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    タイトル未定 深津一成は、くじらになりたかった。
     地球上の生き物で一番大きくて、ものによってはビル一棟ぶんの大きさに至るものもあるらしい。大海にいてはそれでもなおちっぽけに感じるかもしれないが、全ての生き物が自分より小さいなんて、どんな気分だろうと思う。寂しいだろうか。それとも、愛しいだろうか。想像するだけでなんとなく心が躍った。
     それから、海のなかを自由に泳ぐことができる。哺乳類、すなわち肺呼吸の生き物でありながら九十分もの間潜水することもできて、ときおり気ままに息継ぎのために海面近くで潮を吹く。その際に海水をわあっとかき混ぜて、海底に沈んだ栄養を浅海にすむ魚たちに与える。鳴いては聴き、鳴いては聴き、数キロ先の情報さえ己の感覚で掴むことができるらしい。研ぎ澄まされた感覚で以て一生のあいだ住み良い海を求めて廻遊しつづけて、とうとう命はてたあとはその巨大なからだがひとつの生態系の温床となって朽ちていく。
     だから、くじらのように生きたかった。何かを成したいとか、何かを残したいわけではない。でも、くじらのようにのんびりと、それでいてダイナミックに、生きられたらいいと思っていたのだ。



     殴られるなら屋上か校舎裏。体育館倉庫の脇のこともある。このテンプレートを形成したのは一体何の漫画なんだろう、と思った。砂利が黒いスラックスに入り込んでくる。おそらく手の甲にも、ほんの少しの擦り傷ができていると思う。
    「おいてめえ。舐めてんのかァ、おい」
     バスケットが下手くそなやつ──、特に、下手くそなくせにプライドだけ高いやつは、言うことなすこと大体つまらない。胸ぐらを掴まれながら、次来るであろう頬への衝撃に備えて目を瞑る。ずん、と重い衝撃が一発。熱を持つようにじんじん痛む頬に眉を顰めて、口に溜まった唾を吐き出す。
    「なんか言ってみろってんだ。その口はお飾りかよ」
     目の前の一応先輩らしい男がなんだか喚いているのを、特に気にすることもなく目を逸らした。だって、こういう人間には何を言ったって伝わらないからだ。こちら側の言うことは一ミリも。ごほ、ごほ、と自分の口から溢れ出る咳に、時折血が混じる。ああ、頬の内側が切れたんだと思った。きょうお弁当にプチトマト入れたって、母親が言ってたのに。これじゃ沁みて痛むだろう。
    「黙ってちゃなんもわかんねーっ、よっ」
     ド、とおよそ小気味いいとは言えない音が鳴った。鳩尾を軽く蹴られたんだと思う。鈍く響くような痛みにうなりをあげた俺に「ザマーミロ」とだけ言って、男は去っていった。ざまあみろって。こちらとしてはザマを見せられるようなこと、何もしたような記憶がないのだが。
     それでも、あの男のほんの少しの良心か、それともただの間抜けか、手指と脚は傷ひとつない。なら、バスケットができる。これじゃ何のために俺を殴ったのか、よくわからない。別にバスケットがしたいわけじゃなくて、何かにおける強さの序列で後輩に負けているのが許せないとか、そういうタイプの人間というだけだろう。まあ、理解したいとも思わないからもう、どうでもよかった。彼らが自分のことを理解してくれることもないのだから。周波数が違うのだ。言語とか、感覚とか、価値観を超えて。
     俺は床に蹲りながら、遠ざかる男の背を眺めていた。今年あの男は、中学最後の夏にも関わらず二年生──、深津一成のおかげで、背番号をもらえなかった。



    「沢北栄治、身長180センチ。体重63キロ。ポジションはフォワード、とか。よろしくお願いします」
     なんともこう、気の強そうな男が入ってきたな、と思った。
     ツン、と鼻先も眉も目元も吊り上がった、丁寧なつくりの顔。年相応の幼さに、年相応の反抗心の透けて見える、ほんの少し前まで中坊だっただけのガキ。沢北の第一印象はそんなものである。日本随一の強豪校である山王には、一定数こういったタイプの人間が入ってくるのが常だった。中学までのバスケットでは、チームのうち誰かひとり技術者がいれば勝ててしまう、ということもざらにあるものだから、推薦とか、スカウトとかを受けるようなやつ──すなわち、自分ひとりで勝利を授けてきたという自負のあるようなやつ──は大体、無意味な万能感を抱えているのが常だからである。
     ただひとつ違うところと言えば、表情の重さだろうか。
     一年のうちからレギュラーを勝ち取るのだ、という闘志とか、これからの練習に対する好奇心とか、そういった無邪気な感情をいっさい感じない、ただうっすらと全員を見下すような目つき。無論レギュラー落ちするつもりもなさそうに見えるが、そこにあるのはあくまで諦観と嘲弄であった。沢北が品定めのようににぐるり、と目を回す。妙だ、と思った。自分は、なんとなくそのこぎれいな顔を、そしてこれからも背を伸ばすであろう柔らかい膝を、じっと見つめる。
     少年が、ボールを手に取った。素早いドリブルで速攻。止めにきた相手チームをくるりと交わし、股下にボールを潜らせ、器用にゴールに向かって進んでいく。もう、この男には得点という名の獲物しか見えていない。
     別格だった。単なるお披露目も兼ねた新入生どうしのミニゲームと言うだけなはずなのに。手のひらに吸い付くようにバスケットボールと一体化して、コートを縦横無尽に走る。周りの部員など視界にすら入らないと言わんばかりに、ひとりの、ひとりによる、ひとりのためのゲームが繰り広げられていく。ダイナミックなプレー、クイックネス。何をとっても一級品である。ひとりで駆けずり回る技能はさながら、コートの上でボールを追いかけることにおける嗅覚──、もはや、本能とすら言っていいだろう──は、確実に才能だった。規格外だ。
     沢北の打ったジャンプシュートが、それをブロックしようとした生徒の手の間をすり抜けてスウィッシュ。すぽん、と軽快な音を鳴らしてから体育館の床に鈍い音を立てて跳ねるボールを横目で眺めながら、シュートの余韻のように小さく二回ジャンプしてみせた。
    ──あ、笑った。
     ふう、と頬を膨らませてため息をついてから、沢北は笑った。心底楽しそうで、闘志を隠さない、軽やかな笑みだった。それから、手首をぐるりと回して、すぐに次のオフェンスに移った相手チームを追いはじめる。するとすでに表情はまた硬くなっていた。またあの、ひどく退屈そうな顔である。あの笑顔は幻覚かとも思わされるが、しかし幻覚で沢北の笑顔を想像できるほど自分はあの男のことを知らない。だから、あれはほんとうに自分が見たものに違いなかった。
     なんだ、ただ競争狂か何かの類なのか。俺は思った。それに、退屈そうと他人が見てわかるような表情を作ってしまうところなんかは、まだまだガキそのものである。大好きな遊具を取られたとか、遊び相手がいなくなったとか、そういうことに拗ねる幼な子の情緒に他ならないことに気がつく。
     俺は、まだ成長期の終わらない、アンバランスに長い手足を風にたなびかせるように走るその後輩の背を眺めながら、己の中に沸々と湧く好奇心をいかにして満たそうか、と思案する。ここ、山王がつまらないと思われてはたまったものではない。あの男は、山王には必要な駒だ。コートを広く使い、着実なチームワークでボールを我がものにしてきたこのチームに、沢北のようなわがままなプレーをする男はいなかった。だから、必要なのだ。この男の代わりは、山王にはいない。だから、使わねばならぬ。この、規格外の才能を、全国の舞台で。胸が躍った。自分のポジションのせいか、はたまた単に天才を前にした高揚か、自分でもわからなかった。わからないことが心地よかった。
     ただし、この男はいかにも、バスケットボールというチームスポーツの中で、ひとりのまま破滅していきそうな危うさがある。破滅させて、たまるか。スタメンに編成して吉と出るか凶と出るかもわからぬ、この爆竹のような男が、使われる前に破滅して、たまるか。
     俺はバッシュの裏を軽く手で撫でてから、足首を回した。それから、またも自分勝手にするすると相手チームを抜いていく沢北の姿を、目を細めながら眺めていた。
     その日の練習終わり、俺はそそくさと体育館を出て行こうとする沢北の肩を叩いた。スポーツタオルを肩から掛けてふてぶてしく足を開けて歩く背は、仕草のわりに華奢だ。ついこの間まで中学生だったということを、まざまざとわからしめるほど。
    「沢北」
     先輩らが片付けに勤しむ中さっさと帰ろうとするその気質は自分の想像の通りのものだった。沢北が振り返る。
    「……はい?」
    「お前、俺と組むベシ」
    「っ、は?」
     唖然とした顔で「組む?」と繰り返す沢北の顔は、毒気が抜かれて少々間抜けでもあった。俺は小さくため息をついた。
     秋田県立山王工業高等学校バスケットボール部には、フォローマン制度というものがある。ある種の兄弟制度のようなもので、毎年春、二年のがわがひとり指名することになっていて、指名された一年はそれから二年、すなわち指名してきた上級生が引退するまでの間、その上級生の部活に関する雑務をこなす、というものである。「選手」が試合に集中するための仕組み。勝利のために組織構造さえも確立するその徹底ぶりは少々恐ろしくもあるが、しかし極めて効率的で、無駄がないものだ、と自分も入部早々に思ったものであった。自分の場合はというと、指名してきた先輩の方がベンチ落ちした関係で、逆にかなり助けてもらっている状態だった。ここではなによりも「勝利」が意味をなす。勝利のまえで、年上のちっぽけなプライドなど無意味なのだと、自分と組んだ先輩が語っていたのを覚えている。
     目の前の男、沢北栄治は、その説明を受けてもなお、ぽかん、と口を開けたままだ。
    「え、……あんたの……、俺すか? それが?」
    「よろしくベシ」
    「ベシ?」
     沢北はどうせ、山王特有のシステムはおろか体育会系での生き抜く術すら知らないことだろう。別にそれを叩き込んでやろうとか、懇切丁寧に指導してやろうとは思わない。ただ、あれほどの才能を、たかだか無知ごときに潰されては溜まったものではない、というだけだ。それに、これだけの実力があるやつをフォローマンに選ぼうとするような人間、そうそういないのだ。そもそもの目的を完遂するべく、普通は仕事ができるだろう後輩、すなわちベンチ入りしそうもないやつを選ぶのだから。こんなに見るからに強そうなやつを、選ぶ人などいない。
    「じゃあ。寮戻るまえに片付けだけ手伝ってけベシ」
    「っは?」
    「こういうのは一年からやるもんベシ」
     俺はくるりと向き直って、モップを取りに倉庫まで走った。沢北が言うことを聞いてこちらを追ってきたのかどうかは知らない。あまりに足音が多すぎて、沢北ひとりの足音など耳だけで判別できないからである。何せ山王工業のバスケットボール部には、八十人を超える部員がいるので。でも気にしたことではなかった。それで反抗したとて、自分以外の誰かがかならず何か沢北に言ってくれるだろうと思ったからである。
     自分は体育館を横断する間、混じりに混じったスキール音を聞きながら、今年の背番号について考えていた。



     四月下旬の秋田はまだ肌寒い日が続くが、それなりに運動すれば気温関係なく汗だくになる。走り込みのメニューの合間、水を飲みながらだらだらと流れる汗を運動着で拭った。体が熱って肺が大きくふくらむ感覚が、喉元を圧迫してくるのを感じる。
     ネットの向こう、体育館のもう半分で一年が同様の走り込みに苦しんでいるのが見えた。昨年の自分らもああ見えていたのかと思うと、ずいぶん遠くまできたような気がしてくるものである。たかだか一年、されど一年、といったところだろう。ずる、と鼻を啜る。汗をかくと鼻まで垂れてくるのはなんなんだろう、と思った。
     もう自分はそれなりに慣れたものだが、山王の走り込み──山王を日本一走れるチームたらしめるものである──は、おそらく入学したての一年生には相当の負担である。だいたい夏になるまでには新入生は走りすぎたことによる嘔吐を経験することになるし、走ったせいで軋むように全身が痛い、という未曾有の状態を知るに至るだろう。そもそも成長期真っ只中の未完成な身体に元からあれをこなすだけの体力が備わっているわけがないのだし、当然と言ったら当然なのだが。
     ぴぴ、と笛が鳴る。どうやら向こうも練習メニューの切替らしく、笛の音に突き動かされるように一年がくずおれていくのをぼんやり眺めた。俺は、自分と対の後輩である沢北を探そうとした。おそらく沢北もまた、あの走り込みに苦しんでしゃがんででもしているだろうと思ったからである。
     しかし意に反して、蹲っている一年生たちのなかに沢北の姿はなかった。もっと言えば、ぎりぎり蹲らずにいられている一年生たちの中にも。自分がそう思うのとほとんど同時に、マネージャーの先輩に声をかけられる。
    「深津」
    「ベシ」
    「沢北と組んだのってお前だったべ?」
     こくり、と頷くと「沢北、見てやってくんねが」とだけ言われて肩を叩かれた。「今日が初めてじゃねんだ。連絡もなしに来ねえの」そう続ける先輩の顔は、怒っているようでも、興味を失ったようでもあった。俺はそっと体育館を出て、玄関口に乱雑にならんでいる運動靴のうち自分のものに足を突っかける。当てはないが、心当たりはあった。とりあえずそのまま中庭の屋外コートに向かう。
     想像通りというかなんというか、沢北は人っけの少ない中庭のコートで一人、おそらく自前であろうボールでドリブル練を行っているらしい。ダムダム、とテンポよくつきながら、レッグスルー、バックチェンジ。軽やかな手つきで、くるくるとボールを回しては、錆びついたゴールに向かってジャンプシュート。当たり前のようにリングの中に吸い込まれていく。そして、もう一度ドリブルへ──それを、スティールする。指先にボールの重み。は、と息を吸い込む沢北の肺。
    「……あ、えっ? やば、」
     体育館にあるものに比べてほんのり空気が抜けてしまっているボールは重くて、どうもつきづらい。が、知ったことではない。自分の登場で集中力が切れたのか、ボールを抜かれた瞬間ぐら、と沢北の身体の芯がブレる。その隙を狙ってするりと交わし、ゴールのリングを目指す、が、その隙に滑り込んできた沢北にブロックされる。ここでドリブルに切り替えられれば押し負ける気もしなかったものを、沢北がそのままスティール。まずい、流れを取られた、と思ってそのままゴール前でブロックしようとするが、くる、と背面からダブルクラッチ、シュート。くそ、こいつ、煽るようなプレーしやがって、と思い顔を上げる、と。
     沢北がひどく楽しそうに笑いながら、しかしまなじりから涙をこぼしていた。つー、とまるい頬を光が伝って、ぽた、と落ちる。
    「おまえ、なんで泣いて、?」
     沢北が頬を手の甲を拭う。汗もいっしょに払うような粗雑な手つきだった。
    「……泣いてないです」
    「……泣いてるベシ」
    「これ汗です」
    「無理があるベシ」
     沢北がずず、と鼻を啜りながら、三度ボールをついて、またシュートを打つ。屋外コートのネットはもうほとんど剥がれていたから、リングが鈍いがらんごろん、という音をたてるのみだった。沢北が、ひくひくと喉元を痙攣させながら鼻を啜る。
    「ボールさわれて、たのしくて」
    「は?」
    「は? あんた……、ちが、深津さん? が聞いたんでしょ、なんで泣いてる、って」
     先輩、とも呼ばずに抗議する声が、あまりにも乳臭くて笑いそうになる。なんだそれ、楽しくて泣く、って。沢北は小さい声で続けた。
    「さいきん、触らせてもらえなかったから。走ってばっか」
    「体力づくりベシ」
    「吐くほど走るんすか? 俺、バスケットしに秋田来たのに? 陸上選手になるためじゃなくて」
     沢北が大袈裟に息をついて、「つまんねー、やめたくなる」と言った。つまんねー。ガキか、と思う。ガキなんだろう。あれだけの技術があるのだから、それを裏打ちするだけの努力は重ねてきたはずである。ただ、逆に努力を努力と思ってこなかったタイプの人間なのかもしれぬ、と思った。バスケットの技能につながることなら全て──ボールに触ってさえいれば、楽しいと思えていたタイプの。
    「辞めたくなる、って。あれも練習ベシ」
    「どこが。一生走ってるだけ」
    「あの量も走れないやつなんか、フルタイムどころかクオーターも出てられないベシ」
    「……っ、」
    「走れるようになってから言え、ベシ。違うか?」
     沢北から目を逸らさずに「中学までとは試合の分数も違うベシ」と付け加えてやれば、沢北はいかにも、と唇をとがらせて拗ねてみせる。もごもごと何か反論しようとしては飲み込むのを繰り返して、ボールを抱き抱えたまましゃがみ込んだ。俺は、沢北の脳天を覗き込みながら言った。
    「だいたいお前、これ以上ひとりっきりで何するベシ?」
     本心だった。ただひとりのボール遊びなら、相当の域まで到達しているだろう。でも忘るるなかれ、バスケはチームスポーツであって、ソロプレーの競技ではない。これ以上ひとりきりで我が道をいって、この男が全国のチームに打ち勝てるようになれるか? 答えは否。その技術を生かすための、集団での点の稼ぎ方を覚えるべきである。自分はもはや、褒めるくらいの気持ちで言ってやった。
     ただ、沢北は怒られていると勘違いしたらしく、「言わせておけば何すか、説教しにきたんですか」と言ってますます顔をボールと腕の間に埋めた。坊主頭の脳天が、きれいなまるい頭の形を露呈しているのがよく見える。俺は口を開いた。
    「まだ背番号ももらえてないのに、よくもまあそう自信満々になれるベシ」
     ぱ、と沢北が顔を上げて、跳ね返すみたいに声を上げる。
    「っ、はあ?」
    「ガキみたいにごねてたらもらえるもんももらえないベシ。もらえる前に辞めるならいいけど」
    「っ、るさいな、やめませんってば!」
    「ふうん? やめないベシ?」
    「あ……、」
     沢北がボールに指を立てて、ぎゅう、と握る。力を込めすぎた指先はほんのり白くなっていて痛ましい。手を差し出してやれば、眉をひそめながらも俺の手を取った。ぐい、と引っ張って起こしてやる。まだほとんど中学生のまま、ウエイトも背丈も未完成な身体がふわ、と浮く。沢北の体温が指先から流れてくる。ほんの一瞬、手を離すことをためらいたくなるような温度だった。
    「……ありがとう、ございます」
     沢北の声に気付かされるようにぱ、と手を離す。寒い。誤魔化すように「別に。練習戻るベシ」とだけ言った。言えた。沢北はこくり、と頷いて、自分の持ってきたボールを抱えてついてくる。俺はというと、先ほどの暖かさを思い出しては、手のひらを開いてはとじ、開いては閉じを繰り返していた。
     体育館までの道に生えた桜の木からははらはらと花びらが散っていた。秋田の遅れてくる春を、知らしめるようだった。

     *

    「サンノー! ファイッ、オ、ファイ、オ、ファイ、オ、ファイ」
     ああ、うちの部員たちだ。外から聞こえてくる号令に、咄嗟にそう思う。きょうの昼練は一年と三年のみの走り込みで、二年は一同休みを与えられていた。部員の人数の関係か、それとも練習メニューのバランスか、こうして一学年だけが休みになることは少なくない。俺は遠くに昼練の音を聞きながら廊下を急ぐ。塩ビの床の上で上履きがキュ、キュ、と音を立てる。ゴムどうしが擦れ合う特有の摩擦感が心地いい。
     あの日以降、沢北は存外素直に練習に出るようになった。
     部活の練習をサボってまでボールに触るくらいにはバスケットが好きらしい沢北は、俺のセリフに闘争心を煽られてなのか、それとも単に本来の負けん気が発揮されてなのか、弱音(と、走りすぎた副作用の吐瀉物)は吐けど練習から逃げることはずいぶん少なくなった。本人曰く「フルタイム出場したいんで」とのことらしいが、しょうみ選手層の厚さから見て山王でフルタイム出場することなどそうそうないだろう。まあ、言わないでおいたが。どこでヘソを曲げるのか、まだ分かりきっていないので。
     昼休みの図書館内はひどく静まり返っている。聞こえるものといえば、自習に使っている三年のシャーペンが走る音の隙間に差し込む、校庭から運動部の掛け声くらいのものである。では自分はというと、ただなんとなく気になったムックやら図鑑やらの背を眺めて今日のお供を決めかねている途中で、その半端な静寂の隙間を歩いているだけだった。部活のない昼休みに教室にいても暇が手に余るだけなので、暇つぶしにここへ来たというわけである。
    ──孤独なクジラ、〈52〉の謎に迫る。その生態はいかに⁉︎
     仰々しく書かれた煽りに目が止まった。目の前の科学誌は、月刊だったか、それとも不定期に出版されるものだったか、とにかくその辺は曖昧だが、気になるタイトルがあると、自分はときおりこれを手にとることがあった。孤独なクジラ。その単語に惹かれて、目次の通りぺら、とページをめくっていく。
     ウィリアム・アルフレッド・ワトキンス。高名な鯨類学者らしい。彼の発表した論文に「ナガスクジラの行動とその水中音に関する研究」──、太平洋に波及するクジラの声に、五十二ヘルツという大変高い音で鳴くものを発見した、というものがある、と。アメリカ大陸西岸などに生息するナガスクジラらは普通、十五から二十五ヘルツ程度の低い唸り声でコミュニケーションを取るのだという。だから、五十二ヘルツなどという素っ頓狂な高さで歌う鯨の声は、ただ孤独に響きこそすれど、仲間には届かないのだ。孤独か、自由か。人間はこの一匹ぽっちのクジラに、〈52〉と名前をつけた。まだ声でしか観測できたことのないような、幻の孤独のクジラに。
    「孤独なクジラ……、」
     俺は記事を読み終えるとパタン、と手にしていたムックを閉じた。〈52〉。沢北みたいだ、と思った。才能を持つものは、大多数の持たざるものと完璧に共鳴するのは難しい。天才とは、異質である。才能のぶんだけ、はみ出しているということになるから。
     じゃあ、俺は? 俺がワトキンスか。それとも、もう一匹の〈52〉か。わからない。わからないままに、そのムックの表紙を撫でる。大きく配置されたシロナガスクジラが、水飛沫を浴びて光っている。未だ見ぬ〈52〉の姿を期待するような、あどけなささえある。
     もう一度顔を上げた。窓の外には、顔色をひどく悪くしながらも大きく破顔する沢北の姿がたまたま目に入った。部の同期に肩を叩かれながらスクイーズボトルに口をつけ、喉仏をこくん、と揺らした。汗が額を照らす。きらきらと太陽の光を反射しては、沢北が乱雑に手の甲でそれを拭う。
     眩しい、と思った。物理的に発光しているわけでもなかろうに、どうも目が焼かれそうな気がして、すう、と目を細める。ほんのり光を絞った視界で、沢北が校舎の方へ走っていった。昼休み終わりの予鈴が、ぼんやりと響いている。



     放課後練はだいたいシャトルランに始まって、クールダウンのランニングに終わる。特に背番号が決まるまでの間は体力作りにいっとう重きを置かれるのが常ということで、やたらめったら走らされるのが現状だった。沢北の言う、陸上選手になるため云々というのはわからないでもない。練習の意義を理解しているので、反発するつもりもないが。
     かち、という音と共にシャトルランの音源が止む。今日のウォーミングアップはとりあえずここまでということらしい。どこか浮ついた空気感を醸し出したままのランニングはどうも居心地が悪かったが、今日は運命の背番号発表と知らされていたので仕方がないことだろうと思う。シャトルランのラインを踏んだか否か逐一厳しく監視するのが常の先輩ですら、今日はそれどころではなかったようである。俺は少し濃いめに作られた甘じょっぱいスポーツドリンクを嚥下できるだけ嚥下した。
    「集合!」
    「はい!」
     しん、と静まり返った体育館に、部員のはあ、はあ、という息の音だけがこだまする。堂本とマネージャーによって集められた部員らは、どこか期待したような、しかし焦るような、落ち着かない高揚を浮かべている。堂本監督が口を開いた。
    「今から背番号を発表する」
     結局その不自然な高揚のなかにいる自分もまた、例外ではない。昨年は背番号、すなわちコートの上に立つ権利を得たけれど、今年も必ず得られるとは限らないのだから。卑屈にはなる必要はないと思うが、慢心は毒である。この山王でレギュラーを勝ち取ることは全国優勝の冠を得るよりも難しい──、そう語られているし、実際そうだろう、と思う。俺は、伝う汗に首元をくすぐられるのを必死に無視しながら、ゴクリ、と息を呑む。
    「えー、背番号、9」
     四番から八番は三年生が得た。九番。監督と目が合って、ゆるり、と微笑まれる。これは、もしかして。
    「二年、深津。ポイントガード」
    「はい」
     降りかかるは、安堵か、歓喜か。喉元につっかえていたものが取れて、どうやらこわばっていたらしい肩の力が抜けた。今年も戦える。ふう、とため息をついて体育館の床の木目を数えると、ワックスがけから久しく経った体育館の床が思いのほかくすんでいることに気がつく。自分のあとも三年や二年の名前が呼ばれていく。
    「背番号13。一年、沢北栄治。スモールフォワード」
    「ハイ」
     沢北の返事が響く。昨年自分が背負った番号をあの男が背負うことになるのが、なんだか落ち着かない。プレーヤーとしてのタイプは全く異なるだろうに、ルーキー枠としては同じ番号を振られるだけの対象らしい。
     それにしても、あの男もまた、一年次からレギュラーを得たと噂される目に遭うのだ、とぼんやり昨年の自分のことを思い出す。見知らぬ人に、自分が山王の選手のひとりとして知られている感覚。もしかすればあの男ほどならば注目の的になるくらいのことならば慣れっこなのだろうが、最強山王のレギュラーを得た、という色眼鏡は時に恐ろしいものですらある。瑣末なミスも、極度の緊張も、全てあってはならないものであると期待される重圧。きっとあの男がそんなものに苦しまなければいいが。
     ちらり、と沢北の顔を覗き見る。きらきらと瞳の奥に星を飼いながら、ゆるく微笑んでいた。ああ、大丈夫かも知れぬ、と思う。この男にとって、戦える、という事実より輝くものはない。わずかな安堵のまま堂本のほうに向き直った。
    「では解散。チーム分かれてのメニューになる。フットワークのあと、スリーオンスリー。基本的にはマネージャーの指示に従うように」
     部員らの野太い「はい」という返事が重なってから、一同次の練習のためにと散らばっていく。俺もベンチ入りを果たしたメンツでの練習に混じりにと、体育館の奥へと走った。



     ピピ、と笛が鳴る。マネージャーが「十分休憩!」と叫んだのを横耳に挟みながら、タオルで汗を拭う。フットワークあとの特有の疲労感、特に、ふくらはぎの重みと喉奥のつきん、とした痛みは未だ慣れることがない。拭いても拭いても全身にまとわりつく汗がうざったくて、いっそ水道で軽く頭でも洗いに行くことにする。坊主のいいところは、こういったときに髪を乾かすことを懸念しなくていいところである。スクイーズボトルとタオルとを手に取って、俺は体育館を出た。
     ちょうど体育館を出た先にある水道で、沢北が水を飲んでいる背が見える。水道口が逆にひっくり返されたところから、太陽の光を受けてじゃばじゃばと光り輝きながら水が溢れるのを、沢北のくちびるが飲み込んでいく。うすく閉じた瞼がつるりと輝いて、ごく、と喉仏が動いた。飲みきれなかったぶんの水が顎から喉を伝って消えていく。あまりに眩しくて、そっと目を細めたまま、自分も水道の方へ歩いていく。
    「深津、さん……?」
     す、と身を起こして振り返った沢北と目が合った。流れたままの水道がすう、と音を立てているのを横耳に挟みながら、きょと、と丸い目を向ける沢北のことを見つめる。その小さい顎に手を添えた。沢北が肩をびく、と揺らすも、その目元は俺の意図を探らんとばかりに揺れるばかりだった。ごく、と息を呑む。
    「……どうしました? なんかついてますか?」
     そ、と顔を近づける。依然水道から流れ続ける水の音、遠くから聞こえる野球部の声、体育館の中のざわめき。ありとあらゆるものがぼやけるように遠くなっていく。目の前の沢北の顔も、近すぎてピントが合わない。自分の息が、小刻みに震えながら溢れた。理性が咎めてか、恐れてか、くちびる同士が触れ合う寸前で止まる。伺いを立てるようにのぞいた沢北の瞳は陽の光が透けて明るい。浮かべる表情は、拒絶か、恐怖か、軽蔑か?
    「……しない、んすか?」
     どれでもない。受容だった。
    「……っ、」
    「……んあ、」
     自分のくちびるが沢北のそれを喰む。ちゅ、とひとつ可愛らしい音を立てて離れる。水を飲んだばかりのくちびるは濡れて冷たく、それでいて熱い。都合よく自分らを隠しているらしい木陰が揺れて囁いた。
    「……背番号、もらいましたよ、俺」
     沢北が言った。得意げな声が、息と共にこちらに吹きかかる。依然近い位置にある顔のせいか、視界が真っ白に明るい。ひとつ深呼吸して身を離す。沢北がこちらを覗き込んできた。無邪気な顔つきは、先ほどまで何をしていて何をされていたのか全くわかっていないようで、逆に、分かりきっているからこそここまで落ち着いているのかも知れぬ、と思わされるものだった。なんだか邪気が抜かれるような心地がして、自分もまたため息をつく。ひとりでに引きずるのも無粋かと思って。
    「はあ。それを名目にラントレサボるつもりベシ?」
    「なわけないじゃないでしょ。なんすか」
    「別に何も。まあでも、あんまり驚かないベシ」
    「何が」
    「おまえが一年でレギュラーに入ったこと。だろうな、て思ったベシ」
    「……、褒めてます?」
    「貶してるように聞こえるベシ?」
    「……ありがとう、ございます?」
     ちら、と校庭の時計を見やる。休憩が終わるまで、もうあと二分しか残っていない。俺は「ほら、中戻るベシ」とだけ声をかけて、くる、と体育館の方に向き直ったはずだった。  
     ばし、と手首を取られて、そのまま沢北の方に引っ張られる。よろめいた隙に、沢北のくちびるが自分のそれと触れた。あ、二回目。回数を考える間もなく、もう一度落とされるうすいくちびるの温度がからだを温めていく。
    「……、おい、」
    「やられっぱなしは、ちょっと」
    「やられっぱなし?」
     沢北は太陽の光を存分に浴びて笑った。それから、「バスケットだってディフェンスのあとはオフェンスですよね」と言って、立ち尽くす俺を通りすがるように体育館の中に入っていく。やられた、と思う。流れ続けていたらしい水道の栓を締めて、俺も追いかけるように入っていった。目に入った沢北は、スリーオンスリーに備えてか、バッシュの紐を締めているところだった。

     *

     消灯時刻の一時間前。もうほとんど就寝の準備を終え、さて時間でも潰そうかと思ったところに、コンコン、と自室のドアがノックされる。マネージャーか、それとも明日のことで同級生が何か聞きに来たか。どちらにせよ応じない理由もないので、「ベシ」とだけ答える。がちゃ、と音を立てて開いたドアの隙間から、そろ、と滑り込むように入ってきた。沢北だった。
    「……沢北?」
    「……深津、さん」
    「……適当に座ってていいベシ」
    「消灯まえにすみません。眠れなくて」
     床にストン、と体育座りをした沢北が、黙り込んだままカーペットの毛並みを指で撫でている。沢北もまた就寝準備を終えたのだろう、ふんわりとボディーソープの匂いが香った。
    「……何か用ベシ?」
    「用……、そう、ですね」
     足指どうしを擦り合わせながら、居心地悪そうに沢北は小さくため息をつく。それから、指摘するのを迷うように視線をうろうろと動かしてから、すう、と息を吸った。俺は学習机のほうに向き直った。目の前にある部誌の当番は自分である。もう書き終わっていたけれど、自分の筆跡をなぞるようにペンを取った。沢北が「深津さん」と俺を呼ぶ。
    「……前の、あれなんだったんですか」
    「前の」
    「キスです」
    「キ……、どうって、」
     キス。校庭でのあの一瞬のことを指すことは明確である。ごく、と息を呑んだ。これまでお互いの間で話題に出ることもなければ、繰り返されることもなかったあの行為。学習椅子を回して沢北の方を見やる。沢北はこちらをまっすぐに見上げていた。入学時からまた少し身長が伸びたらしい沢北のつむじを見るのは新鮮ですらあった。沢北が立ち上がる。
    「沢北、」
     沢北が俺の両手を取る。手を引かれるまま立ち上がると、沢北がそのまま俺のベッドに腰掛けた。ぐ、と手を引かれる。手を引かれるままバランスを崩して、覆い被さるように沢北の顔の横に手をついた。仰向けに横たわった沢北しか、視界には映らない。安っぽい蛍光灯の光を受けて、生白く光る沢北の肌が、目についた。
    「深津さん、俺ね、」
     起きあがろうとする俺の腰を、沢北が掴んで引き寄せる。起き上がることができないまま、沢北の上に身体が落ちた。沢北の体温が高いのか、自分が熱っているのかわからぬままその温度に感じ入った。沢北のことを見下ろす。沢北が口を開く。
    「俺ね、この体勢で、中学の先輩に殴られたことあるんです」
     沢北がへらりと笑った。
    「舐めてんのか、て。面白くないですか? へんなの。何にも舐めてねえっての」
    「……面白い?」
    「深津さんは、殴ったりしなさそうだけど」
    「……何の理由があっておまえを殴らなきゃならないベシ」
    「ほらね? へへ」
     いっさい面白くはなかったが、沢北は依然としてへらへらと笑みを浮かべていた。自分もまた暴力を振るわれた経験があるとは言わなかった。言いたくなかった。この男の経験に共感することで、この男の経験を軽んじることにならないかと恐れたからである。
     口籠る俺を見上げながら、沢北があまりにも近い位置にある俺の顔をじ、と見つめている。自分が今、どういう顔をしているかわからない。
    「……ね、深津さん。深津さんのキスは、そういうんじゃないんですよね」
     沢北が、すう、と目を細めてそう言った。
    「……どういう?」
    「俺のこと、嫌いでキスしたんじゃない、ですよね」
    「嫌い? なんで」
    「違うならいいっす。ただ、俺のこと嫌いな人が……て思ったら、ちょっと」
    「沢北、」
    「ね、キスしたいです。もう一回」
     沢北の薄いくちびるを塞いだ。以前触れたときより幾分冷えたその感触を確かめるように啄む。お互いキスのお作法なんか知らなかったけれど、本能が訴えるように沢北の唇の隙間を舐めてやった。沢北が鼻腔から零れ落ちるように喘ぐ。この男と経験を同じくしているという優越と、それでも同じにはなりえないのだという実感を、シーツと一緒に握りしめた。
    「んく、ふかつさん……っ、」
     沢北がぎゅう、と俺の寝巻きのTシャツを締める。ねだるように首を伸ばすのを、掬うようにキスしてやった。沢北がちゅぱ、と俺の下くちびるを甘噛みした。ぐい、とくちびるが伸びるのがおかしいのか、沢北がくすくすと笑った。
     こどもが最初に覚えるリビドー、すなわち快楽は、くちびるから得るものなのだという。前に手に取った本で読んだことがある。人間の覚える快楽の近くは、くちびるから始まる。だから赤子はなんでも咥えたがって、なんでも口にしたがる。
     これは確かに、そういうことなんだろうな、と思わされるようなキスだった。経験もなし、すがりかたもわからないのに、ただくちびる同士が触れ合う柔らかさに溶けていく。沢北の甘えるような鳴き声が、口腔を反響して脳幹に響いた。狂いそうだった。
    「ん……っ、」
     唾液が甘い、なんてことはファンタジーだし、だからと言ってとくべつ酸っぱい味だってしない。ただ、熱を共有しているということだけが事実として明確で、そこに味覚はない。
    「あ、っ、んう、ん」
     それでも、どうも甘いような気がしてならなかった。くらくらと酔いしれるように貪りながら、沢北の頭を撫でてやった。坊主の短い毛が指先をちくちくと刺激する。
     自分の太ももに、ごり、と沢北のものがあたった。沢北がその些細な刺激にも「あ、」と素直に声ををあげた。口を離す。ぷは、と息継ぎするように喉元を反らす沢北が、肩をすくめて笑う。
     ぎゅう、と己の身体に熱が集まっていくのを感じた。まずい、これは、俺も。
    「……、深津さんも、勃ってる」
     沢北が呟いた。かくん、と突き上げるように腰を動かした沢北のそれと自分のそれが布越しに擦れ合うのに、何か己の全てを暴かれているような居心地の悪さを感じる。沢北が背をしならせるしぐさはどこか拙くていとけないのに、していることはどう転んでもいとけないとは言えないものである。
    「へんな、かんじ……、っすね」
    「……変なこと、してるからベシ」
     動く腰を嗜めるようになでつけてやると、沢北はほのかに快感に喘ぎながらうっとりと背骨をカーブさせた。皮膚の奥に蠢く筋肉に指が跳ね返る。
    「へ、そっか、これ変なこと? ……っあ、」
    「……おまえもそう思うなら、そうベシ」
     沢北の履いていたジャージに指をかける。パチン、と腰のゴムを弾いてやると、ゆら、と沢北の腰も揺れた。
    「……いいベシ?」
     こくん、と沢北が頷く。俺は沢北のズボンと下着をずる、と一気に下げてやった。それから消え入るような小さい声で「俺だけじゃなくて、深津さんも」と続ける。言葉のままに自分も脱いだ。
    「深津さん、さわって、」
    「……沢北も、俺の、」
    「うん」
     そっと指を伸ばす。しゅこ、としごいてやる。裏筋にそっと指を立てて、くすぐるように。びくびくと身体を震わせながら、沢北もまた俺の手管に真似するように俺のそれに触れる。時折ぎゅう、と握り込んでくるのが、快感に感じ入ったためのことか、普段の癖なのか判別できない。どちらにせよ、即物的が与えられて、腰の奥が震えた。
    「……っ、」
    「ふかっさん、ふかつさん、」
    「何、」
    「気持ちい……っ」
     語尾をかすかに揺らしながら沢北が言った。懇願するみたいにこちらを見つめる。ごく、と喉が鳴った。沢北にこれが聞こえていないことを祈った。口を開く。
    「……自分がやられたいようにやってみろベシ」
    「ん、へ?」
    「……いつもみたいに……、ベシ」
     俺の愚息を握り込んでいた手を緩め、指で小さな輪を作ると、鬼頭を小刻みに刺激してくる。俺が漏らす吐息に気をよくしたのか、沢北が微笑みを浮かべる。俺は流し込むように沢北の耳元に顔を寄せた。耳朶を緩く食んでやれば、沢北が空いた手で俺の後頭部を引き寄せた。すがるように指を立てられる。競技のためにきちんと爪を整えた指先が、俺の皮膚を傷つけることはない。
    「あ、」
    「っ……そう、されたいっ、ベシ?」
    「ん、深津さ、耳やだ、──〜っ⁉︎」
     沢北のちんこに触れたまま動かすのをやめていた手を、沢北に倣って動かし始める。沢北が早めれば早く、遅めれば遅く。ちょうどそのまま追いかけるように。とろとろと先走りを流す先端をゆらゆらと刺激するたびに、沢北が大袈裟に肩を揺らして喘いだ。
    「待って、んう、うそっ」
    「ほんと」
    「きもちい、」
    「……先っぽ、いじるのが好きベシ?」
    「言わないで、くださ……っ、」
    「確認ベシ」
    「さいっ、あく……ッ〜──」
     声を翻しながら抗議でもするように首を振る。目が合った。表面に水分を湛えた瞳が、安っぽい蛍光灯を反射して光る。俺の頭に添えていた沢北の手を取った。指を絡めてやると、沢北がくしゃ、と握りしめてくる。赤子の本能みたいに、ぎゅう、と。
    「ンあっ、は、いつもとあんま変わんね、のに、」
    「ベシ?」
    「擦ってる、だけなのに、なんでっ、? きもちい、」
    「さあ」
     腰をびくびくと跳ねさせる沢北の手の動きが段々と覚束なくなってきたタイミングで、そっと沢北のものと自分のものをまとめて握り込んだ。腰を押し付けるように揺らしてやると、裏筋どうしが擦れ合う。沢北の目尻から、先ほどまで表面張力で止まっていたはずの涙がぽろ、と溢れた。
    「く、……っ、」 
    「ん、はあっ、これ、やばぁ、」
     生理的な涙がじわりと沁み出してくるらしい沢北の目元にキスを落として吸い取ってやる。ほんのりとしょっぱい。沢北が頭頂をシーツに擦り付けるように首を振った。徐々に早急になっていくお互いの手の動きが噛み合い切らぬまま、時折手どうしがぶつかる。それさえも焦ったくて、気持ちが良くて、目の前にある本能にだけ従順になっていく。ぼう、っとした。思考が焼け切れるように熱い。甘えるように喉を鳴らす沢北の声が、耳から直接注ぎ込まれてくる。猛毒だ。注ぎ込まれるままに己の体が熱狂し、血液という血液が沸騰しそうだった。自分から溢れる息もまた、痙攣するように震える。
    「ん、出る、う〜──ッ」
    「沢北、」
    「、んく、ぅン」
    「……、いく、」
    「俺も、俺もでる……っ、あ」
     視界が一瞬、ホワイトアウトした。
     びゅる、とお互いの切先から溢れでた液体が、俺の手のひらの上で混ざった。生暖かくて心地いいものではなかったが、初めて見る自分以外の白濁が自分のものと同一になっていくという実感が、よくわからぬ高揚と戸惑いを生んだ。誤魔化すようにティッシュで拭い去ってゴミ箱に捨てる。
    「よく、眠れそうです」
     沢北が囁いた。こどもが秘密を教えるみたいな、柔らかくてひそやかな声色だった。蒸気した頬はさきほどまで立ち香っていた性の匂いを隠しもしないのに、ちぐはぐなまでにあどけない笑みを浮かべている。すり、と頭を撫でてやった。くすぐったそうに鼻に皺を寄せて笑いながら、俺の手のひらに頭頂部を擦り寄せてくる。
    「……そろそろ消灯時間ベシ。部屋戻れベシ」
     沢北は「はい」と言って口を結んだ。さきほどまで己が塞いでいた薄いくちびるが、蛍光灯の光を浴びてつや、と光る。いつの間に服装を整えていたらしい沢北はゆったりと立ち上がって部屋のドアを開けた。どこかぼうっとした顔のまま、「おやすみなさい、深津さん」とだけ言って、暗い廊下へ消えていった。
     自分もまた熱に浮かされたように、先ほどの出来事を反芻する。沢北の赤らんだ頬、まなじりからこぼれ落ちた一筋の涙、それから、混ざり合ってぐちゃぐちゃになった、精子。ぼすん、とベッドに倒れ込んだ。真っ白な天井は何も浮かべてやくれなかったけれど、それがかえって自分の脳内にこびりついたあの男の痴態と、それに煽られて燃え盛るようにたぎった己の欲を浮き彫りにしている。同じ熱を分け合って、同じ欲に煽られた。
    ──ほんとうに?
    「……くそ、」
     明日は、沢北のデビュー戦だった。全国高校インターハイの、地区予選である。俺はなぜか、中学のころ先輩に殴られたあばらが今になって軋むような気がした。

     *

    「カウント、ツー、白十三番。フリースロー」
     五十二ヘルツ。
     その数字は結局、珍しくはあれどとくべつなものではなかったらしい。じっさい調べてみれば別にありふれた周波数で、他のくじらが必ずしも聞こえないわけではないのだそうだ。つまり、あるくじらがその音で鳴いたからと言って、それがただ虚空に消えるわけでもなければ、鳴き声を理由に疎外されることもない。そもそももし虚空に消えたとて、人間が推測するように孤独に苛まれるようなことも、ないかもしれない。
     それでも、ちがう、のだ。五十二ヘルツで鳴くくじらは、ちがう、ということをわかっている。自分がほかのくじらに比べて素っ頓狂な声で歌っていることに、気づいている。いくら数千キロの海を動こうと、いくら自分より小さな魚たちに愛されようと、自分と同じ大きさに立ち返って、自分と同じ声で鳴いてくれるやつなどいないということを、まざまざと知らされながら生きるにちがいない。
     だから、自分の声を聴いてほしい、理解してほしいと嘆くくじら一匹と正しく会話してやることができるものがいるとなれば、すなわち、そのくじらと完全な相互理解を図ることができるものがいるとなれば、どんなに落ち着くだろうと思ってしまうのである。心情を想像するのは傲慢か? それとも、凡愚か? もう、わからなかった。わからなくても、いいのかもしれなかった。
     白と紺のユニフォームを翻してコートを駆ける沢北の背に、そんなことを思う。息継ぎでもするみたいに気まぐれに浅海にあらわれた、素っ頓狂な声で鳴くくじら。いつか大海に旅立って、自分の住み良い、楽しくて刺激的なバスケットのある場所を探し出すだろう沢北。
    「深津さん、ナイスパス!」
     深津一成は、くじらになりたかった。この男が太平洋のどこかで鳴いているのを、必ず拾ってやれるくじらになりたかった。
    「沢北前向け、ディフェンスベシ」
     できるなら同じ声で鳴いてやれるようにも、なりたかった。これが恋とか愛だとかいう感情なら、どうぞ心臓をくれてやる。深津一成十七歳の、一種の誓いだった。もしかすると、呪いでもあった。
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    __jugent_

    DOODLE
    こいびとのつくりかた「またそんなところで寝て。身体を壊しても俺は知らないからな」
    「んん……、心配してくれておるのかえ」
    「まさか。忠告してやってるんだ」
     薄く瞼を開くと、夕焼けの差し込むラボにせかせかと生真面目な同居人──名を、蓮巳敬人という──が立ち入ってきているらしいことがなんとなくわかる。まだ自分の目は日差しに慣れないのであらかた光と影がぼんやり認知できるくらいのものだったけれど、この屋敷に住まうものは自分と敬人しかいないのだから、まあそれで正解と言ってよかった。いや、泥棒なんかが侵入していたら話は別だが。目覚め早々にくだらないことばかり考えてしまうのは、自分の悪い癖と言って良かろう。
     知らぬうちに床に伸びていたらしい自分の胴体の上を堂々と跨いで、敬人はラボの奥にあるキッチンもどきに向かった。もどき、というのは、単にバーナーやら何やらが並ぶ、調理ができる空間だ、というだけで、調理のための空間ではないことに所以する。ほら、我輩別にお料理に精を出すタイプでもないし。一日のうち、だいたい自分の最初の食事はそこで敬人が準備してくれるものだった。まあ本格的なキッチンでもなし、用意してくれるのは簡単なスクランブルエッグとトースト、コーヒーのセットといういかにもシンプルなものだったが、しかし目覚めには十分すぎると言っていい。きょうもどうやら、いつものメニューらしい──インスタントコーヒーの香りが強く立っていよいよ自分を目覚めさせようとしてくる。なるほど、もう一日を始めるべきらしい。
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