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     この世界には、男女の性のほかに「第二性」と呼ばれるものがある。第二性を持たないNormal、支配者のDom、両性を具有するSwitch、そして被支配者の"Sub"だ。第二性を具有しないNormal以外の人間は、その程度に差はあれども「支配・被支配欲」を満たさねば身体を病む。精神と身体をじわりじわりと空虚が蝕んで、最後には、死ぬのだ。たったその小さな「欲望」を満たせないばっかりに。
     生まれた頃から支配・被支配の特性が決まっているだなんて馬鹿みたいだろう。否、馬鹿なのだ。それに踊らされる愚者たちも、結局その運命──"Sub"として生きること──を認められない、俺も。

    ◇◇

     自身がSubであることが発覚したのは、中学卒業間近に受けさせられるバース審査でのことだった。「蓮巳敬人/第二性:Sub」と書かれた診断書は、あくまで事実を淡々に述べるだけであったが、ほんの十五歳のこどもの脳幹を殴りつけるには十分の情報だった。
     両親ともにNormalの自分がまさか、Domなしで生きていけないようなか弱い被支配者層の一員だなんて。DomとSubのしあわせな関係?笑わせるな。その対が本当に平等に幸せを築くのなら、Subを隷属化するような王も、Domしか就くことのできなかった職業も、過去に存在したわけがない。昨日もニュースでやっていた。プレイ終わりにケアされなかったSubのサブドロップによる重傷、Glareによる精神疾患──Subというだけで損をする世に生まれたいじょう、俺はそれを認めてなどやらない。
     自分がSubだということが世に知れたら、きっと自分は虐げられて、そのまま軽蔑されるに違いない。漠然とした不安に駆られて、診断書を握りしめて震える指先を必死に抑える。唇からは、鉄の味がした。
    「授業で習った通り、第二性は第二次性徴期の終わりに現れるものです。きみたちはまだまだ発現していないので身近に感じないでしょうが、この違いによって個人を傷つけることは決して許されることではなく、かつておこなわれた悲惨な差別を繰り返す惨劇に加担することに…………」
     そう興味もなさそうに定められた文言を放つ教師の顔が、ひどく歪んだ笑みを浮かべているように見えて頭痛がした。その診断書を素早く封筒にしまって、カバンの中にぐちゃりと詰め込んだ。ゆるりと喉の奥が熱くなって、目元が滲む。ぼやけた視界に息苦しくなって、窒息するように突っ伏した。

     Subとしての人生が始まったその日、自分はNormalであるとして偽る人生を歩むことを決めた。
     ひとに屈服することに幸せを覚えるような駄犬としてなど、生きてやらない。ましてや、人を自らの意思のもとに動かして悦に浸るような人間のおもちゃになど、なってやらない。俺は、そんなちっぽけな「欲望」に左右されて心身を蝕むような人間ではない。自分は何もない、まっさらな"Normal"なのだ。
     発現すらしていない性に怯えて、中学三年の三月、初めて俺は「抑制剤」を口にした。市販のそれの飲み込み方もわからず噛み砕くと、それは暴力的なまでに苦かった。

    ◇◇

    「今月も特に異常なしかな。ここ最近体調崩したのっていつです?」
    「思い当たる節は特に」
    「そう。まあ、体調崩したらすぐここに連絡してね。小さいとはいえ薬の副作用もありますから」

     月一の診断ももう慣れたものだった。毎日つけている体調の良し悪しのメモを照らし合わせながら、呆れた欲望による作用を抑える抑制剤を処方してもらう。抑制剤のオーバードーズになっていないか、ないしその欲望の身体的負荷が大きくなっていないかを数値として出してもらい、あまりにも重いようなら軽いコマンドで治療してもらう。これだけの診療を、もう十年も続けているのだった。
     第二性を持つなかでも、いわゆる"普通の"人間は月一の頻度で診察してもらう必要はないのだろうと思う。正直抑制剤すら、こまめに毎日飲む必要などないものなのだ。でもそれは、欲望に屈服してこそ成り立つ方程式で、それが「自然」なのだとしても受け入れがたかった。自分がSubであると認めたくない。そのあまりにも無謀すぎる感情は、自分の過管理化に繋がった。いまのところ、完璧だ。もともとのバース性も弱かったのか、今までの日常生活で第二性に狂わされたことは一度もないと言って差し支えない。
    「蓮巳さん、今月分のお薬これね」
    「ありがとうございます。一日三錠だったか……」
    「その通り。必ず食後に飲んでくださいね。空きっ腹には毒ですから」
    「わかりました。じゃあまた来月」
     この病院を一歩出れば、俺はNormalとなんら変わりない。誰かに命令を乞うたりしないし、いたぶられて喜んだりしない、Normalそのものなのだ──もう何度も感じた感覚ではあるが、浮き足立つような気持ちに踊らされるのは、毎回のことだった。
     蓮巳敬人、二十五歳。職業はフリーランスのデザイナー、独身。たったそれだけの肩書きを背負った自分として生きられることに、ただただ心が軽かった。
     現在、就職にあたっても第二性の記述欄はない。それは「安全管理を個人に任せる」かわりに、第二性による差別、ないしハラスメントを徹底的に排除する目的に拠る。他にも規則はいろいろあるのだ。第二性に関わる抑制剤の実質負担はなしとする、Domは基本的に公共の場でGlareを用いることは禁止されており、無闇にGlareを放った場合は五万円以上の罰金を追うことになっている──などなど。バスハラと呼ばれる言葉──これは、バースハラスメントの略なのだが──を防ぐ、つまり第二性間の権利不均衡の是正を求めるようになって久しい。なるほど、これはある種欲望を押さえつけるという意味で「不自然」でありながら、ひとつ空のもとで全ての人が平等であるという「当然」であるはずの世界を実現するためにうまれた、数々の実力行使的規制なのだった。
     だから、比較的第二性を偽るのが簡単な世の中なのだ、今は。第二性を第三者に知らせねばならないのは、病院と、役所だけ。自身の第二性を憎む自分としては、非常にありがたい時代だった。もしもう二十年前に生まれていたら、精神を蝕まれていたに違いない。
    「……ただいま」
    今日もまた、ひとりぼっちの家に帰る。軽く夕飯をとって、抑制剤を飲んだ。明日は十二時からクライアントとのミーティングがあるから、十時には起きねばならないな。パワポは昨日終わらせたし、洗濯は明日でいいか──。ふわふわと明日の予定を思い浮かべながら、倒れ込むようにベッドに横になった。

    ◇◇

    「こんにちは。蓮巳敬人と申します。このたびはご依頼ありがとうございます」
    「こちらこそお忙しいのにお受けいただいて。どうも、担当の羽風薫です。噂はかねがね伺っております」
    「どうも」
     抑制剤は飲んだ、香水もつけた。首元にはお守り代わりのネックレスがあって、服装も清潔感あり、問題なし。頭の中で三度ほど必要なことを確認して、目の前のクライアントにもう一度焦点を合わせた。
     人好きのする笑顔を浮かべたクライアントもとい、羽風はそこにお掛けになってくださいね、と俺の目の前の椅子を指さした。いかにも仕事ができます、と言ったふうな紺色のスリーピーススーツがよく似合う。今回はベンチャー通販企業のWebデザインを任されるとのことだったが、想像どおり担当の年齢が近そうで安心する。歳があまりに離れていると、ハラスメントや仕事に対する意識のずれで揉め事になりやすい。俺はほっと息をつく。
    「そうですね。時間もあれですし早速仕事の話に行きますが」
    「そうですね」
     羽風は美しい所作でスーツの前ボタンを開けると、長い指をキーボードの上で踊らせた。
    「まず、弊社はご存知の通りまだまだ業界では新参者なんですよ。このままでは既存の通販サイトには負けてしまう。もちろんそこで社としても"唯一"を打ち出せるようにはしていきますが、その一環としてWebデザインのリニューアルを考えているわけです」
    「資料のほうでもそう拝見しました。主なターゲット層は二十代から三十代女性とのことでしたが、既存のシンプルなサイトからの大幅な変更はむしろ今ある顧客からの不満を生みかねませんので、過剰に華美にするのは控えたいところです」
    「なるほど。さすがは敏腕の人気Webデザイナーといったところだ」
     さすが、と言われて少し鼻が高くなるが、それを決して表情に出すわけにはいかない。真剣な面持ちで資料を読む羽風に対して適宜説明を入れつつ、質問を重ねる。
    「新規サービスなどをこれから先サイトに加えていく場合、それをこのサイト内のどこに置くかなんですよね」
    「そうですね。新しいからこそ、目立つところに置きたい。でも使いづらくなったとは感じさせたくない。そういったところでしょうか」
    「そうなんですよ」
     くしゃり、と笑顔を浮かべて情けなさそうにぽりぽりと頭を掻く羽風は、なんかすみませんねえ、注文が多くて、とつぶやいた。それが仕事ですからね、と返すと、そうでしたね、プロを見くびるような真似をして申し訳ない、と言われる。穏やかでゆっくりとした会話のラリーに、どこか心の奥底が休まるような気持ちがした。仕事をしていて、何がやすまるだ、と思いながら。
     クライアントの希望通り、柔らかな雰囲気を大切にしつつ、現在のサイトの使いやすさは維持する方向で話がまとまり始める。テーマカラーはラベンダーとライラック。寒色ですっきりとした印象で仕上げることで、シンプルでかつ上品なイメージを以てターゲット層にアタックする。次回はターゲット層にあたるモニターと女性社員を含めた大きめのアンケートと打ち合わせを行うことであらかた話し合いの方向が決まった。
     羽風薫という男は、それはそれは仕事のできるやつだった。他人との距離感を図ることが上手く、決して気を遣わせようとはしない。軽やかなテンポで語るくせに、相手に窮屈さを感じさせない。世渡りにひどく長けた人間だと思った。この調子じゃ営業とかでもやってけるタイプだな、コンサルとかに転職したりして。同世代の有能な男がしゃらり、と高そうな時計を鳴らして立ち上がる。
    「このあと、どっか飯でも行きません?」
     羽風が、資料の角を揃えながら言う。
    「蓮巳さんもお腹空いてるでしょう。知り合いがいい店をやってるんですよ」

    ◇◇

    「羽風さんて、人好きするって言われませんか」
    「その羽風さんてのやめてくださいよ。楽な呼び方にしてください」
     先ほどまでバリバリ働いていたとは思えないほど砕けた雰囲気で微笑む羽風は、俺とも同い年らしかった。知り合いの経営する焼肉屋だからなのかひどくリラックスした様子でネクタイを緩める彼は、俺の視線に気がつくと眉毛をハの字にしてすみません、と笑う。
    「じゃあ、羽風で。俺のことも呼び方は特にお構いなく」
    「じゃあ、蓮巳くん、でどうですかね」
    「というか、敬語大丈夫……です」
    「ハハ、なんで蓮巳くんが敬語のままなの」
     こちらハラミとタンになります、と席に肉を運んでくる店員さんに軽く会釈をして、小さなトングでそれを七輪の上に並べる。火にかかった瞬間しゅう、と美味しそうな音を立ててニンニクが高く香るので、思わず俺の腹が鳴った。くすくすと笑う羽風も俺に続くように腹を鳴らすので、お腹の輪唱にふたりで大爆笑した。微妙に張っていた糸が切れるように弛んで、砕ける。
    「蓮巳くん、割と有名人なんだよ。二十五歳の敏腕デザイナー!って。だからもっといかついの来るかと思ってたんだよね。実際来たのはたんにカタブツそうな人だったけど」
    「はあ?どういう意味だ」
    「そのまんまそのまんま」
    「バカにしてんじゃないだろうな」
    「さあね〜」
     ハラミから滴る油が炭にぽつりと落ちて火が上がる。ボコ暴徒燃える炎の中でキラキラと脂をうかべる肉に、唾液の分泌を抑えられる気がしなかった。じゅわり、と口の中が潤ったのは、気のせいではないはず。お互いのジョッキの中には全然減らないビールがあって、目の前にはじゅうじゅうと歌う肉。人と接したくないばかりに選んだ在宅勤務の俺はあまりにも社会人じみた風景に少しばっかり嬉しくなって、誤魔化すようにカクテキをつまむ。なんだこれ、美味しい。
     羽風は俺がつまむカクテキを眺めてから、おいしい?と聞く。小さく頷けば優しく笑って、帰りちょっと持たせてもらおうかな、と苦笑した。ここのオーナー知り合いだし、と柔らかく微笑む羽風になんだか肩の力が抜けたが、お言葉には甘えようと思う。というか、焼肉屋まで行ってカクテキに夢中なのって意味わからないだろ──頭の中で色々考えながら、またひとつつまんだ。やはり美味いな、これ。
     肉が鮮やかな血の紅を潜めて、程度のいい茶に染まる。食べごろだ。トングを掴もうとしたその時、羽風が一言放った。
    「蓮巳くん、ごめんなんだけど"肉、取り分けてくれる?"」 
     たったそれだけだった。俺は、もともと肉を取り分けようとしていたし、動作には全く違和感がなかったはずだ。違和感があったのは、その心臓だった。ただ、取り分けてくれる?と聞かれただけ。たったそれだけなのに、俺は返事の代わりに小さく頷いて動作を続けることしかできなかった。ただ、それだけ。それだけが、俺の脳みそをぐらぐらと揺らす。
    「"ありがとう"、蓮巳くん」
     これは、一体。こんなの、コマンドにも満たないような、それで。ありがとうと言われて頭が温かくなる。なんだ、なんなんだこれは。トングで自分の白米の上に置いてひとくちたべると、そりゃあ、美味かった。羽風が目の前で美味しいね、といっているのも聞こえる。だけど、俺の口からはそれ以上の感想が出てこなくなって、初めての感覚に不安に駆られて鞄を持って立ち上がる。
    「……っ、すまない、羽風。ちょっと熱くて……熱冷ましにお手洗いに行ってくる」
    「お、了解。ごゆっくり」
     薄暗い店内を、もつれる脚を引き摺るようにして進んだ。心臓が膨らんでいるようで息が苦しいが、わずかにそれを悦ぶ自分がいる。自分という一個人から、何かもっと幼くて素直なものが離反していくような感覚。それが怖くてたまらなくて、できる限り早くひとりになれる場所に行きたいと地面を踏みしめる。金属製のドアノブの冷たささえもが指先のシナプスから伝わって大袈裟に俺の肩を揺らした。自分の持つ全ての感覚が、いやに研ぎ澄まされているのである。
     なんだ!なんなんだこれは。今のいままで、こんな感覚は知らない。トイレに座って、目の前のドアをぼうっと眺める。『Dom/Subの関係性は、信頼から!それ、バスハラになっていませんか?』と書かれた文言を目にして、じわりじわりと自分の中に"あの"感覚が何なのかわからされるようにクリアになっていく。俺は、あの程度のお願いと賛辞に心が舞い上がったのか?つねに"Normal"として生きていけるほど、管理を十分にしてきた俺が……?処方された薬は?ちゃんと飲んでいただろう?もう夕飯の時間か、もしや効果切れなのか?自覚した途端に、脳内にグルグルと走馬灯が巡る。いやだ!直感的にそう思って、頭を大きく振りかぶった。
     食後一錠の抑制剤を二粒、俺は喉奥に流し込んだ。上手く飲み込めなくて奥歯で噛んだその薬は、初めて飲んだ抑制剤よりもずっと苦かった、気がした。

     ◇

    「さっきは途中一瞬抜けてすまなかったな」
    「んーん、生理現象まで咎める気ないし。お大事にしなよ」
    「ああ」
    「蓮巳くんちってあっちの方だよね?あのちょっと大きめの公園とかある」
    「そうだが……ああ、羽風とは方向が違うな」
    「うん。ここでお別れだね」
     じゃあ、また仕事で会いましょう、と駅前で別れた羽風は、颯爽と人混みの中に消えていく。飲んだ薬が効いたのか、あのあと羽風と話すときにあった柔らかすぎる蟠りには鈍感になっていた。見えなくなっていく背中は、俺から見てもすらっとして美しい。そんなからだに縋りたいと一瞬でも思った自分の本能に寒気がする。俺は、か弱いSubにはなりたくないし、あんなに優しい良い奴が「支配」を欲しているなんて知りたくなかった。
     全く見えなくなった背中に安心して、俺は早足で帰路につくしかなかった。

    ◇◇

     かかりつけの医者には「薬の効果切れかもしれないですね。なんにせよ、抑制剤は全ての欲望をなきものにするわけではないのですからご注意を」と釘を刺された。はあ、あなたがたがお偉いお医者様なら、きっと欲望を塗りつぶすお薬を開発してくださいましね、と心の中で皮肉りながらも、どこかほっとした気持ちで帰路についたのを覚えている。よく言うじゃないか、病を殺すのは簡単だが、人を生かすのが難しいのだと。人の本能を殺めてしまうには、その人を殺すのが一番早いのだ。
     webデザインの進捗は極めて順調。ライラックカラーベースのサイトデザインを黙々と組み立てるうちは、自分の心の中に芽生えた邪心を掻き消すことができた。俺が本能に踊らされたことなど、まだただの一度もない。そう言い聞かせながら仕事に没頭していれば、ひとりの空間に閉じ籠っていることすら容易かった。そうだ、このために俺は在宅勤務をとったのではなかったか。小さなアルファベットと記号の羅列が意味をなして頭に入ってくるようになった頃のことを、少し思い出していた。
     あの頃──といっても大学生の頃なのでほんの数年前なのだけれど──の俺は、今よりよっぽど精神的な余裕を持ち合わせていなかった。他人より第二性の開花が遅れたせいもあっていろいろと不慣れだった俺は、ただひたすらに欲望の萌芽に怯えるばかり。当時出会ったかかりつけ医には今もお世話になっているが、正直あの医師に出会えなければあの不安を乗り越えられたか微妙なところである。この国では第二性を大っぴらにするようなことは、確実にマナー違反で──それを、いまの自分は確実に利点だと呼べるが、当時は恐ろしささえあった。自分たちがブラインドになれるということは、逆に言えばSubにとってもDomの存在がひとめではわからないということでもある。漠然と支配・被支配の関係に恐れをなしていた俺は、当時はその"潜んでいる"はずのDomに怯え、己の醜い欲望に凍え、そしてただひたすらにいつか来る本能に縛られるその日を恐るるほか何もできなかった。己の存在がこの宇宙で置き去りにされたような寒気に囚われて、呼吸のしかたすら忘れることもあった。
     そんな自分が何も考えずに没頭できたのがこのウェブデザインの仕事だった。そもそも幼い頃から絵を描くのが大好きだったのもあって、夜間にスクールに通うようになってからは大学での専攻そっちのけで関連の資格を取るようになった。ブラインドのDomが怖いなら、最低限出会わなければいいのだ。簡単なことである。在宅勤務も珍しくないこの仕事は、まさに俺にとってのガラスの靴と言ってよかった。
     明日は羽風との2度目のミーティングだ。心臓の端が小さくはためくのに、俺は気がつかないふりをした。

    ◇◇

    「こないだぶり、蓮巳くん。あのあと体調は平気だった?」
    「ああ。悪酔いでもしたんだと思う」
    「何もないならいいんだ。よかった」
    「こちらこそサシ飯に水をさして悪かった」
     気にしなくていいのに、と眉を下げて微笑みながら腰掛けろと言わんばかりに座席を指した。ベージュのジャケットに控えめなボルドーのジレを合わせて小洒落た着こなしをした羽風は、ちらちらと指先を振るとやわらかく会釈する。この人は相変わらず感じのいい男で、一瞬冷たささえ感じさせるはずの美貌にも優しい温度をたたえていた。さながら向日葵のような──べつに、いまは真夏というわけではないのだけれど──、大輪の花であるのに、その美しさがあくまで心に寄り添うかたちでひらいていくような、そんな男だと感じる。
     大丈夫。何も変わりない。俺も平常心を保てているし、羽風もまた俺を脅かすような存在には感じられない。実際、仕事においては"欲望"など関係のないことではなかったか。会議室のうすい酸素を一度か二度深く吸って、己に言い聞かせるように吐き出す。
    「さて、今回はこないだまとまりました案をもとにブラッシュアップしていきたいのですが」
    「そうですね。先日お話ししたように大幅なUIの変更はユーザーの混乱を招きかねません。今回はバナー位置などの変更を抑えつつ、柔らかな雰囲気を加えるほうがいいのではと考え、いくつか案を添付いたしました」
     拝見しましたよ、と呟いた羽風は、慣れた手つきでキーボードを叩いて、長い指で金糸の後毛を耳にかける。目線を緩やかにこちらにやってから、会釈をするように微笑んだ。
    「弊社でもアンケートを実施しましたが、やはりこの二色は好評でした」
    「それはどうも」
    「ただ、全面的にカラーを押し出すと少々うるさいという意見もありましてね」
    「でしたらこの──、」
    「そう、これとってもいいと思うんです。いったんこの感じで、ミニマルに仕上げてもらいたい」
     案をいくつか持ち込んだうちの、シンプルなものがまっすぐ指さされる。白をベースにし、アクセントにライラックやラベンダーの上品な色味が文字色などに配置されているものだった。
     これならシンプルで上品だ、と頬を緩めてほめる羽風もといクライアントの姿にひどく安心する。まだ世に出ていないのでこれがそのままそうというわけではないが、自分のデザインしたものが他者の満足に繋がることこそやりがいであることは間違いなかった。
     ほら、やっぱり大丈夫じゃないか──、目の前で仕事に勤しむ羽風にも、それに何ら影響されずとも仕事ができている自分に深く安心した。羽風もまた、凶暴な支配欲を己のうちに飼い慣らしているような人間には見えなかった。きっと何の問題もない、こないだのあれはたまたま薬が切れかけだったゆえのエラーに過ぎないのだ──小さく己に言い聞かせながら、ノーパソに映る資料に目を移す。
     羽風の声は、なんだか甘ったるいシロップみたいだとぼんやり考えていた。

    ◇◇

     ぱたん、とノートパソコンを閉じると、羽風は伸びるように深呼吸をした。先程まで漂っていた、仕事のための緊張感──それは決して悪いものではないのだけれど──をいっさい放ってしまって、この二回で見た限りの羽風薫らしい柔らかさを纏っていた。
    「じゃ、おつかれさま。じゃあ今日話し合ったとおりでよろしくね」
    「ああ」
     羽風がすっくと立ち上がると、その表紙にころり、と音を立てて机の上から彼のペンが落ちた。それが転がって自分の足元にやってくると、ことん、と俺の革靴にぶつかって止まった。それを拾って羽風に差し出して渡すと、その拍子に羽風の指先と俺のそれが触れる。長い指のその先は、よくペンを触るからか少し固い。
    「ありがと、蓮巳くんは""優しいね""」
     瞬間、何か視界にぱちぱちと細らかな火花のようなものが散って、背筋をびりびりと電流が走った。甘やかな快感と、そこ知れぬ恐怖をないまぜにした震えが身体を襲う。喉の奥から痺れが広がって息がじょうずにできない。気管が酸素を求めてひくついて、指先がじんじんする。重力に逆らえぬまま膝の力が抜けて視線ががくりと落ちた。
    「……、うわ、」
    「大丈夫!?病院、救急車かな、」
    「……いい、後で自分で……」
     羽風は眉を少し寄せて、いかにも心配ですと書いた顔でこちらを見やった。腰が抜けて床にぺしゃりと座り込んだ俺に、その手を差し伸べてくる。なんとなくそれを取るのは怖くて、必死に自力で手をついて立ち上がり直そうとした。すぐそばのテーブルに縋り付くようにすると、手のひらの裏に体重分の重みを感じる。
    「え、でも……、蓮巳くん……」
    「……いいんだ、すまない、ひとりに、してくれ」
    「今タクシー呼ばせるから。乗せるまでは一緒にいてもいい」
     蓮巳くんいま、自分がどんな状態かわかってる?と小さく問うたあと、羽風は手元の携帯でどこか──まあ、タクシー会社かなんかだろうが──に電話をかけながら、しかしその目線をこちらにじっとりと固定していた。そのまま俺が逃げてしまうのを言外に咎めようとしているような。なんだかその視線のせいで金縛りがごとく動けなくなってしまって、結局彼の隣でおとなしくタクシーを待つほか何もできなかった。

    「抑制剤で抑えているホルモンが暴走するのにはだいたい2パターンの理由があります。ひとつめは抑制剤への身体の順応。ただ、このお薬は処方するようになって日が浅いですから」
    「はあ」
    「蓮巳さんはとくに、処方された薬はきちんと管理できるタイプですしね」
     帰宅後すぐにかかりつけ医に電話した俺は、そこにある事実をただ並べ直すように淡々と述べる言葉の表面を撫でるように聞いていた。わかるような、わからないような、都合の悪いことでも言われるのではないか、と言わんばかりの恐怖。
    「あと考えられるのは、誘発反応くらいなものですね。蓮巳さん、どなたか思い当たる方はいませんか」
     誘発反応を引き起こすようなDom。確実に羽風薫が、そのDomなんだろうが──、考えれば考えるほど羽風のことがわからなくなって、思考の淵に沈んでいく。第二性で人格を測るようなことがあってはならないというのは大いに理解できるのだけれど、それにしたってあの温厚で柔らかな人物に、そんな凶暴な第二性が備わっているとは甚だ信じがたかった。
    「それは──、」
    「最近のお薬は有能ですからめったにないんですが」
    「なら、なぜ?」
    「蓮巳さんみたいにどうしても頑張りすぎちゃう人だったり、もしくは相性が良すぎる人どうしではよくあることなんです」
    「相性が、良すぎる人どうし……」
    「いいですか、どのみち人はひとりで生きていくにはあまりに非力です。蓮巳さんのせいでも、相手の方のせいでもありません」
     誰も責めないであげてください、という医師の言葉が、どこか遠くで鳴っているような気がした。恐れていたことが、起きてしまったのだ。第二性が発現して十年弱、コントロールできない""欲望""の発露がずっと隣り合わせにあることになる。電話を切った右手が、小さく震えていた。握りしめた手のひらには、爪のあとが並んでいる。
     一日三錠、食後に一錠ずつ。それでバグが起きてしまうのなら、己の欲望を殺すにはどれだけの薬が必要なのだろう。震える手で買い込んだ市販の抑制剤を並べると、そのどれもに〈即効性〉の文字があって、己のせっかちさに呆れてしまった。これを規定量より多く服用することは確実に体には毒だ、と理性が吠えている一方で、もうひとりの自分がさらなる抑制を求めて喘いでいることも確実に事実だった。だってここで対策を講じなければ、己の欲望を認めさせられる羽目になる。そんなの、絶対に嫌だった。
     ひとつぶ齧ると慣れた苦味が自分を襲うが、これが己の身を守る鎧になると思えばなんてことはない。己の第二性を知ったときに噛んだあれよりは、随分とやわらかい味である。それは、俺が大人になって味蕾の敏感さを失ったからなのか、それともこの薬の味に慣れてしまったからなのか、わかりそうもない。ただわかるのは、これが己を守ってくれるという慢心にも近い確信は、何か縋りつきたくなるような安心でもあった。
     今思えばそれが思い上がりなのだけれど、このときは正しいと信じてならなかったのだ。己を守るものは、強ければ強いほどいい。第三者──よりにもよって、羽風──に何か醜態を晒すくらいなら、己の末端から蝕まれても構わなかった。俺は、羽風のまえで一個人の形を捨ててただ数いるSubのひとりになるようなことはしたくない──ましてや、彼のDom性の前に浅ましく跪くようなまねは死んでもしたくなかったのだ。

     ◇◇

     こないだのミーティングから、二週間ほどが経過した。これといって何か変わったことはない──まあひとつ、常用する薬の数が増えたことを除けば。でも、最近はもともと飲んでいたものとの飲み合わせも意識できるようになってきたし、あの苦味にも慣れてきた。精神的にはひどく安定していて──いや、変わったことがないなど、自分騙しの傲慢かもしれない。それをすべて、見て見ぬふりをしているというだけだ。朝起きると頭蓋骨がかち割れそうな頭痛がして、パソコンに向かった自分の手が意図に反して震える。何度水を飲んでもおさまらない喉の渇きがひどくて、ふと気が抜けると咳がよく出るようになった。抑制剤を多用するあまり、抑制剤が切れた反動によって湧き起こる、喉を締め付けるような寂しさも増幅したような気さえする。そして、そんなよわい自分が怖くなって、またガリガリと苦い薬を噛み砕くはめになるのである。
     そのまま己の身体が内側から枯れていこうとするのを放っていていいものか。いいや、いいんだ。それが自分の選択だろう。そう揺れ動く自分を、すこし離れたところからふたりの自分が見守っている。このまま身体を巣食うものに任せていていいものかと警鐘を鳴らす自分と、しかしそれでもなお本能に身を委ねるのが怖くてたまらない自分が、かたや自分を責めるように、かたや自分を慰めるように囁きかけていた。
     納期が差し迫っているが、仕事の進捗はそれなりに順調である。きっと予定通りあれは完成するし、同時進行のほかの案件だってなんの滞りもなく進んでいる。少し休憩がてら近所のスーパーにでも行こうか。ひさしぶりになにか、しばらく飲んでいない甘い飲み物でも摂取したくなった。あの、暴力的な量の糖分を喉から流し込んでしまいたい気分なのだ。財布を取って軽く荷物をまとめて外に出ると、それは素晴らしい快晴だった。
     いつもじゃ買わないような派手な色の炭酸ジュースと煎餅、バニラのアイスクリームを買って家路に着く。ここから家まではほんの五分十分程度かかるから、アイスが融けることを考慮して寄り道は控えるべきだろう。まあ真夏でもなし、そんなにすぐだめになることもないだろうが。そういえば炭酸を買ったのだから、バニラよりシャーベットの方が食べ合わせはよかっただろうな──そんなくだらないことを考えながらアスファルトを踏み締めるごとに、足の裏が地面に吸い付けられていくような感覚が増していく。おかしい。何か、不必要なまでの重力が自分にかかっているような気さえする。地面に膝から下がめり込んでいってしまいそうで怖い。踏みしめるごとに黒いその地面が自分に迫ってきているような気さえした。
     ふと、ぐらりと視界が揺れるような眩暈がした。まずい。このまま地球の引力に引かれるまま崩れ落ちてしまうのか。このまま行き倒れてしまうのは避けたい。せめて自分でだれかに助けを求めねば──その一心で携帯を取り出した。力の入らない指はその液晶の上を便りなさげに滑るだけで、なかなか思った通りの動作をしてくれない。珍しく伸び切った爪がかちかちと音を立てる。コントロールさえままならないまま通話ボタンを押すと、プルルルル、とありきたりな電子音が聞こえた。プチ、と短くそれが切れる音がする。
    「もしもし。蓮巳くん?」
    「……はかぜ……?」
     なぜか、耳元のすぐそばに寄せた端末から羽風の声がした。やさしく溶けるようで、薄くて甘い声。そんなものが頭に響くと、このひとは絶対に俺を傷つけないという安心と、このひとに引きずり込まれる不安がマーブルをえがいて俺を染めていく。喉元に迫り上がるは甘えか、怠惰か。目の奥がカッ、と熱くなって、足がゆるゆるとほどけてアスファルトの上に落ちた。
    「……どうしたの、何かお仕事のこと?」
    「……ん、ッ、なんで、はかぜ」
    「…………もしもし?」
     羽風。羽風だ。俺に今話しかけているのは、羽風薫なのだ。肩甲骨のうらがわをなぞられているような寒さを、その実感だけがあたためてくれた。それによろこぶ一方でだんだんと視界が全部まっしろになって、さきほどまでいたはずの路地が見えなくなっていく。ひとりきりで、いまここにいる。その実感が肌の表面をとげとげと刺して、いつか俺をここに血みどろに染めてしまいそうな寂しさを抱かせた。
    「っ、ぁかぜ、ここ、」
    「どうしたの。いま、どんな感じ?どこにいる?何が見える?……俺に、""言ってくれる""?」
    「っ、家の近くのスーパーの……公園の入り口と交番が」
    「教えてくれて""ありがとう""。いま救急車呼んでもらうし、この電話は繋いだままにしておけるかな……あ、すみません……」
     なんだか耳元で、羽風が向こう側の誰かと会話しているのが聞こえてきた。何を話しているのかもはや言葉が意味を持って脳内に入ってこないが、ただその甘い声が自分の耳の壁を優しく撫でて、鼓膜をどろりと濡らすような心地がすることだけは確かだった。
    「羽風、俺、はかぜ、」
    「蓮巳くん。いい子だからね、あともうすこしだからね」
     白に飲み込まれる視界の中で最後に聞いたのは、幼い子に言い聞かせるようなやさしい羽風の声だった。

    ◇◇

     目が覚めると、見知らぬ白い天井が水色のカーテンに狭められているのが見えた。乾燥でひりひりと痛む網膜を撫ぜるように何度かゆっくり瞬きをしても自分の視力では視界はぼやけたままなのだけれど、いくらか輝度が調節できるようになる。目を刺すほど眩しかった蛍光灯に目が順応して、改めて自分が少し清潔すぎる匂いのするベッドに横たわらされているということがわかる。ここは、病院か。消毒液なんだかなんなんだか、この特有の香りがひどく鼻に触って仕方がない。ちょっとニッキみたいな、涼しい匂いだ。
     ふと、自分の腰のあたりに金髪の頭があるのに気がつく。指先が何かコードのようなものに繋がれていてそれに触れることはままならないのだが、自分の手元の付近のシーツを掴めば少しだけそれがこちらに寄せられて、その金髪を持つ人間の頬を滑ったらしかった。その人は緩慢に上体を起こしてこちらを振り向いた──視界がぼやけていてもわかる、この人は羽風薫、だ。
    「……んぅ……ん?あ!起きてる!」
    「……ん……、」
    「は、蓮巳くん!?よかった、今ナースコール、えっと」
    「……あ、」
    「いいの、起きあがろうとしなくていいから」
     背を浮かせようとした俺の肩を羽風が優しくたたくと、情けなくも己の体は清潔なシーツの上に逆戻りしてしまう。目覚めたばかりだからか思うように力が入らないが、しかし倒れる前に感じたあの異様なまでの体の重さからは解放されているようだった。ここ最近背負っていた錘を全て下ろしてしまったような心地というか。
     目の前の男──羽風薫は、何やらボタンを押して目が醒めました、だのなんだのをどこかに報告しているらしい。なんとなくそれを、どこか遠くで起きていることのように傍観する。そういえば、私服姿の羽風は初めて見る。ハイネックのセーターにシンプルなパンツを合わせただけの格好だからか、いつもよりいくらか若く見える気がした。それが、この年の男に対する褒め言葉になるかはわからないのだけれども。
    「……ぁ、かぜ、」
    「落ち着くまでしばらく休んでてってさ。三、四時間くらい気失ってたからね」
    「……う、」
    「蓮巳くん、あのときどこかに連絡してくれててほんとによかった」
     眉を八の字にして、羽風は小さな声でそう言う。思わず首を傾げる俺を、さもおかしいと言わんばかりに小さく笑って、羽風は言葉を続けた。
    「なんで俺に電話してくれたのかは聞かないでおいてあげるけど」
     やたらキザにウィンクしてもサマになるのだから、こういうやつは得だなあ、とぼんやり思った。

     看護師に連れられるまま医師の元に行くと、すでにその人は待ち構えるように腰掛けていた。どうぞ、と案内されるままその目の前の椅子に座ると、医師は何やらパソコンとタブレットに書類──俺の、カルテだろうか──を映し出す。ぱっと見素人目には完璧な理解は難しい。特に読み込もうともせず、大人しく目の前の医師に視線を移した。
    「蓮巳さん。普段、お薬どれくらい服用されてます」
    「えっと……」
    「きっと処方されているぶんは飲んでるでしょうから……、それ以外に何か?」
    「ああ、それはまあ……市販のものを、少々」
    「……お分かりだとは思うんですが。これは抑制剤の過剰摂取による不調です。お薬ももうあらかた抜けてきてるとは思いますが、この後はなるべく家まで直行でお願いしますね」
    「はあ」
    「抑制剤の副作用っていうのはいろいろあってですね。軽いものなら喉の渇きとかめまいとか。重くなると今回みたいなことだったり」
    「はい」
    「適切な量ならそんなに問題はないんですけど……お薬がないと不安、とかいう感じならカウンセラーに相談するのも一手ですからね」
     そう言って医師はこちらに名刺程度の小さな紙をよこしてくる。『バースのお悩み、ありませんか?』と大きく書かれたそれに苦笑するまま無言を貫く俺に、医師は小さくため息をついた。
     そうだ。倒れそうなら、自分でバース外来の救急に問い合わせればよかったものを、どうして俺は羽風なんかに電話をかけたのだろう。倒れる以前の記憶がどうも曖昧だけれど、しかし羽風にかけようと思ってかけたわけではない気もする。前の最後の記憶は、携帯の上を意味もなく滑る情けない指先のことだった。訳もなく手が震えて、立っていられなくて、目の前がぼやけていく恐怖。そんなものを思い出して、ふるり、と体がこわばった。
    「……初めてのようだから深くは聞きませんけどね。かかりつけ医さんには連絡しておくんですよ」
     お大事に、と言葉を結ぶと、医者は軽く俺に向かって一礼した。しかしその表情に、必要以上の心配を浮かべたりなどしていなかった。いや、心配されたいのかというと、少し語弊があるのだけれども。ただ、彼らバース性外来の医師にとって日常の業務に過ぎないであろう自分の不調が、実際にこうして何事もなかったかのように扱われてしまえば──自分でもなんてことなかったような気さえする、というだけの話である。路上で倒れても、なお。

     ◇◇

    「羽風?」
    「お、終わったの」
    「……あ」
     病院の受付の前にあるベンチに、羽風は携帯をいじりながら腰掛けていた。それなりに低いその長椅子に彼の長い足を余らせて少し不恰好であるはずなのに、どこかそのポーズの似合う人であるのが不思議だった。羽風は俺を見つけるとしゃんと立ち上がって、こちらに手を振る。
    「待っててくれた、のか」
    「いや、あそこまで様子見てて最後の最後で帰るっていうのも変かなって」
     照れたように後頭部を掻くと、羽風は携帯をズボンのポケットにしまった。
    「羽風も休みだったんだろう、長い間本当にすまない」
    「も〜、謝るくらいならならありがとうって言って」
    「あり、がとう」
    「ん、どういたしまして」
    「……体調、大丈夫そう?」
    「だいぶ」
    「……よかった」
     病院の外に出ると、清々しい風がふたりに向かって吹き付けてくる。羽風の革靴がコンクリートにぶつかってコツコツと音を鳴らすのを、何かBGMの類のように聞いている。一定のテンポを刻むそれだけが俺とこの男の間に落ちる沈黙を埋めていた。
    「……ねえ、蓮巳くん」
    「……ん?」
    「パートナーお試し期間、やろうよ。どう?」
     羽風が突然立ち止まって、こちらに振り向いた。眩しい金髪が風に揺られて羽風の目元にかかってしまうので、どうも彼が今どんなふうな顔をしているのかはかりかねる。
    「どう、って」
    「案外相性いいかもしれないよ、俺たち」
     そう言い切って初めて、羽風は自分の顔にかかった前髪を指先でよけた。何かを乞うこどものような幼い顔つきに少し動揺する。
     羽風と俺の相性がいいことくらい、俺は嫌になるほど知っている。それを知ってか知らずか、打って変わって羽風はこちらを伺うように、ないし甘えるように上目遣いで見つめていた。交渉術を知っている、少しずるいやつ。でも、この人となら、俺は小さな怪物になどならずに済むのかもしれない。小さく頷いた俺の頭を羽風が優しく撫でる。心がぬるま湯に浸けられて、そのまま甘ったるいチョコレートのように溶けてしまいそうになりながら、このトライアル期間が始まるのに少しばっかり、尻込んでいた。



    パートナーお試し期間のルールは大きく三つある。
     ひとつめ。時間を見つけたら、ふたりでお出かけしよう、ということ。パートナーのお試しと言ったって、知り合ってそう日の経たない俺と羽風はあまりにもお互いのことを知らなさすぎる。
     ふたつめ、むやみに踏み込んだプレイはしないということ。
     それからみっつめ。この関係は、どちらかが終わりを切り出せばすぐに終わるもので、もし終わってもちょっと仲のいい友達になるだけにしよう、ということ。

    (ここから全く未完)



    おまけ

    ラズルダズルナイト(未完)

     第二性がDomだとわかってから、己のこの手が怖くて仕方がなかった。ご存知の通りわれわれ人間には男女に分けられる第一性、Normal、Dom、Sub、Switchに分けられる第二性がある。そのうち前者は出生時に明らかになるけれど、後者がわかるのはだいたい中学生ごろになる。
     俺──羽風薫──は、Domだった。いやはや、父はDomであるとわかってひどく喜んでいた、らしい。それもまた古い価値観なのだけれど──、Domはその支配的欲求を叶えるためにもつ能力──いわゆる、Glareとか──をもってして社会的な地位を保ってきたと言ってもいい。そのせいか偉人にもDomが目に見えて多い。だから、父の世代の頃くらいまではよく言われていたのだ。Domは出世頭になる、と。
     耐えられなかった。自分が簡単に他の人間を虐げられてしまうということも、それを親は取り違えておかしな期待を寄せていることも。父が自分に寄せる期待は、人を人として扱わないような残忍なそれに間違いなくて、ひどく寒気がした。なんとか自分を保とうと大学時代はSubの子と付き合おうとしたけれど、やっぱりキツいコマンドには自分が耐えられなかった。痛いことや、苦しいこと、もしそれが相手の欲望の発散となっているならいいことなはずで、自分もまた高揚しているのを肌で感じていたのに、自分に残る理性がそれを潔癖のように嫌がっていた。自分の口からこぼれそうになる欲望と意思の齟齬に息ができなくなるほど混乱して、結局一度だっていわゆる““プレイ““がうまくいった試しがなかった。怖かった。自分というひとつの人格が、Dom性に飲み込まれて消えていってしまいそうなきさえした。
     出来損ないの、Dom。自分のことをずっとそう思っていたけれど、もはやそれでいい、と認められるようになった頃、彼に出会うことになる。ひどく頑張り屋さんな蓮巳敬人。仕事のよくできる、凛としたプライドの高い人。そして、自分のSub性をひどく嫌っているSub。初めて仕事をしてからちょっとした憧れを抱いていて、それでもなお少し可愛いところがある蓮巳くんに魅せられっぱなしだった。彼の第二性はあるきっかけ──彼の名誉のために、詳細は省くけど──によって初めて知ったけれど、それを知ったからと言ってその感情は変わらない。むしろ、ままならない第二性に順応しきれていない自分と似たもの同士な気がして嬉しかったのを覚えている。そして、このSubを守らねば、とも。守らねば、なんて些か傲慢ではあると思うが、しかし自分にとっては初めて湧いた感情だったが、この人が頑張りすぎて倒れてしまうなら、俺がその受け皿になりたいと、そう思った。もう、目の前で何かを失うのには懲り懲りなのだ。
    「羽風。髪を濡らしたままだと風邪をひくだろう」
    「ん〜、""乾かしてくれる""?」
    「お前はすぐそうやって……」
    「へへ、ありがと」
    「……ん」
     ぼー、っと鼓膜を揺らす温風の音に目を細めた。正式に彼の恋人兼パートナーになってひと月。週に一度か二度どちらかの家に泊まるたびに髪を乾かしてくれと頼んでいたら、蓮巳くんはメキメキとその腕をあげていて微笑ましい。もはや俺専用スタイリストさんみたいになってしまっている。もうすっかり俺の家のものの配置を覚えている彼がそそくさとヘアオイルを取り出すと、馴染ませるように俺の髪の毛を揉み込んだ。
    「羽風」
    「なあに」
    「……俺は、そんなに出来損ないなのか」
    「……へ? なにが?」
     出来損ない。蓮巳くんに似合いもしない単語が聞こえて、思わず後ろを振り向いてしまった。ソファに腰掛けて自分より少し高い位置にあるはずの顔を覗き込もうとするけれど、ひどく俯いてしまっていてそれが叶わなかった。さらさらと揺れる能力の艶やかなストレートヘアがまさしく御簾のように彼の目元を覆ってしまって、その奥に光るはずの瞳を隠している。
    「いつもいつも、まともなコマンドをかけてくれた試しがない」
     蓮巳くんはぱっ、と思い出したように顔を上げると、こちらをじっと見つめた。不安げにその瞳を揺らして、その淡い色の瞳のふちをぼやけさせている。
    「頑張るから、頑張る、俺、ちゃんとするから」
    「え?」
    「俺を、見限らないで、くれない、か」
     がつん、と頭を殴られたような感覚が己を襲う。

    「そんな、つもりじゃ」
    「……お前が、俺を好きだと言ったんだ。責任くらいとって、く、」

    「蓮巳くんは、こういうパートナーとのプレイって」
    「初めてで悪かったな」
    「違くて、その
    セーフワードは「ドライヤー

    ニールやだ

    対面で座る

    きす

    「"脱いで"、蓮巳くん」


    いいこいいこ

    「いれていい?」
    「どうし、て、お前が、訊くんだっ……命令でも、なんでも」
    「恋人だからね」

    サブスペースはいれてから

    「すき…………ッ、はかぜッ」
    「……ふふ、かあわいいね」
    「あぅ、ン」

    「ん、はかぜ、あったかい……」
    「ん?」
    「ふわ、ふわする、」
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    __jugent_

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    こいびとのつくりかた「またそんなところで寝て。身体を壊しても俺は知らないからな」
    「んん……、心配してくれておるのかえ」
    「まさか。忠告してやってるんだ」
     薄く瞼を開くと、夕焼けの差し込むラボにせかせかと生真面目な同居人──名を、蓮巳敬人という──が立ち入ってきているらしいことがなんとなくわかる。まだ自分の目は日差しに慣れないのであらかた光と影がぼんやり認知できるくらいのものだったけれど、この屋敷に住まうものは自分と敬人しかいないのだから、まあそれで正解と言ってよかった。いや、泥棒なんかが侵入していたら話は別だが。目覚め早々にくだらないことばかり考えてしまうのは、自分の悪い癖と言って良かろう。
     知らぬうちに床に伸びていたらしい自分の胴体の上を堂々と跨いで、敬人はラボの奥にあるキッチンもどきに向かった。もどき、というのは、単にバーナーやら何やらが並ぶ、調理ができる空間だ、というだけで、調理のための空間ではないことに所以する。ほら、我輩別にお料理に精を出すタイプでもないし。一日のうち、だいたい自分の最初の食事はそこで敬人が準備してくれるものだった。まあ本格的なキッチンでもなし、用意してくれるのは簡単なスクランブルエッグとトースト、コーヒーのセットといういかにもシンプルなものだったが、しかし目覚めには十分すぎると言っていい。きょうもどうやら、いつものメニューらしい──インスタントコーヒーの香りが強く立っていよいよ自分を目覚めさせようとしてくる。なるほど、もう一日を始めるべきらしい。
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