とある旅人の話 ああ。こんにちは、旅の人。まさかこんな森の奥で人に会うなんて。ここはボクの臨時拠点だよ。よかったら少し休んでいくといい。いまホットミルクをつくったばかりなんだ。一杯どうかな。要らない? そう。
キミは教令の樹の方から来たんだね。ずいぶん遠くて大変だっただろう。ボクは西風の街の方からだよ。道なりにここまでずっと歩いてきたんだ。……西風の街で起きた事件について? ああ、アビス教団の門徒が街に入り込んだ話かい。それなら良く知っているよ。彼は悍ましい人だった。恐ろしいまでに人間らしからぬところがあった。己が処罰される瞬間でさえ、無感動にただ真正面を見つめていた。……少し、彼の話をしても? ありがとう。
――彼は当初、旅人を名乗って西風の街を訪れた。ただの年若い旅人のような振る舞いは真に迫っていたよ。彼は「生き別れてしまった、たった一人の血縁者を探している」と人々に言っていた。そして、旅で培ったのだろう知識や剣術をもって人々を魅了した。
それは街の領主の目にも止まって、領主はボクに「旅人の世話をせよ」とお命じになった。当時の西風の街は少し、治安に問題を抱えていてね。力のある余所者を一人自由にさせておくことが出来なかった。そのころボクは領主お抱えの錬金術師で、彼とは齢が近いようだったものだから、彼の世話役兼監視役をするように言われたわけだ。ボクも彼から感じる星海の気配に興味があったから、命令には大人しく従った。
けれど、まったく困ったことに、彼は根っからの旅人だった。あちこちへ勝手に駆けていってしまう。知らぬうちに厄介ごとに巻き込まれて、知らぬうちに解決してしまう。監視役なんてとんでもない。蒲公英の綿毛のような彼を止める術なんて、ボクは持ちあわせていなかった。
だからボクも自由にすることにした。彼を絵に描くことにした。任務をこなしながら、趣味の時間を確保する。これは結構いいアイディアだった。
その時のスケッチがいくつか残っているよ。見てみるかい。……ふむ。これがいいだろう。渚を歩いている彼の後ろ姿だ。
絵を残すことは、記憶を想起させるための手掛かりを残すことだ。うん。この時のこと、よく覚えているよ。
夏の終わりの、夕焼けの時刻だった。彼の金髪の三つ編みに夕日のオレンジが混ざって、まるで本物の黄金のように輝いていた。靴を脱ぎ去った彼が歩く波打ち際には、濡れて輝く星螺があり、蟹のような海の生物が砂に潜ったあとの凹凸があった。
絵が途中のように見える? キミは観察眼が鋭いね。その通り。これは未完成のままなんだ。
海の模様を描いている途中で、彼が突然「踊ろう」なんてボクの手を引いたからだよ。彼は身勝手な人だった。踊れないと言ったのに「じゃあ新しく覚えればいいよ」と笑って話を聞かないんだから。
彼に手を引かれるまま、ボクも波打ち際に足を踏み入れた。屋外で裸足になったのは初めてのことだった。砂浜に残る熱に足裏を焼かれたことも。誰かの手を取って、夢中になってステップを踏んだことも。
うん。彼は本当に、勝手な人だった。ずかずかと人の心の柔らかい部分に入り込んで、それを悪びれもしない。ボクにとって人付き合いは面倒なものでしかなかった。人の営みを少し離れたところから眺めているだけで十分だった。例えそれが原因で、独り傘もなく雨に濡れることになったとしても、ちっとも構わないと思うくらいには。だが、彼は。傘を持っているのに、ボクと一緒になって雨に濡れていた。頬に張り付いた前髪を恥ずかしそうに梳きながら微笑んでいた。
……彼は得難い隣人だった。けれどもやはり、彼は旅人だった。いつまでボクが彼の傍に居続けられるのかなど、全て彼の心持ち次第だった。
だからボクは。諦めようと思ったんだ。ボクにはやらなければならない研究があった。彼は旅を続けなければいけない理由があった。ことあるごとに彼は血縁者の話をしていた。彼の大切な妹。生き別れ、いま何処に居て、何をしているのかもわからぬ家族。探す当てもないのに旅を続けている彼を、ボクは尊重したかった。
その代わり、ボクたちが別れたあとの時間に、少しでも彼の心に残るものがあってほしいと願った。だがそのためには、これまで彼と語らった時間では足りないと思った。彼の歌を聞いた時間でも足りない。涙ぐむ彼を抱きしめた時間でも足りない。笑う彼を絵にした時間であっても、足り得ないと思った。
こうして考えてみると、あの時のボクは奇妙な熱病に浮かされていたかのようだね。必死だったんだ。だからこそ彼に、ボクの師匠がボクに預けていった本を見せてしまったんだろう。……少し待って。ああ、これだ。おや? いつの間にこんなに煤けてしまったんだろう。ずいぶん古ぼけて見える。
中身は見せてあげられないけれど、この本は草花の絵ばかりで文字がないんだ。言ってしまえばただの落書き帳のようなものだ。けれど彼はこれを見た瞬間、息を呑んだ。そしてボクに問いかけた。「これは『黄金』の遺物、だよね?」と。
……キミ、『黄金』の遺物、という言葉に聞き覚えは? ないようだね。はるか昔に名を馳せた錬金術師の遺産のことだよ。普通の人なら知らない。だからこそボクは、彼がなぜ『黄金』を知っているのかわからなかった。凪いだ彼の瞳がじっとこちらを見つめていることを恐れた。ああ。あの金色の瞳は吸い込まれてしまいそうなほど美しかった。涙に濡れているような錯覚さえした。
ただ同時に、ボクの心は歓喜に打ち震えていた。彼は知っているのだ。ボクのほかに、誰も知り得なかった『黄金』を。ボクが研究し続け、今なお真実を掴めずにいる課題を。
「キミは『黄金』を知っているんだね」
「妹に関する手がかりの一つなんだ。俺も詳しいことは良く知らないんだけど」
その言葉を聞いたときの衝撃を思い出すと、息がつまりそうだ。奈落の底へ突き落とされたようだった。
まただ。また、妹。口を開けばそればかり。
いや、いや。この感情が正しくないことなんてキミに言われずともわかる。彼の旅の目的が肉親を探すためのものであると知っている。知っていた。だが、歓喜が憎悪に焼かれる瞬間をボクは味わった。
こちらの心中に気づきもしないのか、彼は丁寧に本のページをめくっていた。真剣な眼差しが一つ一つの絵に注がれていた。しかしそれも段々と曇っていった。最後の一頁をめくり取ったあと、彼は一言「違う」と言った。彼は震える指先で紙面を撫でていた。姿形は白百合に似ているが、しかし名前を持たない花の頁だった。
「違う。これは違う。これは、アビス教団の……」
ボクは彼を置いてその場から逃げ出した。全力で走った。なぜ走っているのかも分からず、がむしゃらに腕を振った。あんなに駆けたのは初めてだった。息が苦しかった。胸が痛かった。喘鳴が涙に溶けて、焼ける喉に滑り落ちた。
そうして、ボクは街外れまで走って、領主の元へ駆け込んだ。
……ふふ。
ああ、すまない。どうしてだろう。思い出すたびに笑ってしまうんだ。なにかが可笑しくて笑っているわけじゃない。これは多分、嬉しくて笑ってしまうんだ。彼がアビス教団の名前を口にした瞬間を思い出すといつも溢れ出てしまう。
「報告する。彼は知り得べからざることを知っている。悍ましきアビス教団について知っている。彼を生かしておいてはいけない。彼はこの地に厄災をもたらす」
それで。……それで? ああ、ボクは再び、街へ戻った。
何も知らない人々が、秋の実りを寿ぎ、冬に眠る風を惜しむための祭りを楽しんでいた。軽やかな音楽が空々しく響き、華やかな飾り付けは虚妄を形作っていた。彼は、相変わらず街にいた。誰かを待っているようだった。ボクが押し付けた本を大事に抱えて、きょろきょろ忙しなく辺りを見回していた。
ボクは彼に駆け寄り、その腕を取った。本が落ちるのにも構わず彼を街の広場に連れ出して、燃え盛る大焚火のそばで踊った。その祭りの以前にも、あの渚で初めて彼の手を取った後にも、彼と踊る機会が何度もあった。いつもリードしてくれたのは彼だった。あのとき初めてボクが彼をリードした。手首を掴んで、腰に腕を回して。くるりくるりと踊り狂った。
幸福だった。
これで彼は永遠にこの街に居続けるのだと、愚かなボクは信じた。街に柔らかな灰が雪のように舞い上がり、彼が縄に手を引かれ、鎖に縛られ、炎に包まれるその瞬間まで。
うん? 何をそんなに驚いているんだい。彼はアビス教団の人間として捕らえられたんだ。火刑に処され、確認されるのは当然だろう。――焼死すれば、ただの人。生き残れば、大罪人。
赤く燃え上がった焔の中で、彼はまっすぐに正面を見つめていた。燃料に獣油を使っていたせいで目が痛むほど酷い臭いがしていたというのに、彼は無表情で背筋をぴんと伸ばしていた。鎖につながれた手を祈るように組んで……何か、呟いたようだった。
それからは一瞬の出来事だった。まず炎が青く姿を変えた。そして蛇がうねるように身悶えすると、炎はさらに夜空の瞬きの色に変わって、彼を飲み込んだ。その後には何も残らなかった。灰の一つ、骨の一つ。
彼は忽然と消えてしまった。
だからボクも街を出た。彼を探すために。何も残らなかったんだから、きっと何処かで生きているはずだ。研究? よくよく考えたんだけれどね、旅をしながらだって出来なくはないんだよ。確かに拠点があったほうが捗るのは事実だけど。
……ああ。長々と話をしてしまった。ここまで聞いてくれてありがとう。少し疲れてしまったかな。顔色が悪い。入り用ならホットミルクをもう一度作るけれど。要らない? そう。
おや、行くのかい。ああ、キミも探し人をしているんだね。ならば引き止めるのも野暮だろう。どうかキミの旅路に幸多からんことを。キミが大切な家族を見つけられることを祈っているよ。
ボクよりも先に、ね。