星空に赤い果実(何をしてるんだ、おれは……)
疲労と空腹に苛立ちながら、採ったばかりのリンゴを数個、火の近くに転がす。
池のほとり。岩室の中でパチパチと薪がはぜる。
(はぁ……つっかれたぁ)
膝を抱えて、一つため息をもらす。疲労からか。それとも空腹からか。はたまた、気だるい体で動き回ったせいか。体はずしりと重く、頭は回らない。
リンゴに火が通るまで、ただ舞い散る火の粉を見つめるくらいしかしたくなかったし、もう指先一つ動かすのも億劫だった。
どうやら動き過ぎたらしい。
もっとどこまでも走れると思ったし、もっと何でもできた──気がする。
気持ちだけが、先に、先へと行く気がする。その後を体がのんびりついてくる感じだ。
正直、もどかしい。まっさらなくせに、不意に湧き上がる感情があって。懐かしさ、疑問、逸る気持ち。それらの感情に疲れてしまった。
短い時間に何だかすごい経験をした気がする。どこかから美しい声が呼びかけてきたり、高い塔にのぼったり、不思議な老人に宝探し。
(初めての事ばかりだ)
そう思いついて、つい笑ってしまう。初めてなのか、そうでないのか。そんなの空っぽすぎてわからないじゃないか。
笑い声がとめられない。ひとしきり笑って、ため息を一つ。
「なんじゃ。何が面白い?」
焚き火をはさんだ向かいで船を漕いでいた老人が不意に目を覚ました。眠たげに口元を動かし、瞬きしながらこちらをうかがってくる。
フードからのぞく老人と目があった。灰色の瞳なのだと、この時初めて気がついた。何か違和感を感じたが、やはりなぜかわからない。
それも今日で何度目だろうか。ついにこの状況にがっかりしてる自分に気がついてしまった。
「……何でもないよ」
動揺と失望を隠して、そっけなく口にしながら手にした木の枝で薪をつつく。薪が怒ったように、大きく音をたてた。
「あまりいじるな。火にあたっててもいいが、気をつけるんじゃぞ」
言うだけ言って、老人はまた夢の中へと帰っていった。すぐに夜の気配に寝息が混じる。
それは静寂に混じる雑音だが、今はほんの少しだけ心地よい。
(疲れた……)
耳を傾けぼんやりしていたら、頬がすぐに熱をもった。揺れて空を舐める様にあがる炎に見惚れていると、瞳まで赤く染められて、危うさにそっと瞼を閉じた。
すると、今度はそこに熱を感じる。荒々しくて、一つ間違えると手がつけられないから目が離せないのだろうか。
「あっついや」
独りごちる。
(あそこは、ただあたたかかったな……)
今朝、目覚めた場所を想う。ひんやりとした静寂だけが横たわる場所だった。どこか知れないし、なんであそこにいたのかもわからないが、ただ目覚めた時の柔らかな優しいあたたかさだけが残っている。
(今からでも戻ろうか……)
ふと思い立って、目の前の丘を見やる。すでに部屋に続く階段は夕闇に隠れ、岩と木々がかろうじてその輪郭をうかがえた。
過ぎった考えは、一瞬とても魅力的に思えた。
しかし、すぐに理解する。あそこには何もない。
何にも侵されることは無いけど、ただそれだけだ。
頭をふって、馬鹿げた考えを振り切る。
自分は何処かへ行くのだ。たぶん、あの美しい声が呼ぶあの城へ。自分はどこからきて、どうして行くのか。何者かも分からずに。
ただ、胸の奥の絶え間なく湧き上がる感情に突き動かされ、足が、腕が勝手に動くのだ。
理解できぬもどかしさは、苦しみに。苛立ちに変わる。そんな原始の感情すらはじめての事で、抱えきれず衝動的に手にした木の枝を手折る。
バキっ、バリンと、割れた生木が離れがたいとばかりに筋を残して離れない。
忌々し気に一つにまとめて、そのまま火に焚べる。
そして、大きなため息をまた一つ。なんだかすっきりした気がして、すぐ胸いっぱいに大きく吸って、吐く。このまま胸に少しづつたまり続ける何かも出て行けばいいのにと、何度か繰り返して思う。
空を見上げると、瞬く小さな星々があった。空一面に溢れた光の粒。こちらをずっと見つめているようだった。
(……あの女性の声は、この光みたいだ)
遠くで瞬く光は、どこか近く。手が届きそうで、決して触れることはかなわない。
美しいけど、陽の光に比べたら儚くて。けど輝く様は神秘的で、自分のふるう力とは別の強さがある。
「思い出して……か」
『ハイラルの光』と、言われてもぴんとこない。なんで自分なのか教えてほしい。1何かを願うのならば、なぜこちらの想いを聞いてくれないのか。
わからなければ、落ち着かない。なんでここまで突き動かされるのかを。声一つで喜びを。そして、泣き出したくなるような懐かしさを感じてしまうのか。
どうして今すぐそこへ行きたくなるのか、を。
思い出せば、この胸の澱はすっきりと晴れるのだろうか。なら行くしかない、と。そう決心して、遥か遠くに見えた城の方を見つめた。
不意に夜目の効く鳥の声がしたと思ったら、風が強くなった。首筋にひやりと感じる冷気に、焚き火ににじり寄る。
すると、どこかから小さな羽虫が現れた。風にさらわれぬ様に一生懸命羽ばたきながら、ふわりふわりと目の前を飛んでいたが、炎に誘われたのか、自らそこに飛び込み、音もなく消えていった。
一瞬、目を見張る。虫一匹の死に、大した虚しさもないし、悲しみもわかない。こんな事もあるのだと純粋な興味深さがあった。
そして、同時にどこか腑に落ちていた。そんな事もある。危険が待っているとわかっていても止められない。そんな事があるのだ、と。
「やっぱり君の方が光みたいだ……」
炎の中に自分を見た気がして、膝に顔を埋める。不思議と恐怖はない。気づいても逸る気持ちにかげりはない。そんな事すら驚き、どこか誇らしい。自分を知る旅になりそうだ、と。後から後から湧いてくる喜びに似た高揚感に、むしろ笑顔が浮かんだ。
すると、気が緩んだのか。お腹の虫が騒ぎ出す。リンゴの甘い香りも鼻先をくすぐった。現金な自分に少し気恥ずかしさを感じて、頭をかく。
ポーチからいらなくなった丈の短いズボンを取り出し、それで熱々のリンゴを包んで持つ。それだけでじわりと滲む果汁が指先に熱い。
たまらず、そのままがぽりと音をたてて齧った。
サクリと歯に少しだけ固く、芳ばしい皮の下は、柔らかく瑞々しい果肉。そこからあふれる果汁は、口角から溢れるほどで、甘酸っぱい熟れた香りが口腔内に広がった。
「んほっ」
美味しさに声をあげると、それは鼻から抜けていき、頭から全身へと体中に染み込んでいく様だった。
夢中で二個、三個とむさぼり食らい、五感と欲を満たす。腹はくちたのに、満たされたようで、満たされない。まだあの果汁や香りを欲していた。
近くの木を見やると、まだ上の方に実が残っているようだ。夜風に実が揺れている。億劫だけど立ち上がり、一番下にある枝に手をのばして、幹に足をかける。
(あと、ちょっとだけ)
明日の分は知らない。またこの木を探せばいい。宝探しのついででいい。きっとどこかで見つかると信じた。
上着の裾を返して、そこに一つ、また一つと採ったリンゴを抱えていく。
(もっと食べたいな。あともう少し
目の前のほら、あそこ。てっぺんにある最後の一つまでっ)
望む果実へ限界まで手をのばす。ぷるぷると足が、腕が震える。そして、ついに指先が触れると笑顔がこぼれた。
宵闇に小さく歓喜の声が響いた。
──林檎の花言葉は「選ばれた恋」。「最も美しい人へ」とも言われている。