「帰っていたのか…」
そうキッチンに声をかけるとパーティションの隙間からこちらを覗き込み自分を確認して、また姿を消した。コンロに火を入れる為なのはわかっているが、無言で作業に戻られると気になるものだと、ダイニングテーブルを過ぎてキッキンの中へ向かう。
「お前も随分遅いな?もう寝てるかと思ったぜ」
丁度火がついたのか身を起こして鍋の蓋を開け、ベードルで鍋の中をぐるりとかき回した。お前も食うか?の問いに首を振って柱に寄りかかりその光景を眺める。待ち切れないのか、何度も鍋の中を覗きこむが、温まるには多少時間がかかるだろうと見切りをつけてその場を離れ、テーブルの上にあるサンドイッチに手を伸ばした。
「風呂は?」
「いや?食ったらすぐ出る。時間が早いわけじゃねーんだが…できれば向こうで用を済ませたいんだよ」
「なるほど?」
納得とは遠い返事をして、彼の代わりに火の前に立った。ふつふつとシチューの上面が揺れて食べごろまでもう少しと伝えてくる。ザックと同じように鍋の底をかき混ぜて、ふと考えが行き着く。それは自分の口元を綻ばせた。
根無草で各地を転々とする彼なら、次の行き先で食事を取ることも、体を休める事もできただろうに、わざわざラベンダーベッドまで来たのだ。何のために?思い当たる理由など多くはないし、どれもこれも結局元を詰めれば一つしかない。
「ブランの飯が恋しくなったか?」
「……っつ!!」
放り込んだ二つ目のサンドイッチを少し喉に詰まらせて、忌々しそうにこちらを睨んでくる。
「…わりぃかよ…笑うんなら笑えって」
「まさか?意外だと…思っただけだ」
気持ちはわかるさと続けて、十分に温まったシチューをよそる。白い湯気を立てたそれが自分達の為に作られている事は知っている。いつでも好きな時に好きなだけ食べていいと、時間の合わない事を気にしないでと言う彼の優しさなのだ。
スプーンの先端をシチューに沈めてザックに手渡す。皿の底から感じる温もりは身体だけではなく心も緩めてくれるだろうと、想像に難くない。皿の中を見つめ眉間の皺を解いた彼が自分を見上げる。
「お前は…ああ、いらないって言ったか…」
「いや、少しだけ貰うかな」
「…?食ってきたんじゃねぇのか?」
「……寒いしな…」
一瞬首を傾げたが、手の中の温もりを取り込みたかったようで、気のない返事をしてテーブルに戻っていく。
確かに食事は出た。美しく彩られた小さな料理がいくつも。ただそれらは多少の腹の足しになった程度で自分を満たしてはくれなかったと思う。
小さな木の器に半分程度をよそり、ザックの後を追いかける。決まった席に座り一口。
「…旨いな…」
「そりゃそうだろ、今更」
呆れながら同じ様にひと匙づつ口に運んで。スプーンと皿が触れ合う音がしたかと思えば立ち上がり、キッチンに消えて、また席に座る。手にした皿からは温かな湯気が立ち上っている。
「よく食べるな…」
「旨いからな」
短く、当たり前にそう言って全て平らげる。そう、いつの間にか当たり前になった。ここで過ごす時間が増えて、食事をして眠る事が。彼が…ブランが用意するモノが自分をザックを心も身体も満たしてくれている。湧き上がるのは愛しさと温もりで。
皿を下げたザックに後はやっておくと言うと、すまなそうに礼をいい、そのまま出かけて行った。予定を詰めすぎだ、と小言を言う暇もなかった。
食べ終わった自分の皿と全てを片付けて、階段を上り、静かに個室へと足を入れる。微かに聞こえるの穏やかな寝息と衣擦れに誘われて、彼の隣に横になった。閉じられた瞳が開いて、色の違う両眼と合う時を楽しみに、そっと眠りについたのだった。