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    こいびとのつくりかた「またそんなところで寝て。身体を壊しても俺は知らないからな」
    「んん……、心配してくれておるのかえ」
    「まさか。忠告してやってるんだ」
     薄く瞼を開くと、夕焼けの差し込むラボにせかせかと生真面目な同居人──名を、蓮巳敬人という──が立ち入ってきているらしいことがなんとなくわかる。まだ自分の目は日差しに慣れないのであらかた光と影がぼんやり認知できるくらいのものだったけれど、この屋敷に住まうものは自分と敬人しかいないのだから、まあそれで正解と言ってよかった。いや、泥棒なんかが侵入していたら話は別だが。目覚め早々にくだらないことばかり考えてしまうのは、自分の悪い癖と言って良かろう。
     知らぬうちに床に伸びていたらしい自分の胴体の上を堂々と跨いで、敬人はラボの奥にあるキッチンもどきに向かった。もどき、というのは、単にバーナーやら何やらが並ぶ、調理ができる空間だ、というだけで、調理のための空間ではないことに所以する。ほら、我輩別にお料理に精を出すタイプでもないし。一日のうち、だいたい自分の最初の食事はそこで敬人が準備してくれるものだった。まあ本格的なキッチンでもなし、用意してくれるのは簡単なスクランブルエッグとトースト、コーヒーのセットといういかにもシンプルなものだったが、しかし目覚めには十分すぎると言っていい。きょうもどうやら、いつものメニューらしい──インスタントコーヒーの香りが強く立っていよいよ自分を目覚めさせようとしてくる。なるほど、もう一日を始めるべきらしい。
    「そういえば、そろそろまた落ち葉の掃除をしないとな」
    「おや? もう、そんなに経ったかえ」
    「業者に連絡しておこうかとも思ったんだが」
    「よいよい、自分で手をつけるのもロマンがあろう」
    「そう言って去年何もしなかったのはあんただからな」
     敬人は慣れた手つきでラボ用の小さな冷蔵庫からかちかちのパンと卵を取り出し、パンをトースターに、卵を小さなフライパンに落とす。ふと目をやるとビーカーに並々の液体──つまり、それがコーヒーなのだけれども──が満たされていて、この愛すべき同居人のこなれた手際の良さに感心させられるばかりである。ひんやりとした床から緩慢な動作で零は起き上がると、キッチンもどきに立つ敬人の背に回った。ゆるく腕を回して敬人の肩に顎を乗せる。特に嫌がる様子もないので、その格好に甘えることにする。
    「……おぬしもまったく、手慣れたもんじゃのう」
    「あんたがやらないからだろう」
     本当に、綺麗な顔をしている。白皙の素肌に踊る濃緑の艶やかな髪は、鈍いラボの蛍光灯とて美しいものに錯覚させる。安っぽいはずのその光すら柔らかに反射して、零の瞳孔の奥に優しく流れ込むのである。真っ直ぐに通った鼻梁の先を臨む目元は涼やかに光るままである。零はこれに、長年ずっと焦がれてならなかった。この、凛とした美貌のうちに隠れた、その──
     敬人は仕方なさそうにため息をひとつこぼしたが、手元は先ほどと変わらず食事の準備に勤しんでいた。白い皿の上に熱々のスクランブルエッグが着地した。チーン。そうするうちに間抜けなトースターの音が鳴って、こんがり焼き上がった食パンもまたスクランブルエッグの隣に並ぶ。手元に皿とビーカーを携えた敬人は顎で以って実験台のほうをさす。はあい、と零はちいさく相槌をうって、そちらに腰掛けることにした。
    「それで? 今日の予定は」
    「きょうは……一旦今のが落ち着いてきたからのう」
    「そうか」
    「おぬしさえ良ければ、お出かけしようと思ったのじゃけど」
     実験台にコツン、と音を立ててもろもろを置いた敬人もまた、零の正面に腰掛ける。月光にひかるつゆ色の瞳が眼鏡のレンズ越しにゆれながら、ゆっくりとその焦点を零にあててゆく。
    「出かける? 俺は外に出ちゃいけないんじゃなかったのか」
    「うーん、そういえばそんなことも言ったかのう」
    「ああ。口すっぱく言われた。なんだ、あんたもボケるには少し早いんじゃあないのか」
    「くくく、手厳しいものじゃの」
     敬人は零の説教を思い出したように顔を顰めた敬人は、着ていたセータの袖をかるく捲って、実験台に肘をついた。
    「そもそもどこに」
    「うーん、どこでもいいんじゃけど」
    「どこでもいいって。あんた、出不精が祟って、レパートリーがないだけだろう」
    「そうとも言う」
     かちゃり、とナイフと皿がぶつかる音がした。きっと、零が幼い頃なら母が行儀の悪さを指摘したろうと思う。その小さな物音に零は肩をすくめると、フォークに乗ったスクランブルエッグを小さく口に運ぶ。いつもどおりの朝食である。
    「そうじゃ、ご飯をありがとう敬人……っ、」
     礼をするようにひとつ敬人の口元にキスを落とした。慣れ親しんだ柔らかな感覚に目を細めれば、敬人はするりと顔を背ける。それこそ何度もしてきていることなのに、恋人のような甘いしぐさには慣れることがないらしい、少し恨めしそうにこちらを軽くにらんでから、敬人は小さく咳払いした。
    「……出かけるんだろう。何時ごろに家を出るんだ」
    「くく、夕方の六時くらいかのう」
    「あと二時間くらいか」
     敬人は顎に手を当てて、小さく考え込むようなしぐさを取った。
    「それならそれまでに」
    「おお、そうじゃったそうじゃった」
     敬人のつめたい手をひいて、窓までの少々の距離を歩いた。小さなキスには照れるくせに、こういうしぐさには少しの照れも見せない敬人がすこしおかしくて、かわいいと思う。零は、自分に続く控えめな足音に頬を緩めた。
    「敬人、おやすみ。いい夢を」
     敬人の耳元に小さく囁きを落としながら、窓際の小さなソファに腰掛けさせた。そして敬人の頸に隠れたつまみを指先で探る。確かちょうど首の真ん中あたりにあるはずなのだが──あった。かちり、とメモリが切り替わると、敬人は先程まで開いていたはずの瞼を緩慢に閉じていく。完全に閉じ切ってしまったのを確認してから、左手首の袖を優しくまくって、親指で軽く押した。無機質な音をたてて手首にある充電コンセントの蓋が開いたのに、充電コードを差し込む。手首の小さなランプが緑色に光り始めたのを目視で確認すると、敬人を眠らせることを完了させたと言えるのである。
    「……バッテリーの摩耗……、あと数ヶ月で替え時か」
     わずかに開いたカーテンの隙間から差し込む夕方のあたたかな日差しに照らされるまま、敬人は穏やかに眠っている。それはあたかも休日の麗しい昼寝の類のようなのだけれど、しかし実際、昼寝というより食事に近いものなのだからおかしい。
     この蓮巳敬人は、朔間零と食事をとることはない。未来永劫、何があろうと。

     *

     人工知能の学習は、結局は赤子が自我を持つ過程とよく似ている。それの得意不得意がそれと子供とでは違うだけのことであって、膨大な情報をある特徴に分けて細分化し──時に誤ることはあれど、それぞれを紐づけて区別し、そしてものをものとして認知する、という作業はわれわれ人間にも備わっている基礎的な思考である。そんな単純な仕分け作業を、しかし気が滅入るほどのそれを、きっとこなしてこそ知能は知能らしくなっていく。人間がその仕分けのプログラムを単に打ち込むだけでは意味がない。それでは単に、その処理がこなせるだけの計算機と変わりないのであって、限られた処理をこなすという以上の働きをなせるようになるには至らない。知能が知能として役に立つには、その知能そのものに情報を精査する知的システムの構成をさせねばならない。すなわち、人間のすべき仕事はその素養を植え付けることなのである。
     それを自力で編み出すことのできる、第二の人類をそこに見出す必要がある、のだ。

     *

     ついに、ついに完成した! 目の前で美しく眠るヒトの冷たい素肌を撫でながら、零は溢れる笑みを禁じえなかった。閉じられた瞼は真っ直ぐな長いまつ毛に縁取られて、整った鼻先が上品に顔の中央に鎮座している。濃緑の髪がゆらゆらとこのラボの暗い照明に照らされてぼんやり光る。なんて美しい、最高傑作。
     パッと見て、誰が見てももはやこれは人間以外の何ものでもなかろう。柔くラバーの皮膚に覆われたそのやけに整った顔や体躯の奥底に、実は冷たい鉄とブリキが隠されているなど思うまい。血管がわりに電線が、関節がわりにモーターがついていることをまったく感じさせないその完璧な容姿は、ずっと追い求めたあの──蓮巳敬人、そのものなのである。零は一層口角を大きく上げる。何やら久しぶりに動かした表情筋が少し痛いけれど、そんな顔の表層を覆う筋繊維のことなどどうでもよかった。高鳴る胸の鼓動だけが正しくこの高まりを喜んでくれる。
     この子の中には、正しく『知能』が備わっている。未だスリープ状態にあるこの機械がそれをどう構築するかは今後の学習次第。ひどく胸が高鳴った。正解を知らないというのは、そしてその正解をこれから作り出すは自分なのだというのは、これほど胸をくすぐる高揚を人間に与えるものであったか。
    「……敬人、目を覚ます時間だ」
     彼の眠る寝台に備えられた充電コードを引き抜いて、耳裏にあるスイッチをかちり、と押した。少し鈍い起動音が小さく鳴る。よくできたこの美しいヒューマノイドがパチリと目を開けると、夢にまで見た若葉色の瞳が零を捉える。何の表情も浮かべぬまま、しかしただ対象物である自分からフォーカスをずらすことのないよくできた機械の目の奥にあるカメラを見つけると、その唇に零は小さくキスを落とした。よくできる知能には、それなりの報酬を。正しく動作できたことを、認めてやらねばならない。プログラミングの鉄則である。
    「敬人……、俺の…………」
    「……?」
    「ああいや……、ようこそ、お前の世界へ」
     ぱち、ぱち、と瞬きを繰り返す敬人がいとけなくて、どうもまなじりが下がるのを止められそうにない。もう、一人ではない。自分の瞼の裏にだけ焼き付いていた幻影がついに、我が友としてこの家にやってきたのだ。依然としてこちらを幼児のようにじっと見つめている人型機械の、植え付けたばかりの艶のある髪の毛をやさしく梳いた。
     ああ、すこし休憩をしよう。指の隙間をすべるなめらかなナイロンを感じながら、遠ざかる視界をそのまま手放した。

     とんとんと背を叩かれる感覚で零は目を覚ました。どうやら昨日──正確に言えば眠りにつくまえ──の自分は敬人の完成に興奮してそのまま気絶するように眠ってしまったらしい。自分の背を叩いた張本人であるこの精巧なヒューマノイドは、表情の抜け落ちた顔でじっとこちらを見つめている。まあ抜け落ちた、というよりまだ備わっていない、と呼んだほうが正確なのだが。少し重い体を脇から持ち上げてこの子を自分が寝ていた台に座らせてやると、特に何をするでもなく瞬き以外の動作をやめてしまった。
    「おはよう。起こしてくれてありがとうのう、蓮巳くん」
     この子に報酬のキスを。目覚め一番のフレンチキスは、新品のゴムの味がする。
     朔間零の一日は、だいたい夕方の四時くらいに目を覚ますところから始まる。適当にインスタントのコーヒーでも飲んで自分の眠気を何処かにやってしまってから、自分の研究に手を伸ばす。毎日毎晩──零の場合、日、というのはほとんど存在し得ないのだけど──そんな風にラボに篭りきりで、時々気分転換にでもとこの無駄に大きな屋敷を散策するのが趣味なのであった。屋敷に今現在住まうは自分ひとり。自分が寝ている日中にお手伝いさんがそれなりに家事をこなしておいてくれるほか、ときおりこの国に来るときに弟をはじめとする親戚などが一部屋借りて行ったりしているらしいが、いまいちそんな人の出入りは把握していなかった。めでたく研究ばかの引きこもりの出来上がりといったところか。
     まあしかし、このところ研究と言えども、この蓮巳敬人型のこれを設計通りに作ることばかりに熱中していたので、ラボというより工房に篭るほうが多かったのだけれども。久しぶりに鉄の香りのない目覚めである。なんとなく気分がいいので、スクランブルエッグでも作ってパンと食べようかと思う。
    「おいで」
     軽く手招きをすると、敬人は腰掛けていた台からゆっくりと立ち上がって零を追いかけてくる。証拠のように大理石の床の上をぴたぴたと可愛らしい音が跳ねていて、少しおかしい。なるほどこの子を覆うラバーの皮膚は、それなりに役をなしているらしい。
    「いいかえ。おぬしの名前は蓮巳敬人。こんど文字を教えてやるから、その時に書けるように頑張ろうの。わかったかえ?」
    「?」
    「……はは、言語中枢の発達……、そうか、そうじゃろうな」
    「げん……」
    「賢い子じゃ。いやはや、わりかしその大きな図体でも、かわゆくみえるものじゃのう」
     百七十八センチメートル。体重は材質の問題で少々重めだが、見た目としては痩せ型であろう。しかしそれを感じさせない動きの軽やかさと自然さは、朔間零の使い果たせない年月をかけてできたものであって──、なにか零は、混濁した達成感を得るのである。
     かぶせるように敬人着せておいた薄手の浴衣がすこし余りすぎているような気がするけれど、さながら月下美人にも近しいやわらかで艶やかな美貌のうえではそんなことどうでもよくさえあった。深藍色の浴衣と、夏の雪と見間違うほどの素肌とのコントラストに目を細めながら、少々開きすぎてしまった襟元を正してやる。正直こういった和装のお直しは本来、零の領分ではないのだけれど、彼がそう乱れた格好をしているということだけはどうしてか、似合う気がしないのだった。
    「敬人、こっちへおいで」
     零が直してやった襟元を自分で抑えながら、敬人は大人しく零が手招きした先へとついてくる。素直にこちらに駆け寄るようすは、成熟した見た目に不似合いなほど幼い。金属とゴムとでできた己の身体に弄ばれて前重心で転がるように歩くさまはまるで小学校低学年がそこらの児童そのものである。
    「今日はフラッシュカードテストをしようかの。大丈夫、おぬしは賢いから」
     敬人はぼんやりした顔のまま、零の腰掛けた木椅子の目の前にある絨毯の上に、くしゃりと座り込んだ。ぼうっと、零の持つカードを見つめたまま、今か今かと何か、その指示回路に伝う何かを求めていた。
    「いいかえ、今から見せるものをおぼえるのが、まずおぬしのやらねばならんことじゃからのう」
     こくり、と敬人は頷いた。いじらしいほど幼なげに、しかしたしかに、そのうなずくという動作をやってのけた。この古ぼけた、しかし甚だ豪奢なおもかげをのこす洋館に不似合いな浴衣の襟を緩めながら、この生まれたてのヒューマノイドはそう反応して見せたのである。実際、敬人はとても優秀な知能だった。表情、仕草、感情、記憶、その全てにおいて、零が与えた教材の数々は敬人のじゅうぶんな素養を育てるに大いに役立ったといえよう。
     たった半年だった。半年もすれば、零が求めるとおりの受け答えをするような、あたかも感情を持つがごとく正しく動作するものとして「成長」したのである。

     *

     クローゼットから少々草臥れた綿のシャツとスーツのセットアップを取り出して、それをそれなりに丁寧に着込んだ。いやはや、普段はこんなにかっちりした格好をするようなたちではないから、何かそれだけで背筋が少しばかりしゃんとするような気がするのだが──、まあいい、ともかく零は、あと髪の毛だけそれなりに整えればよいという程度まで支度を終えつつあった。
     袖元のカフスを留めながら先ほどのラボに向かえば、変わらず敬人は窓辺のソファーに腰掛けて眠っている。端正な顔を一切歪めるでもなく、きっちりと瞼を閉じやったままそこにただ在る、という具合だった。彼の手首に繋がるコードの先が緑色に点滅している。これは、充電完了の合図なのである。零は敬人の手首をそっと手にとって、その不自然な重みを左手に受けながら右手でそっとコードを引き抜いた。それからそのソケットを覆い隠すように手首の蓋を閉じてしまうと、うなじの付近にある電源をかちりと入れる。敬人は緩慢な仕草で瞼を開けると、わざとらしく眩しそうな顔をした。
    「おはよう、敬人。準備をしよう」
    「……んん」
    「ちょうど2時間程度じゃよ。きっと出かけるくらいならバッテリーも問題なかろう」
     いわゆるバッテリーというのはどうしても摩耗するもので、ずっともともとの持続力を維持できるということはない。しかし、敬人に搭載されているそれはそもそもそんなにヤワな代物ではないから、きっと多少出かけて帰るほどならなんの支障もないだろうと零はふんだ。そもそもこの屋敷から数十分も車を駆ければ街という具合であったし、敬人のバッテリーは新品とはいえなくても、まだまだそう劣化した物でもないのだから。
    「ありがとう、朔間さん」
    「なあに、礼を言うほどのものでもないじゃろう。お食事みたいなものじゃし」
    「それもそうか」
     敬人はすっくとたち上がる。ソファがあるべき重みを失って軋んだ。
    「それであなた、きょうはけっきょく、街まで出て何をするつもりなんだ」
    「そうじゃった。今日はお買い物にでも行こうかと思ってのう」
    「買い物?」
     敬人は小さく首を傾げる。普段単に買い物ならお手伝いさんがやってくれるじゃないか、と言わんばかりの表情であった。零はそれがおかしくてかわいくて、くすくすと笑いをこぼし、付け足すように言った。
    「ほうら、服を見繕ってやらねばならんし」
    「……誰の?」
    「おぬし以外におらんじゃろう。ほら、あんまりレパートリーもないし」
     敬人と零とは幸いそんなに体格に差がないので、いつも敬人は零のお下がりかなんかを着ていることがだいたいだった。そもそも敬人は発汗しないから、そうこまめに装いを新たにすることもこれまでなかったのであるが。
    「とりあえず今日は、そこのを着るとよい」
     零は実験台の上に投げてあるスラックスとシャツ、セーター、それからウールのコートを指差した。敬人は小さく頷くと、ハンガーの柄を纏めて持ってしまってから、「着替えてくる」とだけ言ってラボを出ていった。

     *

     零も敬人も、小脇にそれなりに大きな紙袋を抱えていた。その中には敬人のための冬服(中には、春先まで着られそうなものもあったが)が詰まっている。ついでに言えば、今日テーラーにまで行って敬人の寸法を測らせたので、手元の紙袋以上にあと二、三着服が増える予定ですらあった。濃紺の上品なスリーピースが届くはずである。この青年がそれを着た様子を想像するに、きっと似合わないはずがなかった。零はひとりでに頬を緩め、そして歯の表面を掠めた冬の冷風に痛みを覚えた。
    「こんなにいいのか? というか、俺は一体しかいないんだぞ」
    「……どういう意味じゃ」
    「こんなに服があったって着る機会がないと言ってるんだ」
    「よいよい、またお出かけすれば良かろ」
    「全く……」
     今日のお出かけはおおむね予定通りである。車で数十分走ったあと、数軒の服屋とテーラーを回って終わり。敬人にとっては初めてのお出かけとなったわけだが、零以外の人間の気配に異常をいたすこともなくいたって落ち着いていた。いわゆる成功、と言っていいだろうと思う。ひとつ誤算といえば少々寒すぎることくらいだろうか。指先が悴んで、紙袋が少々食い込んで仕方がない。今は──氷点下にくだらなければいいのだが。そう、零はぼんやり思っていた。まあすぐに暖かい車の中に移動することだし、そう気にすることもないような気がした。
    「そろそろ帰ろうか」
    「ああ。車は向こうに?」
    「うむ」
     街のざわめきは絶えることがなかったが、やっとのことで乗ってきたビートルを見つけた。濃紺の車体はこぢんまりとしていてそれなりにタッパのある男二人で乗るのは少々窮屈だったが、そう毎日乗るものでもなし、気にするほどでもなかった。敬人が先を駆けていく。転びやしないだろうかと親心のままに眺めている。
    「Excuse me, Excuse me.」
     ふと、自分の肩が軽く叩かれているのに気がついた。なんだ、一体。誰が自分に、なんの用があって? 零は小さな、疑問にも満たないようなそれを抱いた。三度目くらいでやっと、振り向くと、相手の男はひどく心配げな顔をして、手元に紙袋をこさえていた。
    「Excuse me, I saw you drop the……」
     要件をすらすらと英語で述べようとしたその男の目線が、零のそれとぴったり重なった。薄い新緑の縁がぼやけた瞳をまつ毛の生え揃った瞼が覆い尽くしている。零は、それを何度も見たことがあった。ただ、瞼の輪郭だけがかつてより柔らかで、その変化については、見たことがなかった。
     すなわち、目の前にあるは見知らぬ、敬人なのである。
    「……朔間? あんた、朔間じゃないか?」
     見知らぬ敬人というのは、無論自分より先に車に駆けて行ったあの子ではない。まさしく、蓮巳敬人がいたのである。零の旧友で、学友だった、あの、蓮巳敬人である。濃緑だったはずの髪には少々の白髪が混じり、しかしどこかしゃんとした、そんな印象を受けるこぎれいな初老の男がそこに立っていた。
    「はす、みくん……ひさ、しぶり」
    「ああ、久しぶり……あんた、院出てからどこにもいなくなってしまうから。どこのラボにもいないと聞いて……、まさか、四十年越しにこうして異国の地で会うなんて」
    「もうそんなに経って」
    「それはそうだろう」
     あんたはあんまり老けないな、と敬人は苦笑する。先に行っていたはずの『敬人』が何か異変でも感じ取ったか、そっとこちらに戻ってきた。小さく相手の敬人に会釈だけよこすと、零の背中に半ばくっつくように構えたらしい。背後にそんな、気配だけを感じた。寒い。冷たい風が、脚と脚の隙間を掻き分けて通り過ぎていく。
    「その子は?」
    「あ、ああ……この子は、のう」
     敬人はふと言い淀んだ零を見て、何かを探るように零の心のうちを覗き込んだ。そしてゆらりと零の後ろの青年に見やってから、驚いたように急激に息を吸い込んだ、ようだった。敬人は今度は深呼吸でもするようにゆったりと息を吸うと、零の揺れる視線の先を捕まえたと言わんばかりに目元を締める。
    「……地球上には、よく似た人間が三体はいるらしい」
     静かな語り口だった。周りの喧騒がすべて去ってしまって、この一瞬、彼の台詞を聞くためだけに用意された舞台が目の前に現れたかのようですらあった。
    「それを、人はドッペルゲンガーと呼ぶ。そんな、都市伝説があるな。あんたも知ってるだろうが」
    「ああ、そうじゃのう。我輩も知っておるよ。その伝説については」
     敬人は言葉を続けた。言い淀む様子もなく、はっきりと。
    「……そして、まあその都市伝説の続きはあんたも知る通りだろう。人間は、自分のドッペルゲンガーに会うと死ぬという」
     はは、と乾いた笑いが聞こえる。敬人は特段笑みを浮かべていないから、この声は自分のものなのかもしれないと思う。喉の奥に何かが張り付いたような渇きを感じた。気管支の奥にさえ、何か流れ込んできそうな具合だった。いわゆる、針のような痛みが。
    「この場合、明らかに自分と歳が離れていたって有効なのか……まさか、あなた……、貴様とて知るまい。まあ、この場合この子供が『ドッペルゲンガー』なのかは果たして俺の知ったことではないがな」
     敬人は小さく笑った。それから、「俺がもしこのあと早死にしたとしたら、きっと噂も貴様も、本物なんだろうな」となにかジョークでも言うように付け足して彼は肩をすくめる。敬人は、『敬人』の肩にそっと触れた。『敬人』が小さくそれを振り払ってから、敬人より幾分幼い声で「……すみません」と謝る。敬人はそれを、手を軽く振って気にするなと言わんばかりのポーズをとった。そして敬人は、数秒地面を見つめたまま黙り込んだ。言葉を探しているのか、何か思考を整理しているのか、それともその両方か、敬人はただ静かにその時間を埋める。息の音がした。この、街中の静寂を破るはきっと、敬人の吸う息の音くらいである。
    「朔間さん。あんたの作った幼年の『俺』は、かわいいか? それとも──」
     そう問うた敬人の頬には、零の隣に並ぶ『少年』とは打って変わって目尻に柔らかな皺が刻まれている。彼の生きた年月、そしてそのうち見慣れないぶんは、零と会わずにいた年月を明確に知らせていた。もう、零は数えるのもやめてしまったけれど。
     美しかった。写真で見る若き日の彼よりもなおますます美しいこの男には、何より意志があった。一生だれのものになどなるわけがない、眩しく真っ直ぐで、囚われることもない。淡く新緑に光っていた瞳は大人びて深い色を増し、そのふちが鈍くぼかされていた。そうでありながらも、眼鏡の奥からこちらを正しく狙い射抜く眼差しは、衰えることのない鋭さを併せ持っていた。もはや、その鋭さを増していると言っても良かった。聡明で、挑戦を厭わない、対峙したことのない果敢さである。
     零は先ほどの敬人の問いには答えなかった。およそ軽やかとはいえない空気が間に落ちる。敬人は数秒だったか、それとも数十秒だったか、もしかすれば数分、零の答えを待っていてくれたようだったが、それをやめてしまえば痺れを切らすように自分の時計を確認したのだった。
    「それじゃあ。再会を祝して食事にでもと思ったが、あいにく予定がある」
     また会おう、朔間。そう言って、敬人は小さく一礼をする。敬人はやけに上質そうな、キャメル色のテーラードジャケットをゆるりと翻す。誰と食事に行くのか、もはや零に見当もつかない。もしかすれば、学会の類なのかもしれなかったが、敬人のプライベートなど、もはや知る由もない、自分の手のうちにないも同然のものだった。この数十年──敬人は、四十年と言ったか──、自分が捕まえられるのは、彼の功績の尾っぽだけである。輝かしい彼の、四十年の思考の旅を、零はそっと追うだけであった。
     一丁羅のスーツの裾を後ろから柔く引かれた。ふと振り向くと、見慣れた若き日のきれいな『蓮巳敬人』がいる。零を慰めるようにこちらを上目遣いで伺う子供のようなしぐさを持て余して、小さく肩をすくめた。目に馴染んだ『敬人』は相変わらず零の左腕に手を添えたまま、形式的に震えてみせた。零は、祈りでもするかのように右手でそれをいなす。
    「さく、まさん」
    「いいや、敬人。いいんじゃよ」
     ふともう一度前を見やる。年相応に広くなだらかなあの憧憬の背は遠ざかって、もう零には見えなかった。見えなくていいのだと、そうも思った。
    「いいや、違うんだ、朔間さん、眠いんだ……やっぱり、足りなかった、かもしれない……」
    「おや」
     『敬人』はそして、添えていた手に体重を預けるように目を閉じる。もちろんそう軽いものではないが、しかし零はこの子をひょいっと抱き上げてしまえた。もう慣れたものだったからである。敬人が抱えていた分の紙袋ががさがさと音を立てて崩れていった。膝に敬人を座らせながら、その紙袋を纏めて持ち上げて、敬人の腹の上に置いて抱き直した。零は、閉じられた瞼に並ぶ長い濃緑のまつ毛に目を細めた。『敬人』の白く艶やかな頬の上には皺ひとつない。そういうふうに零が作ったのだから当然だった。
    「……この街の冬はリチウムバッテリーの適切な稼働条件外、か……やはり軽量化を意識するあまり保温機能を削ったのがまずかったか……のう、『十三号』」
     零は、腕の中の最高傑作のひたいにキスを落とした。役目を正しく果たしたものにはただしい報酬を。これは、プログラミングの鉄則である。
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    こいびとのつくりかた「またそんなところで寝て。身体を壊しても俺は知らないからな」
    「んん……、心配してくれておるのかえ」
    「まさか。忠告してやってるんだ」
     薄く瞼を開くと、夕焼けの差し込むラボにせかせかと生真面目な同居人──名を、蓮巳敬人という──が立ち入ってきているらしいことがなんとなくわかる。まだ自分の目は日差しに慣れないのであらかた光と影がぼんやり認知できるくらいのものだったけれど、この屋敷に住まうものは自分と敬人しかいないのだから、まあそれで正解と言ってよかった。いや、泥棒なんかが侵入していたら話は別だが。目覚め早々にくだらないことばかり考えてしまうのは、自分の悪い癖と言って良かろう。
     知らぬうちに床に伸びていたらしい自分の胴体の上を堂々と跨いで、敬人はラボの奥にあるキッチンもどきに向かった。もどき、というのは、単にバーナーやら何やらが並ぶ、調理ができる空間だ、というだけで、調理のための空間ではないことに所以する。ほら、我輩別にお料理に精を出すタイプでもないし。一日のうち、だいたい自分の最初の食事はそこで敬人が準備してくれるものだった。まあ本格的なキッチンでもなし、用意してくれるのは簡単なスクランブルエッグとトースト、コーヒーのセットといういかにもシンプルなものだったが、しかし目覚めには十分すぎると言っていい。きょうもどうやら、いつものメニューらしい──インスタントコーヒーの香りが強く立っていよいよ自分を目覚めさせようとしてくる。なるほど、もう一日を始めるべきらしい。
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