それはきっとあなたとおなじ 77
それからどうやって家まで戻ったのか。ミルクとバターが入った籠をダイニングテーブルに置くと、リンクは椅子に腰掛けると両手をついて長く深い溜息を漏らした。
牧場から一人で抱えてきた『トコユのお詫びの気持ち』は予想以上に重かった。多分どころではなく、悪くなる前に二人では食べ切れない。手に入れた貴重な食材に反し、心はそれ以上の喪失感と後悔。そして、底のない空虚さを感じていた。
視線の端に、揃いのテーブルマットに食卓の花がうつる。視線をうつせば、洗濯物籠に二人分の汚れ物。壁には、誓いをたてたあの日の花がスワッグにして吊るしてある。どこからどう見ても夫婦が暮らす家だ。
しかし、中に暮らす男と女はどうなのだ。先程、ゼルダにのばせなかった手をリンクは見つめた。なぜできなかったのか。忸怩たる気持ちに、小刻みに震えそうになる手のひらを強く握りしめ、自身の額に打ち付ける。
「っんだ、おれは!……バカみたいだ」
悔しさがにじむ。どこか、わかっていたのだ。
祭りというきっかけに、逸る気持ちで二人一緒にその線を飛び越えた。
そうして季節を三つともに過ごしたが、越えた線の向こう側にもまた線が横たわっていた。幸せに酔いしれ、それを気に留めながら、いつか。いつかと気持ちを置き去りに、重ねたのは時間と体だけ。
自分にとって彼女は何であり。彼女は自分にとって何であるか。大切なことを言葉にしてこなかった。何度も愛を語らい、感謝も口にしたが、それでは足りないのだ。何でもない。ただ一人のハイリア人でなかったからこそ、必要な事だったのに。
痛む拳に額。リンクはのろのろと拳をおろし、息を大きく吸うと、今度は自身の両頬をぱんっと平手でうった。じんじんと広がる痛み。それがひいていくと、悩みもまた一緒に消えていった。
「さぁ、やるぞ! まずは洗濯だ!」
ハテノは、昔も今も鄙びた村であるが、今やこの国でハイラル人のコミュニティとしては一、二を争う人口と文化を有する観光地だ。
はじめてたどり着いた者は、積石を漆喰で整えた村の門を期待に満ちてくぐるだろう。まっすぐに傾斜を進むと、急に視界が開ける。山間に広がる平地と田畑。豊かな水源。美しくも厳しい自然にのまれようとしている国中で、百年前の豊かな田園地帯がそのまま残っている風景は、まるで奇跡の様だった。
西のゲルド族の都や東のゾーラ族の都にはだいぶ見劣りするものの、メインストリートには商店が立ち並び、文化を同じくする親しみを感じるだろう。
だが、ここが今やハイリア人の都かと思うと、どこか情けなさと頼りなさを感じずにはいられない。百年前の厄災の折、他部族の都がハイラル城と城下町ほど壊滅的状況ではなかった事をおいておいたとしてもだ。
それを知ってか知らずか。村の人々は、どこか閉鎖的で、今この瞬間の平穏というまどろみを享受していた。定住する土地を持たない。外にルーツを持つ者達の中には、自分たちハイリア人が危機的な状況にある事を感じずにはいられないだろう。何かあれば、自分たちハイリア人という種族は簡単に滅びてしまうのだと。
故に刹那的に生きる自身の信念を胸に村の門より去っていく。日々の平穏を求め、ここに腰を落ち着けようと考える旅人はいない。
村では昔から住んでいる者達が細々と血を繋ぎ、それでも一昔前よりは増えて家も足りなくなってきたほどだ。
それは商機であり、外からのぞいただけではわからぬ事もあるのだと信じる者もいた。村で唯一の生活用品を扱うよろず屋。イースト・ウインドの店主アカエゾである。
彼の家は代々続いてきたハテノの商家だった。
曽祖父の代に厄災に見舞われた際は、物が無い中。田畑を持つや家畜を有する者、手に職を持つ者からわずかなれど物と物、そして人と人をつなぎ、仲裁をなして、なんとか屋号を繋いだ。
今はハテノの品々を扱い、暇を持て余していた村の若者に農家から募った野菜を託して、麓から手に入り難い肉を運ばせ、それを農家に分配する仲介事業に手を付けたばかりだ。
加えて最近は、新しい商品を見つけた。客の反応も上場。だか、入手ルートは職人ではない一般人であり、村に最近引っ越してきた付き合いの浅い女性という所がひっかかっていた。
アカエゾは、特段、性差別の激しい人物ではない。彼の娘は甲斐甲斐しく働き、店を守る大事な看板娘で、それを認めて誇りにしている。
しかし、その女性は浮世はなれた美しさを持つだけではなく、家を守るどころか研究所に出入りしているらしい。自分の常識を外れた人物像がどうしてもひっかかっていた。もちろんだからこそ、店の目玉になる新しい商品はうまれるのだろうが。
アカエゾは一人思案顔で、それを置いていたカウンターすぐ横の、入口からすく見える店一番の場所を見やる。前は一番人気のフレッシュミルクが置かれていた。そこが空になって十数日とちょっと。真新しい木製の札には商品名と「売り切れ御免」と、アイビーが女性好きそうな文字で書いてある。その商品を気にしてか、家内やその友人だけでなく村中の女性が店に足を運ぶ頻度は明らかに増えた。
目当てはなくても、手ぶらで店を出るのはちょっと、と。ついでにミルクや米が売れる事もある。つまり、それだけ魅力的で価値の高い商品なのだ。
うつろいやすい客の気持ちが離れる前に仕入れたいが、あればあったで売れなくなる事も考えられる。ここは見極め時と、アカエゾは低く唸っては口元の自慢の髭を指で撫でつけ、店の扉を見やった。
アカエゾは顔見知りである彼女の夫。リンクを今か今かと心待ちにしていた。先程、娘からそろそろらしいと報せを聞いて、喜びに椅子からぴょんっと尻が浮いたほどだ。
「はやく来てくれんかな。そろそろご婦人方が来る時分なんだがな」
扉が開いたのは、堪らずそんな風にひとりごちていた時だった。
「おはよう」
「はいよ!おはよう!リンクさん、待ってたよ」
「そう? 待たせてごめん。なかなか忙しくて。はい。これ、ゼルダの作った石鹸。また買い取ってよ」
石鹸の包みが入った籠を受け取りながら、アカエゾは彼の抱えたままの盥をみた。布がかぶせてあるが隙間からのぞいた石鹸から、中身が洗濯物であることは明らかだ。
新婚の妻は外へ。旦那が家事と使いかと。そう一瞬頭を過る。そんな固定概念では商人として致命的と、すぐに思い直すが、培った常識はこびりついてすぐには落とせそうもない。ゼルダへの信頼はまだ当分、はっきりとさせるべきではないのだろうなと思った。
しかし、彼は生まれついての商い人。そんな事はおくびにも出さず、いつも客を迎えるとっときの笑顔を浮かべる。
「評判いいよ、これ」
「でしょ!」
「灰汁や羊のしょんべん使ってたけど、比べ物にならないくらい洗濯の汚れが落ちるしさ。臭いもないんですぐに売れちまう。うちの家内も虜だよ。全部もらおうか」
「もちろん! あ、ゼルダが洗濯に使った水はなるべく水源に流さないようにって。引き続きお願いしますって。染め物とか生き物への影響の調査結果が出たら知らせるってさ」
受け取った色とりどりのルピーをポーチにしまいながらリンクが言うと、アカエゾもほくほく顔で一つ一つ状態を確かめながら商品を並べる手をとめた。
「おぅ、そうだった! 忘れず伝えるよ。包にも書いてくれたか?」
アカエゾが石鹸の包を裏返す。青の糸で結ばれた包紙の裏に、育ちの良さをうかがわせる筆跡で、注意書きが記されていた。使われる言葉がどこか古風で、少しだけわかりにくい。それに専門的過ぎると不評だが、そこはゼルダとの信頼を深めてからでもいいだろうと、見ないふりをしてそっと商品の山の上にそれを戻した。
「また、うちにだけよろしく頼むよ」
「うーん。なら買値にもうちょっと色を付けてほしいな。ゼルダが、今度良い香りをつけてみたいって、やる気出してるし。下まで降りれば、ゲルドあたりまで行く渡りの行商人もいるしねー」
「っかーー! 上手いね!」
「旅が長かったから」
心底やられたと悔しそうなアカエゾに、リンクはニカっと得意気に笑った。
「……ふらふらしてるもんだから考えた事なかったが、うちのアイビーの婿にもらっとけばよかったよ。まぁ、こんなすごいもん作れて、あんな美人じゃあ、うちの勤勉で可愛い自慢の娘でも太刀打ちできないかもしれんがな」
「アイビーならもっと良い人出てくるでしょ。あんなに可愛いし」
「そうか? そうだよなぁー! わかってるじゃないか! ……誰かいないかね?」
「本人に聞いてみたら? 好きな奴と一緒になるのが一番だよ」
あっけらかんと惚気けるリンクに、アカエゾは面食らった表情を浮かべた。好きあって添い遂げるという事は、この村では彼の代にもまだ物語の中の話だった。食うや食わずの少し前の頃は、親同士が決めて、生きるために結ばれた。
だから目の前の男や粉挽きの夫婦は、村に吹く新しい風だった。商売人にとっては、注視すべき変革の気配を感じて、アカエゾは目を細めた。
「ははっ、確かに違いない!」
「あ、話が戻るけど、石鹸の香りなんだけど、何がいいか相談させてくれって。ゼルダが」
「俺にかい?!」
「自分の好きに作って、村の皆の好みに合わなかったら申し訳ないからって。ほら、おやじさんなら好みや流行りに詳しいだろうからって」
そう言って、リンクは店の奥のハーブスワッグを指差した。村を出てすぐの森に群生する花に、ラネール山など寒冷地に自生するハーブがまとめられていて、店内はいつも良い香りがしていた。
「おれでいいんなら、喜んで相談にのるよ」
「よかった。絶対、喜ぶよ。悩んでたから」
「へぇー。ゼルダさんも悩む事があるのかい?」
「悩むよ。色々ね。お店に来るたびに棚を空けたままにさせて、申し訳ないって気にしてた」
「なんだい! そんな事、気にしなくていいんだ! そう、伝えてくれよ」
「安心すると思う。あ、香りの好み、奥さんにも聞いていい?」
リンクはいつもの井戸端会議会場の方を指さした。アカエゾは苦笑を漏らす。アマリリはアカエゾの愛妻ではあるが、最近は友人がよくない。
その友人にはしっかりした息子がいて、娘から手が離れた喜びに、毎日手に汗より口に泡ばかりだ。二人とも怠け者ではないのだが、最近どうもたるんでいる。少し家業に混じれば、また張り合いも戻るだろうかと、リンクからの提案はアカエゾにも好都合だった。
「そりゃあ、あいつも喜ぶよ」
「ほんと? やった!」
「頼られるって事は、うれしいもんだ。気軽に声かけてみてくれよな」
リンクは小さくガッツポーズをとると、アカエゾも満更でもない顔で笑顔を浮かべた。そこで、ふと気がついた。あの美しい娘にも、悩みはあり、人に期待されて喜ぶのだ。自分達と同じ様に、と。
「じゃあ、また。今日は無理だけど、また近くゼルダと寄るよ」
下に置いた盥を手に、リンクが手をあげ背中を向けた。農業をやるそれではない。特段、腕も太くはない。ただ旅人というには、不思議と何かを成した自信が漂う。
そんな男が盥で汚れ物を洗い、女のご用使いをし、そして彼女の為に人と人の縁を結ぼうとしている。まるで彼女が主人で彼が侍従のようだが、はっきりと感じるのはその枠に収まりきらない、尽きることない愛情だった。
アカエゾは急に気づいたそれらに、言葉にならない何かが込み上げ、その背に声をかけた。
「っなぁ!……ゼルダさんに、ご精がでるけどよろしくって、伝えておいてくれないか」
「わかった。伝えるよ」
声に驚き、振り返ったリンクだったが、すぐに今日一番の笑みを浮かべた。
アカエゾは見透かされているのは、こちらなのだと思った。
「……待ってるよ。またよろしくな!」
「じゃ」
リンクを扉の向こうに見送り、外でアイビーと会話する声を耳にしながら一つため息をついた。
アカエゾは、どこか自分の事を視野の広い男と思っていた。知恵を使い、それを活かす柔軟性も持ち合わせていると自負していたのかもしれない。その認識を少し変えなくてはと思った。
あと、家族思いの男であるとも認識していたが、リンクと比べるとなんとも凡庸な男であったのかもと気がついた。妻の為に村での関係をさり気なく広げていくなど、なかなかできる事ではない。
「あーあ。商人として、でっかい損をした気分だ」
アカエゾは、今夜にでも娘の気持ちを聞いてやらねばと思った。親同士が決めた自分達の結婚でも、こんなに幸せなのだ。なら、好いた同士で夫婦になれば娘も間違いなく幸せになるのではと考えた。迷いなく言い切る、青年の表情を思い浮かべながら。