの電源は入れておいてくれると嬉しい」
    「……はい」
     降谷の大きな手が新一の頭を撫でる。ぽんぽんと、まるで子供にするみたいに。不思議と子供扱いされた事に怒りは湧かなかった。コナンだった頃を思い出して頰が熱くなる。
    「あの、なんでスマホのことを?」
     疑問に思っていた事を問えば、降谷は「ああ」と悪戯っぽい笑みを浮かべる。
    「蘭さんから連絡があったんだよ」
    「えっ?」
    「スマホが使えないのは、寂しいのが原因なんじゃないかって」
     彼女は本当に君を理解してるんだな。
     ──妬けるくらいに。
     そう口にする降谷の言葉は本心なのだろう。その表情に少しだけ滲む苦さに、新一は目を瞬かせる。
    「さて……、残念だけど時間切れだ。仕事に戻らないと」
     降谷は視線を腕時計に落とし、溜息を一つ吐いた。多忙なのに無理をして会いに来てくれたのだろう。申し訳ないのに嬉しい。でももうさよならかと思えば悲しくて。色んな感情がごちゃ混ぜになった新一の胸は苦しくなる。
    「メール、待ってるから」
    「はい」
    「俺もなるべく返すよ」
    「待ってます」
     車までの僅かな距離を手を繋いで歩く。工藤家の周囲は静かで、この時間帯は人通りが少ない。ぎゅっと繋いだ手に力を入れれば、同じ力で握り返された。
    「新一くん」
     車に乗り込む直前。手を離され、寂しさに震えた新一の肩を降谷が掴む。新一が不思議に思う間も無く、唇に柔らかな感触が掠めた。
    「は……」
     キス、された。と新一が知覚する前に、それは直ぐに離され、ずるい大人は車に乗り込む。
    「じゃあね」
     そうして唇を吊り上げて笑うと、さっさと車を発進させて行ってしまった。それ以上何も言うこともなく、颯爽と。
     やがて通りの向こうにエンジン音が遠ざかると、辺りには静寂が戻った。
     新一は暫く呆然と突っ立っていたが、熱を帯びたかのような唇を押さえ、のろのろと家へと入る。頰が熱い。耳まで熱い。あっという間に消え去った寂寥感に笑い出しそうだ。
    「ほんと、ずりーの……」
     これが惚れた弱みってやつか。
     スマホの電源を入れたら、真っ先に文句のメールを送ろう。そうして次はいつ会えるか約束をして貰わなくては。
     自身は愛情をチャージされた事にご機嫌になりながら、新一はスマホの充電を急ぐのであった。




    女装降谷さん



     港に昨夜から停泊している客船は、青白い光を放っていた。一般人には一生縁の無い、最上級のクラスの豪華な客船だ。
     最高級のサービスを謳うこの船は、どんなに金を積んでも中には入れない。招待状を受け取った者とパートナーだけが入ることが出来る特別な船。その中では様々な娯楽、そして怪しい取引が行われる。新一は今、その船に一人で乗り込んでいた。
     ホールではワルツが流れ、多国籍の老若男女がステップを踏んでいる。新一とて多少は踊れるが、今はダンスをする気分ではない。さっさとそこを通り抜けようとしたというのに、目の前に赤いドレスの女が立ち塞がった。
     踊りませんか? と華やかな笑みで誘われる。勘弁してくれ、と内心で思いながら、新一は断りの言葉を口にする。本来なら女性の誘いを断るのはマナー違反だ。だが、新一は遊びでこの船に来たわけではない。
     目に見えて目の前の女は不機嫌になる。ここで揉め事を起こすのは非常にまずかった。ちらりと視線を走らせれば、新一のターゲットが他の客と談笑している。今、目立つわけにはいかない。
    「こんなところにいたの?」
     その時、するりと長い腕が新一の腕に絡み付いた。真っ黒なイブニングドレスの女。首にはショールを巻き、手首と足首しか晒されていない。
    「私を置いていくなんて酷いじゃない」
     そう言って唇を新一の耳元に寄せる。緩やかに巻かれた金の髪、甘い香水の匂い。新一は目を見開いて顔を上げ──そして固まった。
     褐色の肌、空色の瞳。しっかりとメイクされているのに、その虹彩の色は誤魔化しようがない。
    「ふ、」
     降谷さん──?
     彼女はにっこりと微笑むと、新一の腕を引いてホールの外へと歩き出した。
     後に残された女性は唇を噛み締め、急ぎ足で人混みの中へと消える。流石に他の女に取られた事を騒ぐわけにはいかないのだろう。
    「な、何してるんですか…っ、それもその格好…」
    「君こそどうしてこんなところにいるのかな?」
     濡れた血のようなルージュの唇を器用に歪め、新一に絡みつく腕の力が強くなる。長い指先にはネイルも施され、美しい宝石が嵌め込まれた指輪が光っていた。
    「せ、潜入捜査ですか?」
     もしかしたら公安もあの男をターゲットにしているのだろうか。だとしたら新一がここに入り込むことも知られていた可能性がある。
    「風見と一緒だ。招待状は男女のペアという事だったんだ。あいつには女役は無理だからな」
     確かに風見よりは降谷の方がマシだろうが、それにしたって。
     ふわりと揺れる黒のドレスは褐色の肌に良く似合っていた。綺麗に巻かれた金髪も、その耳に飾られた大振りなピアスも、降谷をとても美しい女性に演出している。背が高いせいで、どこぞのモデルのようにも見えた。
    「降谷さん…案外女装似合いますね」
     素直にそう口にすれば、目の前の美人はにっこりと微笑んだ。やばい、その目はちっとも笑っていない。新一の肩にしな垂れかかり、作り物の胸を押し付けてくる。怖い。
    「危ないことに首を突っ込むなといつも言ってるだろう」
     囁く声は男のものだ。だが顔を寄せ合って話している為、周りには聞こえない。周囲の目には、さぞかし親密に見えるだろう。
    「それを俺に言っても無駄なことくらい分かってますよね?」
     新一も負けじと吐息が触れそうな程に顔を近づけ、降谷の瞳を見つめて口の端を吊り上げる。背中に手を回し、そのブロンドの髪を柔らかく指先で弄んでやれば、目の前の男は盛大な溜息を吐いた。
    「全く君は……まあ、ちょうどいいか」
    「何がです?」
     女性に扮した降谷は、眉根を寄せた新一の肩に手を寄せる。
    「実はね、風見は船酔いで使い物にならないんだ」
    「え…」
     まだ出港しているわけでもないのにか。
    「君は見たところ一人のようだし、パートナーとして行動してくれると助かる」
    「それは、勿論──」
     いいですよ、という言葉は声にならなかった。目の前の鮮やかな口紅を引いた唇に、突然口を塞がれたからだ。
    「ん…っ」
     肉厚な舌がべろりと新一の上唇を舐め、僅かに開いた口腔内に降谷の舌が入ってくる。舌は歯列をなぞり、頬の内側をぬるりと舐めてゆく。やがてチュッというリップ音と共に唇が離れた。
    「…っ、は…」
    「よろしくね、ダーリン」
     降谷は口の端を吊り上げると、息も絶え絶えな様子の新一の唇を拭ってやる。新一の唇には熟れた果実のような赤い口紅が付いていた。
    「…な、なにす…!」
    「ごめんなさい、部屋での方が良かったわね」
     赤くなって怒鳴りそうになる新一に、降谷の軽い肘鉄がヒットする。今は黙ってろ、ということなのだろうが、こんな事をされて平気な顔をしていられるほど新一も図太くない。
     続きは後でね、とウィンクをして、降谷は新一に腕を絡めて歩き出す。赤くなった新一は、殆ど引きずられるように降谷に続いた。

     ──ちくしょう、後で覚えてろよ。

     実は風見は最初から船に乗っていなかったことを新一が知ったのは、事件が解決してから数日後のことだった。





    『降谷さんの幽霊の話』


     新一が元の姿を取り戻して、もうすぐ三年になる。
     この三年間、色々なことがあった。灰原は宮野に戻り、赤井はアメリカに帰国し、新一は大学に進学し、そして大学が離れた幼馴染の蘭とはいつの間にか疎遠になってしまった。時の流れというのは残酷で、そして儚い。
     安室透から降谷零に戻ったあの人とは、工藤新一の姿で一度会っている。言葉を一言二言交わし、それ以来会っていない。相変わらず、潜入捜査をしているのかなとか、公安として様々な任務に付いているのかなとか、時折頭によぎるものの、会う機会はなかった。そもそも公安は殺人事件の捜査はしないし、怪盗も専門外だ。新一が探偵として動いていても、彼と会う可能性は極めて低いのだ。
     なのに。



    「なあ」
     声を掛けられて、宮野は顔を上げる。タブレットで何か調べ物をしてたらしい彼女はあからさまに不機嫌な顔だ。忙しいなら阿笠家に帰れば良いだろうに、彼女はいつもこうして工藤家のリビングに居座っている。
    「なに?」
    「んーと…」
    「何よ?」
     言い淀む新一に宮野の眉間の皺が一本増えた。跡でも残ろうものなら後から何を言われるか堪ったものではない。
    「なんか、その…変な気配がしねえ?」
    「は?」
     呆れたような声だ。それはそうだろう。新一も変な事を言っているなという自覚はある。
    「何か、見えたり…とか」
    「何を言ってるの?」
     眉間の皺はそのままに、可哀想な物でも見るような目付きだ。宮野はその表情のまま、キョロキョロとリビングを見回した。
    「何も無いけど……あなた大丈夫?」
    「いや、何もねえならいいんだけどよ」
     ハハハハハ、と乾いた笑いを返して新一は誤魔化すようにカップに口をつける。カップの中のコーヒーは既に冷めてしまっていた。
     ──やっぱ、見えねえか。
     再びタブレットに視線を落とした宮野を見ながら、新一はバレないように溜息を吐く。
     一般家庭よりも広いリビング。上等な絨毯に良質な家具。大画面のテレビには先程からワイドショーが流れている。子供の頃から見慣れた自分の家。
     新一がいま腰を掛けているソファの横に、明らかに尋常じゃない影が揺らめいている。金髪で背の高い男。朧げで半透明なその存在は、およそ三年ぶりに会う降谷零の姿だった。
     ──どう見ても…降谷さん、だよなぁ。
     それは自分にとって馴染みのない名前だったが、潜入捜査を終えた彼はもう安室透ではないのだ。この人の名前は降谷零、と新一は心中で呟く。
     彼の姿が見えるようになったのは今からおよそ一ヶ月前のことだ。初めて見た時は自分の目を疑ったし、頭の方も疑った。だがこれが毎日続けば嫌でも慣れて来る。
     彼は新一が行く所なら何処にでもいる。目は合うものの、他には何も無い。当然触る事も出来ず、会話をする事もない。ただそこにいるだけの存在。
     彼の青い虹彩は真っ直ぐに自分を見詰めている。優しい眼差しだった。整った顔をしているとは思っていたが、良く見ればムカつくくらい美丈夫である。これで更に何でもこなす人なのだから、神様ってやつは残酷なのだ。
     ──なんで降谷さんが見えるようになったんだろう。
     ひょっとして自分は降谷に会いたいのだろうか。確かに新一は、降谷にもう会えない事を寂しくは思っている。コナンから新一に戻り、彼との接点は完全に失われてしまった。恐らくあの人はコナンの正体に気付いていたとは思うが、それを明言することは最後までなかったのだ。
     ──協力者として、色んなことをやって来たのに。
     彼と自分を繋ぐ糸はあっさりと切れてしまった。あのハムサンドも、コーヒーも、二度と新一が口にすることはない。
     新一は手を伸ばし、そっと側にいる降谷に触れようとする。だがその手はあっさりと素通りし、なんの感触もない。こちらを見下ろす降谷の表情も変わらない。
     新一はぼんやりと自分の手を見下ろした。やはりこれは幻なのだろうか。こんなに側にいるのに触れられない。話すことも出来ない。
    「何してるの?」
     訝しげな声にハッとする。顔を上げれば胡乱な目付きの宮野がこちらを見ていた。
    「いや、別に…」
    「何か悩みがあるなら聞くわよ」
     小さく嘆息し、タブレットをテーブルに置く。もう見る気は無い、ということなのだろう。余計な心配をかけてしまったようだ。新一は苦笑する。
    「いや、ほんとに大したことじゃねーんだ」
    「オカルト的な話なのかしら」
     探るような目線だ。
    「オカルトって…心霊現象か?」
    「そうよ。気配を感じたり、見えたりとか、霊の話かと思ったわ」
     霊──。
     新一は思わず降谷の方へ視線を向けた。彼は相変わらずそこに立っているだけだ。
     青くて美しい瞳。優しい眼差し。そこにはほんの少し切なさが垣間見える。どうしてそんな目で自分を見るのだろう──。ズキン、と心臓が痛んだ。
    「…何か、そこにいるの?」
     そう訊ねる宮野の声には怯えが滲んでいる。彼女を怖がらせるわけにはいかない。
    「違う。ただその…会いたい人がいて」
     降谷から目を逸らし、新一はカップの中身を凝視する。闇夜のような液体には、冴えない顔の自分が映っていた。
    「会いたい人?」
    「ああ…会いたくて幻を見る、みたいな…」
     何を言ってるんだ、と自分でも思う。会いたい…──のか。幻でも、幽霊だとしても、会いたい。誤魔化す為に出た言葉だったのに、それは真実のような気がした。
    「その人に連絡をしてみたら?」
    「……連絡先を知らない」
     いや、正確には安室透の電話番号は知っている。だが、恐らくもう使われていないであろう。安室透はもう存在しないのだから。
    「あなたらしくないわね。それくらい本気を出せば調べられるでしょう」
     確かにその通りだった。風見ならば降谷の居所は知っているだろうし、FBIである赤井に頼んでも快く調べてくれるだろう。だがそれをしようとは思わないのは、新一自身の気持ちがまだ曖昧だからだ。
    「あなたが見ているものが幻なのか幽霊なのか知らないけれど、会えば安心するわよ」
     宮野の顔は真剣だった。こんな酔狂なことを言い出した新一を、茶化したりもしない。
    「それにもし後者だったのなら──その人の身に何かあったことになるわ」
    「何か、って」
     問い返した新一に、宮野はそれ以上何も言わなかった。テレビも何もついていない部屋は静寂に包まれる。
     重い、不安が増す沈黙の中で、半透明な降谷の姿だけがユラユラと揺れていた。



     降谷零、いや安室透との思い出は実はそう多くはない。初めはバーボンである彼を警戒していたし、コナンとは腹の探り合いをしていたように思う。
     様々な事件を経て、いつの間にかコナンは安室を信用するようになっていた。彼は非情で冷淡なところがあったが、悪い人間ではない。彼が信じ、掲げるのは確かに正義だった。例えそれが、コナンには理解が出来なくても。
     新一はぼんやりと、目の前にいる降谷らしき存在を見る。彼は口許に笑みを浮かべていた。青いその目を眇めるようにして、新一を真っ直ぐに見つめている。
    「降谷、さん…」
     声に出して名前を呼んでみる。
     目の前の男は答えない。表情も変わらない。どうしてそんな目で自分を見るのだろう。そんな、優しい顔で。
     ──死んだのか。
     彼は、降谷零は、亡くなってしまったのか。そして何か思い残す事があって、それを伝える為に新一の元に居るのか。それは一体何なんだ。
     それを確かめるには風見にコンタクトを取ればいい。あの人は工藤新一とは面識がない。ならば江戸川コナンとして、電話をするしか方法はなかった。
     新一は先程から変声機を片手に、踏ん切りがつかないでいる。もし、もし本当に降谷が亡くなっていたら──。
     胸がズキズキと痛む。不安、悲しみ、虚しさ。息が苦しくて、頭を抱えたくなる。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ──。考えたくなかった。あの人が死んだなんて、考えたくはない。
     危険な任務をこなしている人だ。本人も周りも覚悟はしているだろう。けれど新一は違う。新一は降谷の身内でも仕事仲間でもないのだ。友人として彼が死んだら悲しい。彼に死んで欲しくはなかった。
     友人として──?
     新一の目の前にいる降谷の姿は半透明で、後ろには窓が透けて見えていた。真っ青な空。白い雲。時折風が吹き、木々が揺れる。
     本当に友人としてだろうか。自分は降谷を、安室を、どう思っていたのだろう。
     降谷の青い瞳はじっと新一を見ていた。見ているのに、見ていない。彼は、もう二度と新一を見ない。二度と見ることが出来ない。あの甘く響く声も、新一はもう二度と聞けない。
     新一の手から変声機が滑り落ち、床に音を立てて転がった。
     視界が白くぼやけ、生温い感触が頬を伝う。ポタ、と雫が太腿に落ちて、新一は自分が泣いていることに気付いた。
    「降谷さん…」
     いくら名を呼んでも彼には届かない。本物の彼は、新一の傍には居ないのだ。
     今更気付くなんて、どうして。
     三年も経っているのに──もう会うことはないのに。
     新一は肩を震わせ、ゆっくりと息を吐く。そうしないと嗚咽が漏れそうだった。ポタポタと涙が落ちて、新一の衣服を濡らしてゆく。
     降谷さん、俺は──。

     吐息と共に漏らした告白は、誰の耳にも届かない。




    あむこ


    「こんにちは、安室さん。今日も寒いね」
     厚手のコートにマフラー、ニットの帽子に手袋という完全防備をした子供は、ポアロの前で掃き掃除をしている安室に声を掛けてきた。
    「こんにちは、コナンくん。お出掛け?」
    「うん。ほんとは寒いから家に居たいんだけど、遊びに誘われてて…」
     顔に如何にも不本意です、と書いてあるのを隠しもしない。コナンは最近安室に対して過度な猫を被るのをやめたようだ。
    「小学校はもう冬休みなんだっけ」
    「ううん。冬休みはクリスマスの次の日からだよ」
    「へえ。じゃあ明日が終業式か」
     自分が子供の頃はクリスマスはもう冬休みだった気がするが。
     安室は無意識に思い出そうとしている自分に気付き、そこで思考を止めた。子供の頃の思い出は今はまだ胸の奥に閉じ込めておきたい。
    「安室さんは随分と軽装だね…寒くないの?」
    「枯葉を掃きに出ただけだからね。もうポアロの中に戻るよ」
     とは言っても今日はやけに冷える。ほんの数分外に居ただけで、安室の手は既に冷たくなっていた。
    「明日はもっと冷えるんだって。クリスマスには初雪が降るかもしれないらしいよ」
    「どうだろうね。クリスマスに都内に雪が降ったのは三十四年も前の事だから」
     恐らく降ることはないだろう。そう暗に仄めかせば、目の前の子供はニヤリと口角を吊り上げて見せた。
    「三十四年間降らなかったからって、今年も降らないとは限らないよ」
    「コナンくんは降って欲しいのかい」
    「だってその方がロマンチックでしょ」
     そう言って笑う顔は、子供らしく無邪気なものだ。安室は思わずクスッと笑ってしまった。
    「そうだね。じゃあ雪が降るように祈っておこうか。コナンくんはクリスマスは友達とパーティーかい?」
    「うん、阿笠博士の家でやるんだ」
    「そう。楽しみだね」
    「あ、安室さん、これ」
     あげる、と言って子供が差し出して来たのは、ミニサイズのカイロだった。
    「僕に?」
    「うん、安室さんが風邪を引かないように。じゃあね」
     元気良く手を振って、コナンは走り去ってゆく。その姿はどこから見てもただの子供だ。
     安室はカイロを握り締め、小さくなってゆく背中をじっと見送った。やがてその姿が見えなくなる頃に、子供に礼を言うことを忘れていたことに気付く。
    「…初雪、ね」
     貰ったカイロを握り締めながら空を見上げる。見上げた頭上の空は真っ青で、とても雪が降るとは思えない天気だ。口から漏れる息だけが真っ白だった。

     ──もし、クリスマスに雪が降ったなら。
     安室は目を閉じて、賭けをする。小さく呟かれたその誓いを、聞いている者は誰もいない。

     冷たい風が通り過ぎる寒空の下で、カイロを持った手だけが燃えるようだった。



     夕方までのシフトの梓が退勤すると、ポアロの中は途端に静かになった。クリスマスのせいか、客足は少ない。奥のテーブル席に、カップルが一組いるだけだ。
     洗った皿を拭きながら、安室は窓から覗く空に目をやる。空は薄い青空で、今日も雪が降りそうには見えない。
     ──やはり雪は降らないか。
     苦笑いを浮かべ、小さく息を吐く。今朝の天気予報では雪の話は全く出ていなかった。空気は冷えているが、このままでは雪は降らなそうだ。
     安室にとってクリスマスはただの平日だ。こうしてポアロの従業員として過ごし、組織からの呼び出しがあればそれに応える。クリスマスという日に胸を躍らせていた青い時期はとっくに過ぎ去ってしまった。
     皿を磨く事に集中していると、ポアロの扉が開き、ベルが来客を知らせる。安室は「いらっしゃいませ」と口を開き、客の姿を見て動きを止めた。
    「コナンくん」
    「こんにちは、安室さん」
     二日ぶりに会う子供は少し落ち着かない様子で店内に入って来た。今日はコートにマフラーだけの服装だ。
    「今、安室さんだけ?」
    「梓さんはもう帰ったよ。座って」
     カウンター席を勧めれば、コナンは素直に指定された席へと座る。何やらその表情が硬いように見えるのは気のせいだろうか。
    「どうしたんだい? 今日はクリスマスパーティーじゃなかった?」
     コップに水を入れ、目の前に置いてやる。コナンは目を泳がせながら、「うん」と曖昧に笑った。
    「これから行くよ。その前にちょっと喉が乾いたから、安室さんが淹れたコーヒーを飲みたくて」
    「…それは光栄だけど」
     なかなか嬉しいことを言ってくれる。本人にその自覚がなさそうなところが問題だが。
    「アイスコーヒーで良いのかな? 寒いしホットにしておく?」
    「ううん。アイスでいいよ」
     マフラーとコートを脱いで、コナンはほんの少し笑った。その顔はいつも通りのもので、何故か安室はほっとする。
    「そういえば一昨日の礼を言ってなかったね」
    「え?」
    「カイロ。ありがとう」
     もう熱を失ったそれは、まだ捨てられずに安室の部屋にあった。一度熱を失ったものは再び熱くはならない。人の気持ちと同じだ。
    「少しは温かくなれたなら良かったよ」
     差し出されたアイスコーヒーを一口飲んで、子供はにっこりと嬉しそうに笑った。屈託のない笑顔だ。コナンの邪気のないこんな笑顔は安室には眩しく、そして少しだけ苛立ちを覚える。
     コナンは本当に安室を案じてくれているのだ。出会った当初は警戒をしていた筈なのに、いつの間にこの子は自分をこんなにも信頼するようになったのだろう。
     テーブル席にいた客が帰ると、安室とコナンは二人きりになる。静かな時間だった。安室は黙々と仕事をこなし、コナンは無言でアイスコーヒーを飲む。シロップもミルクも入れていないようだ。
     無言が苦にならない相手というのは貴重だ。会話を無理に探す必要もなく、気を使うこともない。安室は最後の皿を片付け終わると、コナンの方を向いた。
     青い、深い海のような瞳がじっとこちらを見つめている。その目の真摯さに、安室は一瞬たじろぐ。
    「安室さん」
    「……どうかした?」
     この後、友達とパーティーだという子供。たくさんのご馳走や飲み物がある筈だ。なのにここに来た理由は何だ?
    「…これ、安室さんに」
     子供特有の柔らかそうな頰がほんのりと赤かった。その顔を逸らして俯いて、テーブルの上に差し出して来たのは小さな紙袋。青いリボンが掛けられている。
    「…これ」
    「クリスマスプレゼント」
    「僕に?」
     安室は驚きで目を見開く。手に皿を持っていなかったのは幸いだった。手にしたままだったら落としていたかもしれない。
    「小学生のお小遣いだから、そんな高価なもんじゃないよ」
     そうぶっきらぼうに言うのは照れているせいだろう。いつも真っ直ぐに見つめてくる瞳が、安室から逸らされたままだ。
    「…開けてもいい?」
    「うん」
     袋から出て来たのは、男物の手袋だった。温かそうな毛糸で出来ており、黒と白のノルディック柄だ。
    「ポアロの外を掃除する時にでも使ってよ」
     照れているのを誤魔化す為か、コナンはストローを啜る。だが既に中身のないグラスは、ズルズルと情けない音を立てるだけだった。
    「……ありがとう、コナンくん。大切にするよ」
    「う、うん…」
     俯く子供の顔は耳まで赤く染まっている。それを見つめながら、安室は自分の腹の奥底がじわりと熱くなるのを感じた。誰かに何の策略もなく物を貰ったのはいつ振りだろう。かつての恋人にか、今はもう亡くした友人たちにか。
     そうしているうちに、いつの間にかポアロの窓から見える空は薄暗くなっていた。道を行き交う人々が、冷たい風に寒そうに首を竦めている。
    「あ。あれって雪じゃない?」
     窓に視線を向けたコナンが歓声を上げた。確かに白い粉雪がハラハラと舞い落ち始めている。間違いなく、都心の初雪だ。
    「三十四年ぶりの雪か…」
     さっきから驚くようなことばかりだ。
    「ほら、降らないとは限らないって言っただろ?」
     先程までの照れていた顔は何処へやら。コナンは安室を見上げ、ニヤッと悪戯が成功した子供のように笑う。その無邪気さに安室は思わず目を細めた。
    「そうだね」
     安室は喉奥から笑い声を漏らした。次から次へと込み上げてくる笑いに、肩を震わせて堪える。
    「安室さん?」
     そんな珍しい安室の姿に、コナンの戸惑った声が響く。そんな訝しげなコナンの声でさえ、今の安室には愛しい。
    「いや、ごめん。実は賭けをしていたんだ」
    「賭け?」
     眉根を寄せたコナンの顔。眼鏡の奥の青い目が、探るように安室を見る。安室はその視線を正面から受け止め、柔らかく笑った。
    「今日、もしも雪が降ったら──」
     安室はカウンターから出て来ると、コナンの席に近寄る。コナンはそんな安室を大きな目で見上げていた。曇りのない瞳。
     テーブルに置かれたコナンの手を優しく取れば、ピクッとその指先が震える。安室よりずっと小さな手。
    「コナンくん」
     顔を近付け、子供の耳許に唇を寄せる。コナンの癖がある髪の毛は、微かに石鹸の匂いがした。
     そのまま甘い言葉を囁けば、今にも零れ落ちそうなくらいに子供の目が見開かれる。赤く濡れたような唇からは、安室の名前が呆然と呟かれた。
     傍らに跪き、手に取った子供の指先に自身の唇を寄せる。桜色の爪に口付けを一つ落とし、探るように子供の顔を見れば、その顔に怯えの色は無かった。
    「ごめんね」
     そのことに安堵をしつつ、口角を吊り上げる。それは何の謝罪か。この後のパーティーに行けなくなることか、未来がある彼に道を踏み外させることか。
     安室はもうその小さな手を、離す気はなかった。



    「コナンくん遅いねー」
    「どうしたんですかね?」
    「買い食いでもしてるんじゃねぇの」
     コナンが来ることを今か今かと待ちわびる子供たちを宥めながら、灰原は何度目かの電話をコナンに掛ける。だがそれは何度掛けても繋がらない。
     ──どうしたのかしら。
     家の方に電話をしても誰も出ない。クリスマスなのだ、毛利家の人々も出掛けているのだろう。
     嫌な胸騒ぎがする。何か大切な物を失うかのような、深い不安感。
     テーブルの上には様々なご馳走が並び、クリスマスツリーは鮮やかなイルミネーションを点滅させている。本来なら楽しいクリスマスの夜。
     カーテンの隙間から見える外は、真っ白な雪が降っていた。積もることは無さそうだが、時折吹く強い風のせいでまるで吹雪いているようにも見える。
    「ホワイトクリスマスね…」
     ロマンチックどころか、嫌な天気に思えるのは、灰原が捻くれているのだろうか。
     灰原は深い溜息を吐くと、繋がらない電話を切った。結局その夜、コナンには会えないままだった。






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