それはきっとあなたとおなじ 88
「ちょっといい?」
リンクが声をかけると、ハテノ村井戸端会議婦人会の二人はぎょっとした顔をした。
「な、なんだい?」
「何って、ここは洗濯場でしょ。ここ使わせてよ」
「ちょっとあんたが洗濯まですんのかい?」
「そうだよ」
リンクは言うなり、盥を地面に置いてごそごそと用意を始めた。石鹸を脇に置くと、こんこんと湧き出る水を備え付けの桶で汲んで盥の中の洗濯物にかける。水しぶきが陽の光を反射してキラキラと光り、盥の周囲にぽつぽつと水の染みを作った。
「ここは、女の社交場。じゃまだよ」
「ここって村の皆の場所って聞いたけど?」
わざと憎まれ口を叩いたナギコだが、リンクの言葉に言いかえす事ができず、ぐぬぬといった悔しげな表情を浮かべる。先日までフラフラ根無し草だった若造に丸め込まれては、村の先達の名折れと、何かもっともらしい事はないかと頭を巡らせる。
「す、炊事洗濯は、女の仕事じゃないのかね〜」
「どうかな? ゼルダも上手にできるけど、俺もできるし。今、家にいるのは俺だしね」
水を吸って透けてきた衣類に石鹸を擦る。その白くついた所を揉む様に洗うと、ぷくぷくと泡がたち、水も他の衣類もすぐに虹色にゆらゆらと輝きだす。それを見てリンクは綺麗だと思ったし、問われて改めて、洗濯は嫌いではないと気づいた。
ただハテノの湧き出る水は年中冷たい。今日は特に低い気がした。指先がもう凍えて、赤く染まり痛みを感じはじめる。
「まだ昼なのに、もう水が凍りそうだ!早く済ませた方がいいよ」
「言われなくても、やってるわ」
今度はアマリリがばつが悪そうに、隣にしゃがみこんだ。盥の衣類はまだ濡れていない。
「そうよ、そうよ」
その隣のナギコの盥も同じだ。リンクは黙って二人の盥にも水を汲んでやると、小さく謝意の声が聞こえた。
「あらやだ、本当に冷たいわ」
「本当」
「でしょ! はい。これ貸してあげる」
リンクが真新しい石鹸を差し出すと、ナギコとアマリリの顔がぱっと輝いた。
「それ! いいわよね!」
「いいの? ありがたいわ。前に買ったけど、もうなくなっちゃって」
「でしょ! 早く終わらせちゃうといいよ。長くやってたら風邪ひくよ」
それから三人は黙々と洗った。シャツにズボンに下着を家族分。布を洗濯板にゴシゴシと音がするまでこすりつける。手首まで真っ赤になって、冷たさや痛みなど何も感じなくなった頃、ようやく終わった。
リンクが石鹸の混じった水をできるだけ水源から離れた通りに流し、またそれぞれの盥にすすぎの為の水をやる。その頃には、ナギコもアマリリも素直に感謝の気持ちを表すようになっていた。
「助かったよ。石鹸まで貸してくれて、ありがとうね。あれを使うと洗濯が早く終わるから助かるよ。なんだか手の荒れも少しましになった気がするの」
「こんなの毎日やったら大変だよ! 冷たいし、重いし。やっぱり、ずっとおれが来るから、また混ぜてよ」
「ええ?!」
「ずっと、って?!本当かい!」
息のあった二人に、リンクは自分の手のひらを差し出した。ゴツゴツした豆だらけの手だった。皮の厚いそれでも、一度の洗濯で真っ赤になっていた。
「おれ、ゼルダの手が好きなんだ。きれいで、ふわふわで。寝る前にちょっとつないだだけで一日の疲れなんてどっかいっちゃう。だからさ。これはおれがしたいなって」
「あらまぁ!」
「ま!お熱いねぇ」
「おかげさまで」
それを聞いて、ナギコもアマリリもいつの間にかウキウキしていた。人の恋路の話は、甘く熟れたリンゴよりも好物だった。
すすいだ水も遠くに捨てる。二人の分も何も言わず、リンクがすすんで済ますと、ナギコとアマリリは顔を見合わせた。どこか得体の知れない青年かと思いきや、気が利くし優しいときている。
なんだか急にゼルダが羨ましく思えてきて、天邪鬼にもナギコにまた憎まれ口の芽が出てくる。
「私は、いいけど。このままだと、リンクさんが赤子の世話まで全部やりそうだわ」
「あ、赤子?!」
「なんだい! なんだい! そんな顔するたちだったんだね」
ナギコもアマリリも、青年の初心な反応に意地悪そうに吹き出した。リンクは、むっと口を真一文字に黙り込む。
からかわれたからではない。言われて初めて思い当たった事実──ゼルダの中に子が宿る可能性があるという事に、あらためて思い当たり、それどころではなかったからだった。それを彼女自身が望んでいるかどうか。それすら知らなかった事に愕然とする。
「そんなの……まだいらないよ」
だから余計に自分の浮かれっぷりが恥ずかしく、同時に情けなく感じていた。さらに今朝の不甲斐なさが思い出されて、リンクはむくれた様子で返す。それを勘違いしてか、ふふふふふと、ナギコとアマリリが勝ち誇ったように笑った。
「まだ、もう少し……や、もっとずっと二人きりがいい!」
清貧を常とし、清く正しく慎み深く。このハテノで生きてきた奥様方は、驚きに目を見開いた。そんな事は口にするものではない。と、注意したいのに村の森の池に泳ぐコイのように口をぱくぱくとさせるしかない。
こんなに正直に自分の奥方への気持ちを、他人に打ち明ける男は、このハテノには珍しい。いてもロダンテくらいだ。羨む心は、自身の常識の向こうまでは追いかけてこない。もちろん理解もだが。
しかし、どこか胸がほわりとあたたかく感じていた。それをナギコもアマリリもまだ気づかない。
「そ、そうかい……それは、まぁ、ねぇ!」
「そうそう。それぞれだもの!ねぇ!」
慌てふためき、恥じらい。二人は意味も分からず、頷きあう。
「あっ……でも、そうなったら、こうやっておれがゼルダのも赤子のも洗うのか。着るものも、よだれかけも、おむつも。何枚も、何枚も。……うーん、それはそれで楽しそうかもね」
そんな奥様方の気持ちを知らずに、リンクはふと思いついたと口にして、道に実るリンゴの様に頬を染めて微笑んだ。
「それは立派だよ!」
「そうね、中々出来る事じゃないわよ!」
そうかなぁと、リンクは照れた様子で頭を掻く。
「うちのなんて、畑の様子ばかりで、なぁんにもしやしなかった」
「そうよ。そうよ。うちも店が忙しいって。ここにいて、人が来たら戻ればいいだけなのにね」
「そうよ!」
「そうよねっ!」
積年の恨みという言葉がある。しかし、短くとも辛く苦しい日々の恨みは、些末な事で合っても消える事はない。そんな事が如実に感じられて、リンクはまた一つ。心の手帳に新たな一行を書き留めた。
有益な会話であったが、耳を傾けながら衣類を絞り、すでに洗濯は終えていた。
当たり障りなく相槌を打ちながら、リンクはここぞという会話の隙間に「あ!」と、声をあげた。
「なんだい?急に?」
話の腰を折られたと、ナギコは不満気にへの字口だ。
「ごめん。知らせたくて。洗濯に使う石鹸。さっきアカエゾさんに渡したから。また店に出てると思うよ」
「なんだ!そうかい!それなら帰りによってこうかしら」
「あら、ありがとう。あの人、喜んだでしょ。私もあれ好きなのよ」
二人ともソワソワと店の方を振り返った。
「それでさ、ゼルダがね。今度は石鹸に皆が好きそうな香りをつけてみたいって張り切ってる。けど自信がもてないみたいで。良かったら今度どんなのがいいか。好きな香りとかあったら教えてあげてよ」
「ゼルダさんが?」
「本当に……?」
二人は怪訝そうに顔を見合わせた。
他の村人同様に、二人にとっても、ゼルダはどこか空気の違う、自分たちと同じようで異にする存在だった。同性であるが故に、美しく聡明なだけでも、やっかみと比較されたくないという卑屈な気持ちも混じり、近寄り難さを感じるものだ。それに加えて、どこかそこに在るだけで放つ物がある空気も、またそれを増長させる。
だからだろう。嬉しいと笑い、悲しいと涙をこぼす。思い通りにならなければ、何が原因だったのかと悔いる。そんな当たり前に自分たちと同じ気持ちになるという事が、すぐに受け入れがたいのだ。
「お礼はするよ。そうだなぁ……きび砂糖たっぷりのプリンとか。タバンタの小麦を使ったお菓子でもてなすよ。ゼルダも大好きでさ、作ると、くるしくなるまで食べ過ぎちゃうんだ」
「へー。ゼルダさんがねー」
ゼルダがお腹いっぱいな時に見せる仕草をリンクが真似ておどけてみせる。すると、二人はクスクスと屈託なく笑った。その顔には先程までの硝子の壁が少し薄くなった気がした。
「わかったよ」
「便利なだけじゃなくて、使う度にいい香りがしたら素敵だわ。洗濯もすすんじゃうわね」
「そう? ならよかった。じゃあ、都合いい時、教えてよ。また声かけるから」
じゃ、と。素っ気なく挨拶をしてリンクが去ると、二人は顔を見合わせて、小さく吐息をもらした。
「ふぅ。私、ちょっとあてられたわ」
「わかるわ。うらやましいとか通り越して、ごちそうさまって感じよ。お腹満腹。ホント最近の若い子は」
「……今度、またゼルダさんに話しかけてみようかね」
「そうね。そうしましょ」
山から吹き下ろす北風が、首すじを優しく撫でていった。