それってどういう意味ですか?/まおあん 鼻の頭を何かが掠めて思わず空を見上げていた。小さく「あ、」と零すと重なるように隣からも「あっ」と声が上がる。どちらからともなく顔を見合わせて、あんずが「雨」と呟いた。ぽつり、と今度は頬に当たる。あんずの言葉が合図になったみたいにぱらぱらと雨が降り出した。
今日の天気予報は朝からずっと曇り。鞄に折りたたみ傘を入れた記憶はない。すぐにやむような雨だろうか、それともどこかカフェにでも──考えながら隣を見ると、決意を固めたような丸い瞳がこっちを見ていた。
「真緒くん、走れる?」
「え」
あんずが目配せするように瞬きをした。そのまつげにも雨粒がぽたりと触れる。
「はし、る、走れます」
何よりも彼女に風邪を引かせたくなくて、とりあえずそれだけ答えると、あんずは真面目な顔のまま一度頷いた。それから「もうすぐわたしんち!」と、だっと駆け出す。
「あ、おい!あんず!」
みるみるうちに背中が遠くなる。迷っている一瞬のうちにも雨足は強くなり、「風邪引くよー!」と手招きする彼女を追いかけることにした。
こういう日に限って真緒はあんずを家まで送る当番だったりする。
*
玄関に転がり込んだところで雨は本降りになり始めた。二人が家にたどり着くのを待っていたかのように、雨粒がざあざあと屋根を叩いている。
「タオル持ってくるね」
「悪いな」
真緒はあんずが消えていった廊下の奥をぼんやりと見つめた。なんだか現実感がない。何度も家まで送ってきたことがあった。何度か夕飯をご馳走になったこともあった。なのに知らない場所に来たような気持ちになるのは、物音ひとつしないからだろうか。
玄関にはスリッパが三つ並んでいる。彼女の家族構成は両親と弟のはずだ。心臓がどっどっと音を立て始める。走ってきた余韻にしては少し長い。たぶん緊張しているのだ。だってもしかすると、今ここには二人のほかには誰も──
「制服大丈夫?」
「うわ!?」
そんなことを考えていたからあんずの足音に気づかなかった。びくりと跳ねた心臓を宥めながら、ぱっと笑顔を作る。
「うん、大丈夫っぽい」
そう言って制服を見下ろす。幸い降り始めだったからそこまでひどく濡れはしなかった。あんずに差し出されたタオルを受け取って、さっと拭けば大丈夫だろう。着替えやシャワーが必要にならなくてよかったと心底ほっとする。
あんずの方も毛先が濡れたくらいだから、風邪を引くようなことにはならないだろう。二人で黙々と手を動かして、さんきゅ、とタオルを返した。
「真緒くんは今日何か用事あるの?」
「用事?」
聞き返すと、うん、とあんずが頷く。
「何もないなら雨がやむまで待ってた方がいいと思って」
こちらに向けたやけに笑顔が眩しい。何でもないような声で「そ、そうだな」と答えたが内心は落ち着かない。家の中はしんと静まり返っていて、雨音がかすかに聞こえるだけだ。
「待ってね。今スリッパ出すから」
そう言って来客用のスリッパを探す横顔をじっと見つめる。たぶん聞かない方がスマートだ。頭では分かっている。だけど一度気になってしまったら、どうしても聞かずにはいられなかった。
「あんずさん」
絞り出したような声にあんずが振り返る。
「あんずさん、あの、家族は?」
変な顔にも変な声にもなっていないといい。聞いてはいけないことを口にしているような気になって、お腹にぐっと力を込めた。
「うーん、仕事かな? いつもよりちょっと遅いみたい」
三人分のスリッパが視界の端に映る。やっぱり誰もいないのだ。唾をごくんと飲み込む。なんだか急に喉が渇いた気がした。
「俺上がっちゃっていいのかよ」
「別に平気だよ」
あんずは真緒の前にスリッパを置いた。
「いつも送ってくれてるじゃん」
あんずの返事に頭を抱えそうになる。それとこれとは話が違うんですよ、と言いたくなるのをぐっと堪えた。あんずがいいって言っているんだから大丈夫だ。別に変なことをするわけじゃない。雨に降られたからあんずの家に寄っただけ。少し雨宿りをするだけ。たまたま家族が留守にしていただけ。よくあることだ、何も変じゃない。
真緒は意を決してスリッパを履いた。
「じゃあお言葉に甘えて? お邪魔しまーす」
*
それからあんずは何の迷いもなく階段を上り始めるから、お客さんの真緒は黙ってついていくしかなかった。ちら、と彼女を伺うと視線の高さでスカートが揺れる。うわ、と素直な声が漏れそうになって、頭の中で一度自分を殴っておいた。
雨宿りに駆けこんだのが意中の女の子の家で、家族が誰もいない、お誂え向きのシチュエーション。だとしても浮かれすぎだ。平常心平常心と言い聞かせて、俯いたまま階段を上り切る。
「散らかっててごめんね」
あんずは照れたように眉を下げて笑ったが、お世辞ではなく彼女の部屋は綺麗に片付いていた。こういうところ性格出るよなあ、と妹の部屋を思い出す。棚の上には五人で撮った写真が飾ってあって、嬉しさとかすかな後ろめたさが胸に積もった。
あんずの部屋は当然彼女の匂いで満ちていた。さっき借りたタオルの柔軟剤と、他にも何かが混ざったような甘い香りだった。あんまり深く吸い込むと危ないかもしれない。
部屋の入り口で立ち尽くしていると「座って」とクッションを差し出された。
「麦茶でいいかな」
「あぁ、うん。悪いな」
「ううん。本当に座っていいからね」
そうやって念を押されてようやく腰を落ち着かせる。一人になったあんずの部屋で、はあぁーと長く息を吐き出した。心臓がばくばく言っている。いつも二人で何を話していただろう。教室やレッスンルームで二人きりになったこともあるはずなのに、今までどうやって過ごしていたか途端に分からなくなる。
がしがしと頭を掻いていると、あんずが麦茶を持って戻ってきた。よいしょ、と腰でドアを閉める。いちいち可愛いけれど、今は少し目に毒だ。
正面に座るのかと思っていたら、あんずはテーブルの角を挟んで隣に腰を下ろした。思っていたより距離が近くて内心でたじろぐ。
「真緒くんが傘持ってないのちょっと意外だったな。折りたたみ傘とか持ち歩いてそうなのに」
肘をついた手に顎を乗せて、あんずがこてんと首を傾げた。
「なんかさ、今日は大丈夫だろ〜って思う日ないか?」
「ふふ、ちょっと分かる。今朝の私それだったかも」
「やっぱあるよな? しかもそういう日に限って降ったりするし」
普通に会話できていることに安堵した。そうだ、いつもこんな感じだ。何を話そうか考えていたところだったから彼女がきっかけをくれて助かった。
「……まあでも、あんずんちの近くまで来てたから助かったよ。さんきゅ」
笑って見せるとあんずもにこりと返してくれる。
「すぐにやむといいけどね」
そう言って窓の方を振り返ると、あんずは「あっ」と口にして急に立ち上がった。なんか暗いと思った、とベッドの向こう側の窓に手を伸ばす。閉めっぱなしのカーテンを開けるつもりなのだろう。ベッドに片膝をついた重みでスプリングがぎしりと音を立てた。真緒の心臓もどくんと音が鳴る。
布団にくるまる姿とか、寝顔とか、もっと他の考えてはいけないようなことだとか、それらが一瞬で頭をよぎった。意識しないようにしていたベッドの存在を嫌でも認識してしまう。
さすがに無防備すぎないだろうか。真緒はわずかに眉をしかめた。友達として信頼されているのか、もしくは男としてまったく意識されていないのか。そんなことをするつもりはないけれど、少し背中を押しただけであんずは簡単に倒れるだろう。押し倒されたら力じゃ敵わないこととか、ちゃんと分かっているのだろうか。
「真緒くん、向こうの方明るくなってるよ。これならもうすぐやむかもね」
「ほんとか? ならよかった」
本当はまだ降っていてもいいと思っているくせに、白々しく明るい返事をした。普段通り笑うあんずが少し恨めしい。さっきからずっと意識しているのは真緒ばかりだ。二人きりのこの部屋では唾を飲み込む音すら響いてしまいそうな気がして、麦茶と一緒に下心を飲み下した。
「あんずさん」
戻ってきたあんずに視線を向ける。ん? と首を傾げる彼女に向かって、真緒は歯切れ悪いまま口を開いた。
「……俺が言えた義理じゃないけどさ、ちょっと警戒心ってものがなさすぎじゃないですかね」
のこのこと家に上がり込んで、あまつさえ部屋に入れたことを喜んでいるやつが何を言う。警戒心、と真緒の言葉を繰り返して、あんずは考え込むように黙り込んだ。
「なんつーかさ、今の学院って男所帯に女の子ひとりだろ? あんずの部屋に入りたいやつなんていくらでもいるだろうし、舞い上がったり勘違いしたりするかもしれないし、気をつけてくれよ~?」
自分の下心は棚に上げて、綺麗にラッピングした忠告を並び立てる。他の人がこの部屋であんずと二人きりになるところなんて想像したくなかった。
じっと真緒を見ていた青い視線が彼女の手元に落とされる。
「…………別に誰でも入れたりは、しないよ」
静かで、だけどきっぱりした声が返ってくる。うん、誰でもじゃない。自分に言い聞かせるように、あんずはもう一度そう言った。
テーブルの上であんずの手に力がこもる。自分の気持ちを伝えるときの、彼女の癖だと知っていた。
「真緒くんならいいかなって思ったの」
それだけ告げて言葉が途切れる。
「……え、」
咄嗟のことに何も言葉が出てこなかった。真緒くんならいいかなって。あんずの言葉がリフレインする。
信頼しているから警戒しなくてもいい。何とも思っていないから部屋にあげたっていい。真緒が考えるような展開になってもいい。いや、やっぱり最後のはなしだ。どう考えたって真緒に都合がよすぎる。
「え、い、いい? いいって、あんずさん、どういう」
喉の奥が張りついて、どうやって声を出していたかも思い出せない。生徒会室に入る前だってこんなに緊張しなかった。
たぶん目が合ったら最後。もう逸らせなくなる。俯いていたあんずが顔を上げる。青い瞳がゆっくりとこっちを見た。唇が動き始める瞬間がスローモーションのように映った。
「真緒くんはどういう意味がいいの?」
かすかに震えた声が一直線に突き刺さる。言葉と感情が舌の上でもつれて、代わりに体が動いていた。テーブルの上で固く握られた彼女の指先に、真緒の手のひらが重なった。